2013年12月31日火曜日

「内なる図書館」の国際貸借対照表

先週まで,10日間の台北に出張に行ってきた。滞在中の日曜,冷たい雨が降るなか,社会学研究所でオフィスメイトだった香港人政治学者のMingさんと,台北郊外の猫空にハイキングにでかけた。

久しぶりに会った友人と一緒に遊びに行くと,観光そっちのけで,おしゃべりに夢中になってしまうことがあるが,今回のMingさんとのハイキングもそうだった。ケーブルカーで山頂まで上がり,麓まで歩いて降りるというコースだったが,途中のランチタイムはもちろん,歩きながらも,ずーっとしゃべりっぱなし。

互いの研究のこと,台湾や香港の政治・社会運動のこと,日本で強まる排他的なナショナリズムのこと。最近みた映画やテレビの感想,香港人の台湾旅行ブームの背景。性別も,年齢も,生まれ育った社会も違うのに,なぜこんなに次々と話題が湧いて出てくるのだろう?

猫空の山。
Mingさんが,博学で好奇心旺盛で,話しやすい人柄だということが話の弾む最大の要因だが,アメリカでの3ヶ月の滞在を経て,香港の友人と話しながら改めて感じたのは,東アジアに生きる私たちが,国境を越えて一定の文化を共有しており,それが互いの「おもしろい」「美しい」「興味深い」といった感覚の共通基盤になっているということだ。

岡田曉生の『音楽の聴き方』(中公新書,2009年)に,バイヤールという哲学者の「内なる図書館」という言葉が紹介されていた。「内なる図書館」とは,私たちが読んだり,話を聞いたりしてきた本との出会いが,私たちの内側に作りだす読書の履歴のこと。視聴した映画やドラマ,音楽もその重要な一部だ。それは「少しずつわれわれ自身を作り上げてきたもの,もはや苦しみを感じさせることなしにはわれわれと切り離せないもの」。バイヤールの言葉に託して岡田氏は,私たちの感性はこの「内なる図書館」によって強く規定されているのだ,と言う。

Mingさんと話していると,彼と私の「内なる図書館」に様々な重なりがあることに驚かされる。小津安二郎,ホウ・シャオシェン,ウォン・カーウァイの映画。Mingさんが好きだという久石譲の映画音楽の話から,彼が最近見たという三浦しおんの『舟を編む』の映画の話,「篤姫」「半沢直樹」での堺雅人の演技の話,「半沢モノ」作者の池井戸潤の話へと,話題はどんどん展開する。

そんなローカルな雑談を香港の政治学者とできることにワクワクすると同時に,彼が日本を知っている度合いに比べて,私が香港を知っている度合いがずっと低いことを申し訳なく思う。

そう,台湾や香港の友人との「内なる図書館」の重なりは,えてして,相手方の圧倒的な輸入超過なのだ。ちょうど,日本人とアメリカ人のあいだの関係がひどく非対称なように。

台北市内某書店にて。上から『桐島,部活やめるってよ』『海辺のカフカ』『風がつよく吹いている』『舟を編む』等の翻訳もの。
 
同上。『関於莉莉周的一切』=『リリイ・シュシュの全て』。
私たちは小さい頃から,アメリカの映画やドラマをみ,アメリカ人の主人公に感情移入しながら大きくなってきた。かりに私と累積読書量が同じくらいのアメリカ人を見つけて,彼女ないし彼が読んだことのある日本(東アジアに広げてもいい)の小説と,私が読んだことのあるアメリカの小説の数を比べたら,たぶん私は数十倍,いや数百倍の輸入超過を誇れるだろう。

何せ,日本の町の本屋に行けば,推理・娯楽ものから,ホーソン,フィッツジェラルド,ヘミングェイ,フォークナー,パール・バック,カポーティ,ポール・オースターといった純文学系までの小説が山ほどあり,5-600円ほどで買えるのだ。けれども,アメリカの書店に行ってみると,アメリカ人が読んでいる日本の作家は,どうやらHaruki Murakamiぐらいらしいという現実。アメリカの対日文化収支は,信じられないほどの大黒字である!

とはいえ,それなりに小説好きで東アジアと縁の深い私が,台湾や香港の小説を申し訳程度にしか読んでいないことを思えば,そんな愚痴を言えた義理でもない。そして正直なところ,私も息抜き用の娯楽小説には,シャオシェンとかリーチュンといった登場人物より,クレアとかエリックに出てきてもらったほうがありがたい。東アジアのほうがずっと文化的に近いのに,欧米ものの小説や映画のほうにぐっと「親近感」を感じるというこの倒錯・・・。

私が,ドラマや小説を通じて,ファンになったり感情移入をしてきたアメリカ人の数は,私が実際に付き合いのあるアメリカ人の数の数百倍にものぼる。そうやって,一人一人の日本人の心の中にアメリカが蓄えてきた文化資産の量は膨大なものだ。かたや,日本人はアメリカ人のなかに,また東アジアの人々は日本人のなかに,「内なる図書館」の蔵書をほとんど有していない。それは,日本や東アジアの文化の質が低いからではなく,それぞれの国の政治経済的な影響圏の地政学が,教育や商業翻訳・出版といった制度を通じて,文化の流れの方向に強い影響を及ぼしてきたからなのなのだろう。

インターネットを通じて,音楽や映像がグローバルに共有されるようになったことで,この流れはどう変わっていくのだろう。若い世代の「内なる図書館」の国境を越えた相互貸借が,私のそれより少しでも対称なものになっていくことを願う。


2013年12月13日金曜日

掛け値なしの外国人:アメリカで英語を話す


台湾で行ったインタビューの一部が未整理のままになっていたので,まとめてテープ起こしをした。イヤホンを通してきく私の中国語は,ひどい日本語なまりだ。なのにどの録音でも,妙に自信をもって,堂々と中国語を話している。

ああ,台湾で中国語を話すのは,アメリカで英語を話すのより,ずっと楽で,ずっと楽しいことだったなあ。

とはいっても,私は,英語より中国語のほうが得意というわけでもない。聞き取りと日常会話は中国語のほうがはるかに楽だが,複雑な内容を話そうとすると,正規の教育を長く受けた英語を使うほうが,正確に伝達できると感じる。

それでも,アメリカで英語を話すことがひどく億劫に感じるのは,つまるところ,気持ちの問題だ。どうやら私は,台湾では「私は中国語をこれだけ話せるんです」というポジティブモードでいたのに,アメリカでは「英語をこの程度しか話せないんです」というネガティブモードになっているらしい。


El Cerritoの高台からサンフランシスコ湾を望む
 それは,英語を「話せるべき」普遍語として,中国語を「話せることが評価される」ローカル言語としてとらえている意識の現れである。また,「中級中国語を話せる日本人」が台湾で受ける扱いと,「中級英語しか話せないアジア人」がアメリカで受ける扱いの違いを反映したものでもある。

日本人が台湾で中国語を話すと,まずは「すごいね。うまいね」という反応が返ってくる。日本語を話す欧米人が日本で受ける扱いと同じだ。そのうち,一言話しただけで「日本人だね」とバレたり,「典型的な日本語なまりだ」と発音のまねをされてガックリきたりするようになるが,それでも,台湾人が拙い中国語を話す日本人に向ける優しい視線に変わりはない。

しかし,「中国語を話す日本人」に向けられる台湾の人たちの暖かさは,おそらく同じレベルの中国語を話すベトナムやインドネシア人労働者には向けられないものだろう。日本語を話す欧米人と,日本語を話す中国人やインド人への,日本人の対応にもまた明らかに違いがあると思う。

今,生活者としてアメリカで暮らす私に向けられるのは,後者のタイプの視線だ。郵便局の窓口やインターネットプロバイダーのサービスマンとのやりとりで,言葉につまったり,聞き返したりする時に感じるのは,「このアジア人の女,何いってるのかよく分からない」という,ふつうに冷たい異国人への視線である。 

そして,これがドイツやフランスの郵便局なら,「あなたの母語はローカル言語なので,私には分かりません」と思うのだろうが,英語だと「世界で通用するあなたの母語が下手でスミマセン」という卑屈な気分になるのが,我ながら腹ただしい。


冬のぶどう畑。ナパにて。
とはいえ,台湾で与えられてきた「日本人プレミアム」や,国際学会やコンファレンスで英語を話すときに与えられる「職業プレミアム」をはがされ,一人の外国人として,国際言語ヒエラルキーの頂点にあるアメリカで英語を話してみるというのは,なかなかに考えさせられる経験だ。

ふと,思考の道具として慣れ親しんできた日本語を禁止されたときの戦後の台湾人の苦しみや,日本統治期・国民党の権威主義体制下でミンナン語を劣った言語とされたことで誇りを傷つけられた人々,ミンナン語の世間話に混ざれない外省人の疎外感を思ったりもする。

話を聞く側の態度が,話す側の言語操作力にてきめんに影響することも,改めてよく分かった。相手がこちらの言葉を聞き取ろうと眉間に皺を寄せるだけで,話そうとする気力が萎えてしまったり,親切心から言葉を先取りして(←私はこれを日本語でよくやってしまう)かえって言いたいことが言えなくなってしまったり。

それにしても,いったいどうしたら,英語を特権的な国際通用価値としている枠組みからもう少し自由になれるのだろう。せめて,中国語を話すときのように「私は日本人ですが,勉強して,外国語である英語をこれだけ話せるんです」というポジティブモードにもう少し近づきたい。

まずは,英語をもっと普通の外国語としてとらえて,「すらすら話せない,すべてを聞き取れないことが恥ずかしい」という感情を乗り越えないと,アメリカ人と英語で話せることの純粋な喜びを味わえるようにはなれないのだろうなぁ。

2013年11月17日日曜日

音楽家が映し出す社会,社会が映し出す音楽という営み:吉原真里『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』を読む

吉原真里『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか? 人種・ジェンダー・文化資本』(アルテス出版,2013年,原著 M. Yoshihara,Musicians from Different Shore: Asians and Asian American in Classical Music, Temple Univ. Press, 2007)を大変おもしろく読んだ。

本を読む楽しさには幾通りかあって,深く頷きながらぐんぐん読み進めるときに感じる読書の快感と,要所要所で立ち止まり,著者に反論したり説得されたりしながら読み進めていくときに感じる読書の手応えがある。本書が与えてくれるのは後者のタイプの「骨を折る読書の喜び」だ。決して読みやすい本ではないけれども,最後の頁を閉じたときに,ああ,新しい世界と出会えたな,と思える本だ。


この本は,「アメリカ合衆国で西洋クラシック音楽に携わるアジア人やアジア系アメリカ人について,歴史的・文化的・民族誌的に研究したもの」である(p.25)。主な素材が音楽家へのインタビューということもあって,私はこの本を文化史の本として読み始めた。けれどもこの本は,私に二つの予期せぬ出会いを運んできてくれた。第1に,アジア人音楽家という存在に映るアメリカ社会との出会いだ。

著者は,今日のアメリカで活躍するアジア人音楽家たちの生い立ちとキャリア形成,自己認識と職業観といった内面世界を描きだすことを通じて,彼ら・彼女らという鏡に映し出されるアメリカ社会のありよう-具体的には,人種とジェンダーと経済(報酬のメカニズム,出身階層,階層帰属意識といった広義の"経済")の絡まり合いを見事に描きだしている。

実は私は,最初の数章を読みながら,本書が,著者自らその多様性を指摘しているアジア人を,「人種」として捉えていることに強い違和感を覚えた。「人種」という概念が厳しい批判にさらされ,否定されて久しいのに,なぜ著者はわざわざこの言葉を使うのだろう?と。

しかし読み進めていけば分かるように,著者が問題化しているのは,多様な背景を持つ東アジア系の人々が「Asianという人種」としてひとからげに捉えられるアメリカ社会の文脈だ。アメリカでは,"白人"と"黒人"という最も鮮明な"人種"間の対立を基軸として,先住民や複数の新移民グループが配置されるかたちで,"人種"間の緊張関係が展開してきた。このなかで,東アジア人というニューカマーは,集団的に貼り付けられた「アジア人」というカテゴリーを生きざるをえない。そのカテゴリー性は,「西洋」の伝統が重視されるクラシック音楽の世界で,また聴衆という顧客を獲得する過程で外見やイメージが大きく作用する演奏家の世界で,ことさら大きな影響を持つ。

さらにこの「人種」変数は,ジェンダーという変数と結びつくことで,個々の演奏家の立ち位置と内面を強く規定する。その点で,3章の「アジア人音楽家のビジュアルマーケティング」の節は,音楽という産業セクターにおけるraceとジェンダーの相互作用を描いていて,きわめて興味深い。

アジア系女性演奏家のなかには,自らの容姿を戦略的な「商材」にする人もいれば,アジア人女性へのステレオタイプを強化しかねないふるまいをする同性への強い不快感を抱く人もいる。いずれも女性の職業世界で広く見られる現象だが,クラシックの演奏家にとってのステレオタイプの有用性と有害性は,他の専門職のアジア人女性にとってとは比べものにならないほど大きい。アジア人女性演奏家はしばしば,その名前と外見によって,"聴く"以上に性的に想像され,見られる存在となるからだ。

サンフランシスコは西洋と東洋の出会う町。チャイナタウンとイタリア人街の境目にて。


この本が私に運んできてくれた第2の出会いは,西洋クラシック音楽の演奏という,私にとってはえらく不可解な世界との再会だ。

私は,クラシック音楽好きの両親のもとに生まれた。熱心にピアノを勉強していた母の方針で,3歳過ぎからピアノの英才教育を受け,中学3年の時にあっさり挫折した(実際にはそのずっと前から挫折していたのだが,やめられなかった)。そして,嫌々ピアノを練習していたあの頃から,クラシック音楽を聴く楽しみを知った今にいたるまで,私にはクラシック音楽の演奏というものの面白さが一向に分からない。

そもそもクラシック音楽の演奏とは,どこまでが再現行為で,どこからが表現行為なのか?あらゆる芸術分野で日々新しい作品が生み出されているなかで,昔の西洋の偉人がお残しになった少数の名曲を演奏し,鑑賞しつづけるという保守性は一体何なのか?作曲家の意図という誰にも知り得ないものを解釈しようとする秘密結社的な体質も,「おけいこ」「おさらい」「お月謝」といったピアノ界の住人の言葉使いも好きになれなかった。

私が長いこと抱いてきたそんな違和感と反発は,ここ数年,趣味で音楽を続けている友人の話などを聞くうちに少しずつほぐれてきたのだが,その「ほぐれ」のきっかけの一つを与えてくれたのは,実は,本書の著者である。著者が東京でピアノリサイタルを開いたとき(←ここまで書きそびれていたが,私は著者の大学時代の同級生である),「私らしい演奏をしたい」という表現を度々用いるのを聞いて,「えっ?クラシックの演奏で『私らしさ』というものを追求していいの?」とびっくりしたのだ。

本書は,クラシックの演奏における自己表現の問題を直接考察しているわけではない。けれども,第5章でのクラシック音楽の演奏における「真正性authenticity」をめぐる考察は,この問題を私なりに考えるための手がかりを与えてくれた。この章で著者は,「真正性」をめぐる音楽家たちの言葉を紹介しているが,ここから見えてくるのは,音楽のもつ超時代・超地域的な可能性と,特定の文化や個人の経験にねざす固有性とのあいだで揺れ動く音楽家たちの姿だ。

彼ら・彼女らの言葉と,著者の思考に刺激されて,私のなかでも,いろいろな思いがわき上がってくる。私は,何人かの音楽家が「血」「魂」「本能的」といった言葉で強調する,作曲家と演奏家の文化的な結びつきを絶対視する議論には,「ちょっとなー」と引いてしまう。他方で,演奏が,個人の表現行為であるなら,広東語アクセントのショパン(p.252)や演歌風のシューベルトがあったっていいじゃないか,とも思う。

そして,演奏家の言葉に刺激されて,答えのでるはずのない「真正性」についてあれこれ思いをめぐらすなかで,彼ら・彼女らの「不可解さ」への違和感が少しずつほぐれていき,彼ら・彼女らが追求しているものの一端に触れることができたのを感じる。音楽という,とかく「言葉にならないもの」として神秘化される傾向の高い営み(岡田曉生『音楽の聴き方』中公新書,2009年)への窓を,言葉の世界が少しだけ開けてくれることを感じる瞬間だ。

サンフランシスコのチャイナタウンにて。
最後に,いくつかのコメントを,ばらばらと。

本書を読むと,英語と日本語の学術書のスタイルの違いがよく分かる。日本語の叙述スタイルが,材料を分厚く積み上げて,書き手の結論を読み手にじわじわと共有していくプロセスをたどるの対して,英語の学術書では「これが結論です」という著者のメッセージが,最初にドーンと示される。その違いをよく知っているはずの私でも,1章で,アジアの西洋音楽受容史に絡めて,西洋帝国主義,近代化といった生硬なbig wordsがどんどん出てくるのには結構面食らった。しかし,第2章以降でインタビュー相手たちが登場してくるとがぜん叙述が生き生きしたものになる。これからお読みになる方は,どうぞ,冒頭部だけで挫折しませんよう。

「もっと分析してほしかった」と思うこともいくつかあるが,その中から一点だけあげたい。歴史的・文化的起源における「正統性」を重んじる西洋クラシック音楽の世界でのアメリカの位置づけはもっと丁寧に論じるべきだったと思う。音楽における「本場主義」のなかでは,アメリだっても,西洋音楽の歴史的背景から切り離された根の浅い新興国とみなされているに違いない。クラシック音楽における「真正性」争いの勢力図のなかで,アメリカが占める位置づけを明示化することは,この国を舞台とするアジア人音楽家の姿を描きだすための前提として必要な作業だったのではないか。

それから,技術的な問題を一つ。本書に登場する台湾人,香港人が自らを語るなかで用いた"Chinese"の語は,「中国人」ではなく「華人」と訳するほうがよかったと思う。個々の演奏家の帰属意識を知る由はないが,台湾人や香港人が英語で自らに言及する時に用いる"Chinese"の語は,政治的含意を持つ「中国人」という概念より,文化・歴史を緩やかに共有する集団としての「華人」概念により近いと思われるからだ。

音楽家が映し出す社会の力学と構造。社会というプリズムを通してみたときにくっきりと立ち上がる音楽家たちの内面。優れた学術書の常で,本書は,読み手に,マクロとミクロの両方の世界の行き来を体験させてくれるスリリングな書物だ。

私も,専門分野は違うけれど,いつの日にか,こんな学術書を書いてみたいなあ。

2013年10月31日木曜日

本が生きている図書館:UCバークレーのライブラリーツアー

本ブログのバークレー篇を始めるにあたり,心に決めたことのひとつが,「アメリカの大学ってこんなにすごいんです,進んでいるんです!」といった調子の記事はなるだけ書かないようにしよう,ということだった。

何せアメリカは,世界の覇権国家である。世界中から人材と資源を吸い寄せる仕組みをつくり,さらに同盟国の首脳の電話まで盗聴して,情報を集めまくる国なのである。その国の知識生産システムの最前線にある研究大学が「すごい」のは当然のことだ。社会科学のアメリカナイゼーションの負の側面を棚に上げて,その先進性をほめたたえるようなことはしたくない。と思っていたのだが・・・

やはり,すごいものは,すごい。それが,UCバークレーの図書館を見学して抱いた感想だった。

Doe Libraryの閲覧室の一部。
10月半ば,勤務先の図書館のライブラリアンたちが,米国の図書館サービスの調査のため,UCバークレーに来た。貴重なチャンスなので,同僚たちの図書館視察に同行させてもらった。案内してくださったのは,東南アジア関係の書籍を専門にするバージニアさん。

午前中は,朝9時からのオリエンテーションのあと,大学の中央図書館的な位置づけのDoe/Moffitt LibraryとBancroft Libraryを見学。午後は,部局ごとの図書館の事例として,Thomas J. Long Business Library,Environmental Design Library, Marian Koshland Bioscience&Natural Resources Libraryを視察。その後,2時間の質疑応答の時間をはさんで,East Asian Libraryを見学。まる1日をかけて,UCバークレーの図書館をたっぷり見せていただいたが,これでも全体像のほんの一部に過ぎないのだ。

強く印象に残ったのは以下の点だ。

第1に,図書館の質量両面での充実ぶりだ。電子化とジャーナル中心主義を牽引するアメリカの大学が,書籍の収集・整理に莫大な予算と人材を投入し続けてきたことに驚いた。英語書籍の蔵書の文脈はよく分からないのだが,東アジア図書館の書籍,雑誌,新聞のコレクションは,とにかくすごい(*少なくとも私に判断のつく日・中資料については)。「誰がどうやってこれを集めたのか?」と絶句した。

第2に,図書館が,大学の中核的存在としての位置づけを獲得していることだ。それは,キャンパスの中の図書館の立地にも,図書館を居心地がよく人が集まる空間にするために費やされているふんだんなお金と努力にも,よく現われている。東アジア図書館やビジネススクール図書館では,小さなセミナールーム(*部屋ごとに,寄付者の名前が付けられている)がたくさん設けらていて,ガラスの壁の向こうで,読書会や討論会が行われている様子が見えた。学生の足を図書館に向けさせるきっかけにもなるし,静寂を乱すことなく,人の活気を図書館に呼び込む仕掛けでもある。

第3に,図書館が自らの利用価値や所蔵資料の価値をアピールするため,様々なメッセージを強く発信していることだ。それを象徴するのが,中央図書館でも部局図書館でも充実していた各種の展示だ。

環境デザイン図書館の閲覧室の中央ディスプレイ。

Doe Libraryの廊下の展示。

ライブラリアンがこういった展示を企画し,発信すると,図書館がグンと生き生きしてくる。Bancroft Libraryの一室では漫画や風刺画の特別展をやっていたが,これは毎回,展示内容にあわせて,壁の色から照明までを一から創りなおすという凝りようだ。1年近い準備を行い,大学内外の研究者,ライブラリアン,キュレーター,デザイナーがチームとなってひとつの展示を創りあげるのだという。

Bancroft Library,中は美術館の一室のようだった。
もうひとつ,「これはいい!」と思ったのが,図書館の資料を駆使して優れた論文を書いた学生に図書館が与える賞(library prize)の存在だ。館内の目立つスペースに,受賞者の顔写真,指導教員の名前等が掲示され,閲覧室のなかに,歴代の受賞者の紹介パネルと彼ら,彼女らの図書館に対する感想が掲げられている。毎日これを見ていたら,「私もチャレンジしたい」と思う学生が出てくるだろう。

最新年度の図書館賞の論文のタイトルは「ボンヌ・オ・リュクサンブールの祈祷書フォリオ331Rにみる中世女性の精神性とキリストの傷」(←訳間違えているかも・・・)。本格的だ。

図書館賞受賞者の紹介展示。
第4に,アメリカの大学ではライブラリアンという職業が,複数領域での高度な専門性をもつ職業として確立していることがよく分かった。同僚たちが今回調査に行った他の研究大学では,博士号を持ち,研究者としての著作もあるライブラリアンが少なくないらしい。バージニアさんは,アメリカの大学の地域研究系ライブラリアンには"library science,subject,language"の3つの専門性が不可欠で,大学院教育が欠かせない,と強調していた。

ライブラリアンは,教員と提携して,学生指導にも関わっているようだ。上記図書館賞受賞作品のなかには,教員とライブラリアンの合同授業のなかからうまれた論文もあった。またライブラリアンは,新任の教員が着任すると,研究・授業の両面で必要となる資料について意見交換をするという。

後日,スタンフォードで在外研究中の同僚と一緒に再び東アジア図書館を探検したときに,図書館のあちこちに,ガラスの壁で仕切られた小ぶりのオフィスがあることに気がついた。同僚と「これ,研究者のオフィスだよね」と話していたのだが,あとで,あれはライブラリアンのオフィスであろうことに気がついた。さほど広くはない部屋だけれど,プロフェッショナルの仕事場にふさわしいスペースと集中できる環境が整えられている。内側から図書館の様子もよく見える,工夫されたつくりだ。

というわけで,UCバークレーの図書館は,自分から身を乗り出して利用者にメッセージを発し,「私たちにはこれだけの価値があるのだから,もっと積極的に活用しろ」と働きかけてくる饒舌な図書館だ。それは,寄付金を強く必要とするアメリカの大学の事情や,発信と主張を重んじる社会風土の表れでもあり,日本の図書館にはそれとはまた違う文脈や長所があると思う。

でもこの図書館の「人がたくさん集まってくる感じ」「本が生きている感じ」と,日本の図書館の細やかさ・丁寧さを組み合わせることができたら素敵だろうなぁ。

バージニアさんの説明を聞き,同僚ライブラリアンと感想や意見を話しながら歩き回った一日はあっという間に過ぎてしまった。最後にバージニアさんに,「すごい図書館で,驚きました」という印象を話したら,「図書館をよくするために研究者にできることは本当に多いのです。」「あなたたち研究者は,ライブラリアンたちと図書館について緊密に意見交換をしてくださいね」とハッパをかけられた。

そうだ,私たちユーザーもまた,本が生きている図書館をつくっていく上で大きな役割を担っているのだ。




2013年10月18日金曜日

バークレー到着:"visiting sholarになる"

強烈な日射しのもと,柔らかな緑の芝生に寝転ぶ学生たちをよけながら,白亜の宮殿風のDoe Libraryの建物に向かって坂を降りていくと,サンフランシスコ湾が目の前に迫り出してくる。穏やかに光る海の上に,ゴールデンゲートブリッジが姿をみせている。

そのあまりに絵葉書的な美しさに,現実感を失って,しばし立ちつくしてしまう。私は本当にバークレーに来たのだろうか・・・・?

Doe LibraryとUCバークレーの象徴・Sather Tower

カリフォルニア大学バークレー校(UC Berkeley)での在外研究を始めて2週間がたった。連邦政府の閉鎖,サンフランシスコ地域の大動脈・BARTのスト予告と,周囲では様々なできごとが起きているが,多くの方からの力添えをいただいて,今のところ順調に生活を立ち上げつつある。特に住まいが早々と決まったこと,そのアパートが,代々UCバークレーに通う日本人VS(visiting scholar)が住んできた部屋で,いたって便利な快適な住まいであることが,不慣れなアメリカでの生活を順調に開始できた最大の鍵だったと思う。

半年間受け入れていただいた研究所も,アットホームな雰囲気だ。イタリア,ベルギー,ブラジル,トルコ,日本と世界各国から集まってきたオフィスメイトの存在も心強い。

半年間お世話になる研究所。木造で,大きな家のようなつくり。

けれども,ここバークレイでの「研究生活」が,まだ自分のなかでどうもうまく立ち上がってこない。憧れの大学に来られて張り切ってはいるのだけれど,いざVS生活を始めてみると,「台湾をフィールドとする私がアメリカで研究生活を送ることの意義」が,うまくつかめないのだ。

思えば,台湾での研究生活は,単純明快なものだった。予め決めたトピックについて調査を進めること,次の5年へとつながる新しいテーマを見つけること。達成できるかどうかは別として,そんな明確な目標があった。研究が思うように進まなくても,バスの車内風景を観察したり,友人とおしゃべりするなかで,私のなかの"台湾の皮膚感覚"が15年ぶりに更新されていくことが嬉しかった。

それに比べると,これからの半年は,時間が短く,選択肢が多い分,軸を決めるのが難しい。インプットを中心とするのか,アウトプットに時間を使うか。台湾についての研究を進めることと,成果にはつながらなくても視野を広げるために時間を使うことの,どちらを優先するべきなのか。半年という時間の短さを意識するほどに,何に手をつけてみても「今これをしていていいのだろうか」と気が散ってしまう・・・。

そんな日々が続いたあとで,VSの先達たちに体験談を聞いてみた。皆さん,自分の経験に基づいて的確な助言をくださったが,「あれこれ目標を立てて中途半端に終わるより,『これはやれた』と思えることを1つやれるように努力したほうがいい」という趣旨のアドバイスしてくれた方が複数いた。私の滞在を受け入れてくださったClair先生からは,「バークレーというこの場所でしかできないことを最優先しなさい」という助言をいただいた。

こういった言葉が心に響くのは,私のなかに強く反応するものがあるからだ。というわけで,これから半年間の私の目標は,「1つだけでいいから,バークレーでしかできないことをやり遂げること」に決定。やはり台湾で追いかけたテーマにつながるインタビューを1つでも多くできるよう,ここベイエリアでも頑張ってみよう。

とはいえ,「広く浅く」の魅力も捨てがたい。今週月曜日には,滞在先の研究所で社会経済学の大御所Neil Fligstein教授のランチセミナーがあった。美味しいブリートとサラダをほおばりながら,10数人という少人数の聞き手とともに,憧れの学者の研究報告を聞けるというこの贅沢!理論家でもあるフリグスタイン教授が,これだけ著名になっても,小さなセミナーで実証的な分析の報告をすること,参加者の質問やコメントの仕方がストレートで,対等な立場からの議論提起であることに,刺激を受けた。

うーん,自分のフィールドから離れて,広く浅く耳学問を重ねることだって,バークレーでしかできないことなのだ。「中途半端に終わる」ことに取り組めるのも,VSの特権ではないだろうか?こう考えると,自分が何を優先するべきなのか,さらにいっそう分からなくなってくる。

ここにやって来る人たちは,VSとしての目標をもった日々を重ねるなかで,訪問研究者としての自覚を得ていくのだろう。私のバークレー生活は,まずは「VSになる」べく,生活の指針を見定めることから始まるようだ。

キャンパス西門を入ると巨大なアメリカ杉の茂みがある

2013年9月29日日曜日

台北,また会う日まで!

引っ越し荷物の搬出も,手荷物の準備もすべて終わり,マンションの掃除も一通り終わった。あと1時間もすれば,大家さんが鍵を受け取りにやってくる。1年半住んだこの家を出て,夜の便で,次の任地・サンフランシスコに向かう。

台北を離れる9月30日は,どんな気持ちがするだろう? 立ち去りがたくて涙がこぼれてしまうかな? ずっとそんな想像をめぐらしてきたが,実際にその日を迎えてみると,不思議と寂しさは感じない。むしろ,何の始まりであるかはまだ分からないけれど,これから何かが始まるんだ,という気がする。

昨日,近所のスーパーへ最後の買い物に行く途中,ふだん通っている道の一本手前の小道を曲がってみた。行き止まりだと思って一度も曲がったことのなかった角だ。突き当たりまで行ってみたら,その道には先があった。くねくねと曲がりながら続く小さな路地には,小さなホステル,貿易会社,アートギャラリー,NGOのオフィス,旅行会社がぎっしりと連なっていた。

驚いた。人々が暮らし,働く気配が濃厚に漂うこんな空間が,私の家のすぐ隣にあったことに,まるで気がつかなかった。たぶん,今のマンションに3年住んでも,5年住んでも,私はあの角を一度も曲がろうとはしなかったろう。もう最後だから,と思って,気まぐれにいつもとは違う道を通ってみるその日まで,ずっとずっと,毎日同じ道を歩いたことだろう。

慣れというのはそういうことだ。だからこそ,ある場所を立ち去ることで訪れる,その場所との新しい出会いもあるのだろう。

15年ぶりに住んで,台北の新しい顔といくつも出会った。1年半の生活を経て,この町を離れることで見えてくる台北の姿も,きっとあるに違いない。今は,台湾で出会った全ての友人に,心からの感謝の気持ちを伝えたい。


MRT淡水線から見えるマングローブの林と観音山。私が台北で最も好きな風景のひとつ。

2013年9月22日日曜日

中央研究院社会学研究所の日々(2) 旅立ち篇


このブログで「社会学研究所の日々(1)地理・環境篇」という記事を書いたのは,台湾到着直後の昨年4月のこと。「研究所のなかみを紹介する続編を書こう」と思いながら,あっという間に1年半の任期が過ぎてしまった。今月末にはもう台北を離任せねばならない。

台北を立ち去りがたい気持ちにとらわれるのが怖くて,この2ヶ月ほどは,毎日のように,友人・お世話になった方との会食やインタビューの予定を入れ,忙しく過ごしてきた。中秋節の4連休を利用して,引っ越しの準備を始めてみたけれど,様々な思いが胸にこみあげてきて,荷造りをする手がついとまってしまう。今はまず,台北でお世話になった全ての友人たちに,心からの感謝の気持ちを伝えたい。


中央研究院活動中心。短期滞在者のなかにはここに泊る人も多い。
社会学者ではない私を1年半という長期にわたって温かく迎え入れてくれた社会学研究所の方々には,とりわけ深く感謝している。なかでも,カウンターパートを引き受けてくれた古くからの友人L・Cさんは,私に多くの新しい出会いと刺激をもたらしてくれた。

私を経済社会学の世界に導いてくれたのも,私の初めての単著の「新書発表会」を企画してくれたのも,私の新しいテーマへの挑戦について最初に話を聞き,背中を押してくれたのも,みんなLさんだ。彼のおかげで,迪化街の素敵なよそ者,若者,バカ者たちにも出会うことができた。

そして彼はなんと今,迪化街で,家族と一緒に「JFK絵本屋」という素敵なお店を立ち上げようとしている。「絵本」の世界を研究対象の1つとしてきた彼が,絵本を届ける人になる瞬間。経済社会学者が創業者へと生まれ変わる瞬間。台北滞在最後の月に,彼の人生の新しいステップともなるそんな瞬間に立ち会えたことはとても幸運なことだ。

拙著の新書発表会がきっかけとなって,研究所の人たちに「社会学者ではないけれど,台湾の産業社会の発展を貫く社会・経済的な力に関心を持っている人らしい」と認知してもらえたことも,後から思うと,新たな研究仲間や友人,理解者との出会いにつながる幸運なきっかけだった。

社会学研究所のある人文社会科学館
社会学研究所で出会った短期訪問者たちとの交流からも多くの刺激を受けた。社会学研究所に来る訪問者のほとんどは,夏休み前後に2~3ヶ月の予定で来台する短期滞在者だ。1年半も滞在している私は,すっかり「お局様」となってしまい,多くの研究者がここに集い,去っていくのを見とどけることになった。

訪問研究者は3つのカテゴリーに分けられる。第1のカテゴリーは,アメリカで博士号をとり,引き続きアメリカで研究者としてのキャリアを追求している台湾人研究者たち。昨夏,オフィスをシェアしたL教授や,ポスドクのWさんたちがこのパターン。台湾を分析対象とし,中国語の論文を読み込んで,英語論文を発表する彼女,彼らと話していると,不十分な中国語で台湾のことを調べ,主に日本語で成果を発表する自分の研究者としての立ち位置についてあれこれ考えさせられた。Lさん,Wさんはともに二人の子の母親。遠い異国・アメリカの地で,研究者としての厳しいキャリアと家庭生活を両立する彼女たちの話からは,多くの刺激を受けた。

訪問研究者の第2のカテゴリーは,台湾や中国を研究対象とする非・華人系研究者。この1年のあいだに,アメリカ,オーストラリア,ドイツ,フランスから来た台湾研究者たちと交流する機会を得た。アメリカ人やドイツ人と中国語で台湾研究について話をするのは楽しい経験だった。彼ら,彼女らの多くは,台湾だけではなく中国,日本を含む東アジアを研究対象とし,日本についても実によく知っている。3.11後の原発政策のこと,日本で高まる排外的なナショナリズムの背景等について彼らと話すたび,日本についての新しい発見があった。

第3のグループは,サバティカルをとって,社会学研究所に籍をおいている台湾の大学の教員たち。その一人で,台湾STS学会の理事長でもある台湾大学のWさんは,人と人をつなぐ名人。私に台湾STS学会でのパネル報告というチャレンジングな機会を与えてくれてたのは彼女だ。彼女が企画し,誘ってくれたランチでは,専門の違う人同士で話がはずみ,いくつもの新しい出会いがあった。

社会学研究所で出会った人たちに共通していたのが,他人の研究への開かれた関心だった。社会学の世界では,経済学のように,主流(*簡単にいえば,アメリカの経済学界を中心とする強固な科学主義と,ランク化された英文ジャーナルによって制度化された世界)と非主流(*「それ以外」)が判然と分かれているわけではない。方法論や流行の共有度もさほど高くはない。

だから,お互いに言葉が通じ合うかどうかを確かめるには,「どんな研究をしているのか」を自己紹介しあい,雑談を重ねていくなかで,互いの関心や価値観を探り合うプロセスが必要になる。そして,手法が違えど,相手の研究について踏み込んだコメントや感想を述べ合ってみることで,少しずつ距離を狭めていくプロセスがこれに続く。意気投合する相手もあれば,淡々とした付き合いで終わる相手もあるけれど,経済学の世界でありがちな「コッチ側の人,アッチ側の人」という区分けや,内輪のジャーゴンでの閉じた会話の世界とは違って,「私の専門とあなたの専門は随分違うけれど,あなたの研究の話を聞かせてほしい」という姿勢を持ちつづけている人が多かった。

それが,社会学の気風によるものなのか,台湾という場の特質なのか,あるいは短期滞在者どうしであることによって発生する一種の高揚感によるものであるのかは,分からない。おそらくその3つが入り交じって,ここにつかのま集う者のあいだに不思議な連帯感を生むのだろう。

昨年3月末,台北にたどりついた時の私は,初めての単著の執筆に持てるわずかなエネルギーを投入しつくし,年度末の仕事と引っ越しで疲労困憊した,出がらし状態だった。そして,1年半を経た今・・・・肝心の研究の進捗状況ははなはだ心許ないものだったけれども,多くの人との出会いによって,自分のなかにわずかなら,新しいエネルギーが生まれたことを感じている。

私がここで出会った人々がそうであったように,私も,私の研究,私が書きたい本について生き生きと語れる研究者でありたいと願う。

キャンパスの一角にて。林の本来の生態を復元中。




2013年9月7日土曜日

「聞いてはいけない」:プライバシーとデリカシー

最近,知り合いになった台湾人の女性が,日本語を勉強しているという。彼女に,「日本人に聞いてはいけないことを教えて」と聞かれた。

「日本人は,相手の月給は聞かないんだよね?」「年齢は聞かないほうがいいの?」「恋人の有無は?」といった質問に答えていくうちに,うーん,と考え込んでしまった。「聞かないほうがいいこと」は指摘できるのだが,なぜそれを聞かないほうがいいのかを説明するのが,難しいのだ。

給料の額は,聞かないほうがいい。年齢は,欧米人ほど気にしないと思うが,個人差があるから様子を見ながらね。このあたりまでは答えやすいのだが,結婚・出産といった人口動態系の話題,特に「なぜ聞かない方がよいか」の理由となると,とたんに答えるのが難しくなる。

「既婚か否か,子どもの人数といったことは聞いてもいい。しかし,恋人の有無は気軽には聞かないほうがいい」といったら「え,なぜ?」と不思議がられた。台湾では,恋人の有無はオープンな情報だ。初対面の相手や,仕事上の知り合いにも,「私の彼氏が・・・」といった話を気軽にする。「忍ぶれど/色に出でにけり/我が恋は・・・」といった情緒とはまるで無縁の社会なのだ。

「それよりね,台湾人はすぐに『なぜ結婚しないの?』『どうして子どもを生まなかったの?』『次の子どもはいつ生むの?』といった質問をするでしょ。あれは,日本人にはやめたほうがいいよ」と言ったら「え,そうなんだー」と彼女。「というか,台湾人でも聞かれてイヤだと思っている人はいっぱいいると思うよ」と話しながら,ついつい言葉に力が入っている自分に気がついた。

中央研究院にて。

私は,既婚・子なしである。この"中途半端"な状況を,台湾の人々は決して放っておいてはくれない。30代の頃は,「生まないの?」「ほしくないの?」「かわいいよ」攻撃に,40代半ばになってからは,「どうして子どもがいないの?」「かわいそうに」攻撃にさらされ続けている。

大勢の人がいる前で「どうして子どもを生まなかったの?」と問われるのも面食らうが,「寂しいでしょ」「いる人が羨ましいでしょ」と同情されたり,「ご両親がかわいそうじゃない」「今からでも努力しなさい」とお説教されたりするのは,さらにかなわない。

以前,「あれって本当に信じられない。delicacyって言葉は中国語にないの?」と台湾人女性の友人にぐちったら,「それって,子どもがいても続くんだよ」と慰められた。一人っ子なら,「一人っ子はかわいそう」「二人目をなんで生まないの?」と言われる。娘二人の母親である友人は,「親御さんに孫子(男孫)を抱かせてあげなさい」と言われるそうだ。そうか,「なぜ?」攻撃は,オンナの人生双六をどこまでいっても続くわけか(←いや,男性も聞かれているぞ)。そして,そんな問いかけに,台湾の女性もやっぱりいやな思いをしているのか・・・。

それにしても,人,中年に至れば,既婚か独身か,子どもの数が何人か,といった個々人の状況が,選択したことと選択したわけではないこととが絡まり合った複雑な物語であることくらい,分かっているはずだ。「なぜ?」と問われて一言で答えられるほど簡単なものとは限らないこと,たとえ明快な答えがあったとしても,それを誰にでも気軽に話したいと思っているとは限らないことくらい,想像がつくはずだ。

社会によって,聞くことをよしとしない「プライバシー」の範囲が異なるのは当然だ。けれども,自分の発言に相手が戸惑った様子を見せたら,会うたびに問い詰めたり,繰り返しお説教したりするようなことはしないくらいのデリカシーはあってもいいのではないか。

淡水から八里・観音山を望む。

というわけで,日本にも「デリカシー」に欠ける人がやまほどいることは承知のうえで(そして私も,
後から振り返って"あの時の自分はデリカシーを欠いていたなぁ"と反省する場面がたくさんある),"人口動態"系の話題については,台湾の人たちに「聞いてはいけない」「言ってはいけない」と言いたいことがいろいろある私である。

が,そのいっぽうで,まれにではあるけれども,日本人どうしではめったに踏み込まない「なぜ?」と踏み込んでくる台湾の友人とのあいだに,思いがけなく深い感情の交流が生まれることもある。

そういう心の化学反応が起きるためには,いくつかの前提条件がある。まず,一対一で,深く向き合える相手であること。互いが話したことを他人には話さないと信頼できること。硬直した「幸せ・不幸せ」観や,「幸せでなければならない」という強迫観念から自由な人であること。(ふだんは距離が離れている台湾の友人だから話しやすかったりもする。)

めったにないことだけれども,そんな相手から発せられた「なぜ」に答える言葉を探すうちに,思いがけない自分の心や人生観の変化に気づかされることがある。好奇心からではない,友人の人生に寄せる深い関心から発せられる「なぜ」。人生の機微を知り,人を型にはめようとはしない,尊敬できる人からの「なぜ」。

そんな「なぜ」に答えようとして言葉を探す瞬間,人は,互いの人生を分かちあうことはできないけれども,分かり合おうと努力し続けることはできるのだなぁ,と思う。

2013年8月25日日曜日

進んでいる台湾,遅れている日本?


中央研究院のモスバーガーでお昼を食べていたら,隣の席から英語の会話が聞えてきた。50歳前後のアメリカ人と,30歳台とおぼしき台湾人の男女が話に花を咲かせている。

Japanという言葉が繰り返し聞えてくるので,耳ダンボ状態で聞いていると,アメリカ人が,「日本がいかに窮屈でイヤな社会か」を力説している。いわく,日本人は権威に弱くて,肩書きのある人の前に出ると誰も何も言えない。満員電車の通勤客は機械のように無表情で無感情だ。男がやたらと威張っていて,女の地位はありえないほど低い。それに比べると,台湾はいかに自由で平等で,女性がのびのびと生きられる素晴らしい社会であることか。

「はいはい,その通りです」と思いつつ,「なんだかなー」という気分にもなる。

モスバーガーも入っている中研院活動中心

数少ないサンプルからの経験ではあるが,台湾の人々は,欧米の知識人やビジネスマンのあいだで,概して評価が高い。これに対して日本の評価は,下がるいっぽうだ。

人権意識・マイノリティへの理解の高さ,活発な社会運動,はっきりと意志表明をする文化。ビジネスの世界でいえば,決断力,機動力,コミュニケーション力。今日の台湾は,欧米の知識人やビジネスエリートが重視するこうした価値を高い水準で満たしている。女性の社会的地位という指標も,「実は進んでいる台湾,やっぱり遅れている日本」という対比を強調するためによく挙げられる。

しかも,台湾はこの10数年のあいだに,「公共空間でのマナー」といった苦手項目でも長足の進歩を遂げた。社会も個人もすっかり疲れ切ったように見える日本は,いかにも分が悪い。

喩えていえば,今の台湾は,公私ともに脂がのり,自信に満ちた,30過ぎの働き盛り。感情的な行動に出ることも多いけれど,自己修正力の高い若者だ。かたや日本は,定年退職してまもない60台半ば。しかもこのシニアは,東日本大震災で心身に受けた深刻な傷がいまだ癒えていない病身でもある。(最近は新しい医者が現われて,やれ筋肉増強剤を飲め,精力剤を飲めと,大忙しのようだが・・・)

日本社会には,落ち着き,配慮,豊かな知識と深い趣味の世界,といった美点があると思うのだが,台湾の若々しい活力に比べられたら,とうてい叶わない。

そう考えれば,隣席のアメリカ人の発言に,いちいち目くじらを立てるまでもないのかもしれない。私自身,彼が指摘したような日本社会の側面を常に腹ただしく思い,台湾の友人に向かってぼやいてもいるのだ。しかし,それでもやはり,こういう発言を耳にして抱くのは,「ステレオタイプ化されるのは,いやなものだなぁ」という素朴な感情だ。対象への関心や愛情のかけらも感じられない語り口での類型化は,なおさらそうだ。類型論をむやみにタブー化するのは愚かなことだと思うけれども,時に,誰かをカテゴリー化することが,笑い話ではすまされない暴力性を持つものであることを思い知らされる。

ステレオタイプな類型論はまた,社会現象を多面的にみる視線をふさぐことにもなる。

例えば,日台比較の際にしばしば強調される「台湾の女性の地位の高さ」というポイント。公的領域での台湾の男女の平等度(登用面,意識面ともに)が日本に比べて圧倒的に高いことに異論はない。ただ,それを強調するあまり,台湾の女性たちが直面している困難が見過ごされていることが気にかかる。

私的領域に目を向けて,「嫁」「妻」「母」「娘」としての彼女たちが抱えている負担や困難を,「娘婿」「夫」「父」「息子」のそれと比べてみれば,台湾が単純に「すばらしい男女平等社会」ではないことが見えてくるはずだ。高い意識をもち,あらゆる面で対等な夫婦関係を築いている都市部のインテリ・カップルがいる一方で,大多数の台湾の女性は,伝統的な大家族のなかでの「嫁,娘」の役割と,家計の経済戦略の論理から要請される稼ぎ手としての役割の両立を求められている。台湾人男性が「男女が平等な台湾社会」を誇らしげに語るのに対して,女性の友人から聞く現実はなかなかにシビアだ。

隣席では,アメリカ人の話に,台湾人の聞き手たちが盛んにあいづちをうち,「日本人は分かりづらいよー」「日本の女性は本当にかわいそう」と感想を述べている。幸か不幸か,台湾にいると,日本人の自尊心をくすぐるようなカテゴリー論を耳にすることのほうが多いけれども,若い彼ら・彼女らの目に映っている日本人の姿は,実際には,もっと不気味で理解しがたいものであるはずだ。

そう思えば,今日この席に座り,この会話を聞くことができたのは,悪くない巡り合わせだったのかもしれない,と思いながら,モスバーガーの席を立った。


活動中心そば,「生態観察池」は自然がいっぱい。



2013年8月4日日曜日

カメラと『キメラ』と行く旧・満州の旅

7月末に,ハルビン・長春へ一人で旅行してきた。

1日目(7/24 木)はエバー航空の直行便で台北からハルビンへ。ホテルに荷物をおいてすぐに,ハルビン市建築芸術館分館(旧ユダヤ新教シナゴーグ)に行き,20世紀前半のハルビンで栄えたユダヤ人コミュニティについての展示を見学。夕方からは,市内随一の繁華街・中央大街(旧キタイスカヤ)を散歩し,ロシア料理の夕食を食べた。2日目は午前の高速鉄道で長春へ。午後,1932-45年にかけて溥儀が満洲国皇帝として住んだ仮宮殿跡(「偽満皇宮博物院」)を見学。3日目は午前中,長春市内の旧・満州の建物めぐりをし,昼過ぎの高速鉄道でハルビンへ。旧東清鉄道職員住宅が残る西大直街の南側エリアを散歩し,夜は中央大街周辺を散策。夕食は昨日に続き,餃子屋さん。本場の水餃はおいしかった。4日目は午前に731部隊跡を見学し,午後のフライトで台北に戻った。

東北地方は,上海・広東とは別の世界だった。ホテルやレストランでの「没有(ないよ)」「不知道(知らないよ)」攻勢は想定内だったが,困ったのがタクシー事情の悪さだ。特に1日目は,空車がまるでつかまらなくて,途方にくれた。ようやく捉まえたタクシーでも,ボラれてしまった。

もっとも,2日目午後に,「ここではタクシーは相乗りするものなのだ」ということに気づいて,楽になった。先客が乗っている車でも,行き先が順路ならば乗せてもらえるのだ。相乗りには,遠回りになるというデメリットと引き替えに,ボラれないというメリットがあって有り難い。

ハルビン・長春は,歴史散歩のしがいのある街だった。特に,映画『ラストエンペラー』(ベルトルッチ監督,1987年)を見て以来,いつか行きたいと思っていた満洲国の首都・長春はみごたえがあった。

溥儀が住んでいた仮宮殿では,溥儀たちの生活・執務スペースがよく保存されており,たいへん興味深かった。関東軍参謀だった吉岡安直(溥儀の御用掛)の執務室があったりするのが生々しいが,『ラストエンペラー』『流転の王妃の昭和史』(愛信覚羅浩,1992年)とのかかわりから興味深いのは,やはり溥儀と皇后・側室たちが暮らした緝熙楼だ。部屋のしつらえやスペースの割り当てからも,婉容皇后の孤独な生活,溥儀の寵愛を受けた側室の満たされた生活の様子など,溥儀と妻たちの数奇な運命が伝わってくる。

旧宮殿への入り口には「九一八を忘るるなかれ」との江沢民の大きな揮毫が。

婉容皇后のアヘン吸引室。


「建築とはかくも雄弁なものよ」と唸らされたのが,新民街に沿って整然と並ぶ旧・満洲国中枢部の建物群だ。威圧感や和洋中の折衷ぶりは,建物によって異なるのだけれども,とにかく日本の,いや関東軍の異様な鼻息の荒さが視覚を通じて伝わってきて,驚いた。写真ではあまり伝えられないが,とにかく「でかい!」という印象。これに比べれば,帝国初の植民地・台湾で日本が建てた建築の数々は,落ち着いたたたずまいであったのだなぁ。

旧・満洲国司法部跡(現在は吉林大学医学部)

旧・満洲国国務院跡(現在は吉林大学医学部)



なんですか,これは!すごすぎる・・・旧関東軍司令部(現在は中国共産党吉林省委員会)

さて,一人旅の道連れは,愛用機リコーCX6。ところが,3日目の午後,このカメラが突然壊れてしまった。レンズが怪しい開閉運動を繰り返したあげく,勝手に閉じてしまうのだ。うーん,困った。

ハルビンでは,目玉の中央通から外れたたあたりに,戦前期からの古い建物がたくさん残っていた。ようし撮るぞ!と張り切った直後に突然逝ってしまったカメラのことが,恨めしくてならない(涙&怒)。

ハルビンの旧・東清鉄道幹部職員住宅。
けれども,もうひとつの旅の道連れ,山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』(中公新書,2004年)は,旅の最後まで私を助けてくれた。

今回の旅で,私は初めて中国の「愛国教育」の現場に足を運んだ。「偽満皇宮博物院」併設の「東北淪陥史陳列館」が,典型的な愛国主義教育施設だったのだ(この「博物院」の性格規定については長春市政府のサイト参照)。

展示を見終えて,建物の前の階段に座って,考えた。

428頁,参考文献だけで23頁の増補版。二つの後書きも素敵です。
日本の侵略がいかに多くの中国の人々を残酷な運命においやったか。そのことを中国人が語り継いでいくのは当然のことであるし,日本人も深く学ばねばならない事実である。私もこの展示をみて初めて知ったことも多く,その凄惨さに胸がふさがった。

しかし,この陳列をみて感じたのは,日本を徹頭徹尾,「侵略への欲望に燃えあがった残虐者集団」として-つまり理解不能な変態集団として-描くこのような展示手法は,日本の中国侵略のあやまちを考えるうえでも,決して有益でないだろう,ということだ。

『キメラ』は,優れた歴史の書物の常で,その時代に生きた人々の世界認識に内側から光をあてる。当時の日本が誤った道に突き進んでいった主観的要因と外在的要素を丁寧に掘り下げていくことは,決して,満洲国の暴力性,欺瞞性を正当化するための作業ではない。むしろ,どのような情勢認識と行動の相互作用,軍部・政治指導者の利害と国民の感情の相互作用が,あの時代の日本を中国侵略へと駆り立てていったのかを知るための最も重要な作業なのだ。

日本が,異常な侵略の欲望に燃えた変態ファシスト集団だったと決めつけてしまえば,ある意味,話は分かりやすい。もうそれで話は決まりだ。しかしそれは,あの悲惨きわまる歴史を二度と繰り返さないための知恵の蓄積には役立たないだろう。

15年ぶりに読んだ『キメラ』は,怪獣キメラと同じように,異なる生命体が接合されたような不思議な生命力をもつ本だった。前半ではアカデミックで禁欲的な筆致で,満洲国の歴史が語られていく。後半(特に終章)になると一転,筆者は,悲愴な感情に突き動かされるかのように,満洲国を通じて日本が中国の人々に強いた苦痛を描きだす。

目を背けたくなる歴史,国と区のあいだで激しい感情対立をよぶ歴史と向かい合うのはおそろしく骨が折れる作業だ。それでも,歴史の複雑さと向き合うことからしか何も始まらない。この本にみる山室氏の「キメラ的」な知性のあり方-国家の暴力にふみにじられた人々の苦痛への想像力と,多面的,実証的な研究姿勢をかねそなえた姿勢-は,そのために学問にできることを見事に指し示している。

2013年7月21日日曜日

今さら読む,『風と共に去りぬ』

『風と共に去りぬ』全5巻を読了した。40代半ばになるまで読まずにきたのだから,これから先も読むことはないだろうと思っていた小説だ。

『風と共に去りぬ』といえば,ガールズ向け小説の代表格。しかも,映画(実は未見なのだけれども)が有名なので,この小説の粗筋は,だいたい知っている。それにこの本は,良くできた娯楽小説だけれども,小説としての奥行きや広がりには乏しいという評判だ。そんな本を,今さらよむのもなぁ・・・。

などと思っていたのに,読むことにしたのは,この本が私にとって「いまさら」である最大の理由-これが私の母の青春時代の愛読書であるという理由からだ。母は今でも,高校時代に従姉妹や同級生たちとともに夢中になってこの本を読んだ思い出をよく語る。ふと「この小説の何が,母の,そしてあの時代の日本人女性の心をそんなに掴んだのだろう?」という興味が湧いて,読んでみることにした。

『風と共に去りぬ』は確かに,読み始めたらとまらない小説だった。南北戦争を舞台に,スカーレット,アシュレー,バトラー,メラニーの間の三角関係と,同性間の奇妙な友情の物語がスリリングに展開されていく。緩急をつけた構成が巧みだし,著者の物語への情熱が全編にみなぎっている。何より,気品ある美青年のアシュレと,究極の色男バトラーから思いを寄せられるヒロインという設定が,10代女子の”妄想”をしっかり満たす強力な筋書きだ。細部までしっかり描かれた歴史小説であることにも驚いた。

原作は1936年出版。新潮文庫版は,大久保康雄・竹内道之助訳[1977]。

読み進めながら,「この小説の何が,1950-60年代の日本人女性の心を掴んだのだろう?」と考えた。まず,これはすでに広く指摘されている点だろうが,女性の視点から,南北戦争による徹底した破壊とそこからの再生を描いたことが,同じような時代を生きることとなった戦後日本の女性たちの心性とマッチしたのだろう。

著者は,レット・バトラーの口を借りて,戦争についてこう語る:「戦争には,ただ一つの理由しか絶対にありません。それは金だ。戦争はすべて,じつは金の奪い合いなんです」(第二巻pp.50-51)。これだけ冷徹に戦争の本質を見極めていたバトラーも,結局は不思議な愛国心に駆られて戦場に向かうのだが,スカーレットはその利己的な性格ゆえに,抽象的な大義にはまるで心を動かされず,最後まで戦争への突き放した視線を失わない。そんな彼女の目から描かれる戦争の荒廃と,戦後の価値観の転倒は,敗戦と復興の時代に生きた日本人たちの経験とシンクロするものだったのではないか。

スカーレット・オハラのキャラクター設定も,実に興味深い。私がヴィヴィアン・リーの姿から連想していたスカーレットのイメージは,「勝ち気で情熱的で高貴な女性が,歴史に翻弄されながら,気高く生き抜いていく」というものだった。

ところが,小説中のスカーレットは,少しも気高くなんかない(ついでにいうと,映画と違って,特別な美人でもない)。むしろ,やたらと虚栄心が強く,徹底して自己中心的な性格だ。目先の利益の計算には長けているが,物事への洞察力や,他人の高潔さ・誠実さを理解する能力は欠けている。しかも,品が悪くてすぐに怒鳴りちらす。行き当たりばったりに,愛のない結婚を繰り返し,生まれてくる子どものことも,邪魔だとしか思わない。打算から妹の恋人を奪い,製材所を経営するという「性別のない」ふるまいをしたうえ,にっくき「北部人(ヤンキー)」にとりいって,南部人の怒りと軽蔑をかう。

だが,スカーレットのこの「食えない」性格-それは,戦争によって生きる気力を失った家族とタラを守るために彼女がまとった鎧でもあるが-こそが,この物語が世代を超えて多くの女性の心をつかんできた鍵なのだろう。読み手は誰でも,彼女のなかに自分の愚かさや欲深さを見いだすからだ。

周りとの摩擦を恐れないあつかましさ,手段を選ばない欲の皮の突っ張り具合。読み手をはらはら・いらいらさせることで,超長編を一気に読み進めさせてしまうこの最強キャラクターは,それまでの女性向けの小説には見られなかった一種の革新的なヒロインだったのではないか?

このようにこの小説は,ヒロインの破壊的なキャラクターと型破りなふるまいを描いており,また驚くほど保守的だった南部の性別規範に挑戦する女の物語でもある。しかし他方で,著者の黒人観といい,物語の帰着先といい,この物語を支える世界観の骨組みは,随分と保守的で,偏見に満ちていて,底が浅いものだとも思う。

やや古い感じもあるけれど,良書です。
特に,黒人の登場人物の描き方や,奴隷制をめぐる描写には,ミッチェル自身の強烈な偏見-彼女はそれを自分の「偏見」だとは思っていなかっただろう-が現われている。この点については,青木富貴子『「風と共に去りぬ」のアメリカ 南部と人種問題』(岩波新書,1996年)が丁寧に論じているので,詳しくは書かない。けれども,この物語にのって,白人支配者に都合の良い「ハッピーな奴隷」「愚かな黒人」観が,戦後日本の女性を含む世界中の若い読者の間に運ばれていったという事実を思うと,ため息が出てしまう。

「ミッチェルの小説は,悪意に満ちたステレオタイプの奴隷を描き,人種差別小説と呼んでもおかしくないほどのものです。・・・しかし,白人でも,黒人でも,日本人でも,あらゆる人種の人たちがこの小説を読んで,たまらまく面白いと思い,自分自身を白人の主人公になぞらえて物語を読み進める・・・・そして,明日は明日の風が吹くとスカーレットのように思うのでです」(青木前掲書中のある黒人政治家の発言,p.95)。
ああ,まったくその通りだ。

シニカルな異端児だったレット・バトラーも,年と共に,愛娘ボニーのために,軽蔑していた南部の名士にとりいるありふれた父親になり,最後は,あれほど嫌っていたはずの故郷へと帰っていく。そしてスカーレットも,母なるタラの大地に向かう。この帰結もまた,メロドラマの帰着先としては実にありふれたものだ。

文学を,国境と時代を超えて互いに影響を与え合う作品どうしのネットワークとしてとらえるなら,『風と共に去りぬ』は,その営みの体系から外れた作品だろう。たしかにこの小説には,優れた小説の登場を新たに啓発するような広がりや深さがない。その系譜をひくのは,せいぜい「ハーレクインもの」とよばれるちょっとエッチな少女向けロマンスのような無数の消費型小説と,あまたの映画,ドラマ,マンガに登場するスカーレット型の高慢なヒロインの造形ということになろう。

けれども,この小説が,1936年の出版以来,80年近く,世界中で読まれてきた(手元の新潮文庫は第62刷!)のは,スカーレット・オハラの異常なまでに旺盛な生命力が,さまざまな混乱や苦しみに直面する人々を励まし,周りからの嘲笑をはねのけて生きる彼女の姿が,多くの女性を力づけてきたからだ。そう考えると,『風と共に去りぬ』は,実に偉大な大衆小説である。

7月半ばに台風7号が台北を直撃。風の威力はすごい・・・

2013年7月7日日曜日

変わりゆく「世界の工場」

11日間の中国出張を終えて,昨夕,台北に戻った。私の中国行きは基本的には台湾系企業を回る旅なので,台湾系企業の二大集積地である広東省南部と上海周辺に足をのばすパターンになる。今回もまず,香港経由でシンセンに向かった。

1990年代半ば,シンセンから東莞,広州へと続くエリアを初めて訪れたときに受けた衝撃は,今でも忘れられない。中国ぢゅうのブルドーザーを集めていっせいに地面を掘り返したのかと思うばかりの無秩序な土地造成,果てしなく続く工場群,宿舎の窓に吊るされた色とりどりの作業服。夜の高速道路を走ると,闇のなかに24時間稼動の工場の灯が無数に浮かび上がり,巨大な不夜城がどこまでも連なっているかのようだった。


台湾系の工場では,昼時に,数千人の従業員が軍隊式に列をつくって食堂に向かう姿や,同じ身長の女性ばかり,視力2.0以上の女性ばかりを集めた生産ラインを組んでいるという企業の話に驚いた。殺伐とした宿舎の室内や,暑い工場のなかで,マスクもせずにスプレー塗装をしている女性作業員たちの姿にも衝撃を受けた。台湾人幹部の案内で工場を見学しながら,「なぜ私は生産ラインのあちら側ではなく,こちら側で,彼女たちを見学しているのだろう?」と問わずにはいられなかった。

一方で,残業が終わったあと,路上に繰り出しておしゃべりをしている女性たちや,腕を組んだカップルの姿は,青春そのものだった。かりに私が四川省の山深い農家の娘に生まれていたら,学校を出たあと,農作業をしながら親の決めた相手と結婚する人生と,同じ年頃の仲間と一緒に沿海部の工場で働くことのどちらを選ぶだろう?とも考えさせられた。


あれから10年以上がたった今でも,中国は「世界の工場」であり,それを支えるのは内陸部からの出稼ぎ労働者たちだ。それでも,今回,東莞や昆山で目にした生産ラインの現場からは,かつて「無制限労働供給的」と形容された中国の労働市場がとっくに様変わりし,企業と労働者が相互に選び合う(*もちろん力関係は圧倒的に後者に不利だけれども)時代が訪れていることがうかがわれた。




出稼ぎ労働者たちの宿舎。窓には洗濯物が干してある。


東莞の台湾系企業にて。以前は女性のみだったというが,今は半数近くが男性。

まず目につく変化が,工場労働者に占める男性比率の上昇と,平均年齢の上昇だ。企業が「管理がしやすい」若い女性労働者を好む傾向には,変わりはない。しかし,若い女性はサービス業に向かうようになっているため,多くの工場が,男性を受け入れ,年齢制限も相当緩めているという。

また,かつてのように全員が宿舎に住みこむ時代も過ぎ,中堅ワーカーを中心に,自由を求めて工場外に部屋を借りて暮らす人が増えたという。かつての労働者らが,給料の多くを実家に送金していたのに対し,最近は給料の多くを自活のために使うようになっているともいう。

超安価なケータイの普及も,出稼ぎ労働者の味方となった。前に台湾企業で聞いた話によると,ケータイの普及とともに,残業の状況(*出稼ぎ労働者は,限られた年限で少しでも多くの収入を得たいと考えるため,残業が少ない企業は敬遠される傾向がある),食堂の食事の質を含む各社の労働条件に関する情報が労働者の間で広く流れるようになり,人気のない企業は人集めにひどく苦労するようになっているという。

その中国製の超安価なケータイ生産を支えているのが,シンセンの華強北市場だ。ここは巨大な電子製品・部品の市場で,携帯電話づくりに必要なあらゆる部品が手に入る。シンセン周辺には,ここで買った部品を組み立てて,超安価なケータイ・スマホを大量につくるメーカーが集積しており,出稼ぎ労働者にこの重要な「装備品」を提供しているのだ。

ケータイの基板,キーボード,各種部品。なんでも売られている華強北市場。
華強北路の表通りは有力ブランドのスマホ売り場に様変わり。怪しい部品市場は裏手に多い模様。

5日目からは,華中地域へ。蘇州一帯,特に昆山市周辺は台湾系企業が多数集積する大工場地帯だが,それでもあちこちに水をたたえた田んぼが広がり,柳の植わった水路が流れている,白壁の民家も,簡素なつくりながら,どことなく豊かさを感じさせる。車窓からのぞくだけだが,民家の家並みをみて,そのなかでの人々の暮らしを勝手に想像するのが楽しい。

杭州では,民家が大きく,色が派手で,あちこちの家に仏舎利状のタワーが載っているのが目をひいた。地元の裕福な人たちの家らしく,タワーは避雷針とテレビ用を兼ねているらしい。また,家ごとに棟の高さを競っているらしい。早い時期から私営企業が発展したこの地域らしい,エネルギッシュな光景だ。


杭州の大きくて派手な民家。

ドーム状のタワーを載せている家が多い。
上海では,静安寺近くのホテルに泊まった。この周辺には,1910-30年代に建てられたヨーロッパ式のアパートがたくさん残っており,現在でも住宅として使われている。最終日,仕事から戻ってから日没まで1時間ほどあったので,散歩に出てみた。

華中路に沿って広がる1920年代の英国式アパート群。

私は中国の住宅制度をよく知らないのだが,いずれも,アパート群のある敷地の一角に国有企業があること,住民の平均年齢が高く,庶民的な雰囲気であることから推し量るに,これらの住居は,中華人民共和国成立後は,国有企業の住宅として人々に分配され,のちに私有化されたものではないだろうか?

路地ではお年寄りが夕涼みし,近所の人たちが立ち話をしていた。高層ビルの谷間に,こんな生活感あふれる空間が広がっていようとは思いも寄らなかった。
愚園路から一歩入る。



華中路の住宅の一角は公的セクター。



最終日は,上海浦東ー台北桃園空港線に乗り,「両岸直行便」を初体験。かなり前に予約したのに,両都市の中心部の空港を結ぶ上海虹橋-台北松山空港線は取れなかった。二階建ての大型ジェット機は,ほぼ満席状態だった。両地を行き来する人の多さがうかがわれる。

11日間の中国出張は,学ぶことが多く,刺激的で,楽しくもあったが,桃園空港に着いて台湾風のまるっこい発音の中国語を耳にしたら,ホッと緊張がほどけた。台北に住んで1年ちょっと。3ヶ月後には私はもうここを去る。でも今このときだけは,私にとって台北は,帰る場所なのだなぁ。


2013年5月31日金曜日

日台接客考


先週日曜の日経新聞「文化」欄(2013.5.26付 28面)で,角田光代さんの「接客今昔」というエッセーを読んだ。

「飲食店や洋服店での接客には,流行がある。バブル期には横柄な態度がはやり,バブル崩壊とともに機械のようなマニュアル対応が,やがて必要以上に丁寧な接客が広がった。最近は『友だち接客』とも呼ぶべき新しい波が現われているようだ」という内容だ。ちょうど,この10数年の台湾の接客カルチャーの変化や,日台の接客観の違いについてボンヤリ考えていたところだったので,面白く読んだ。

「圧縮型の産業発展」を遂げてきた台湾のサービス産業では,日本で順を追って現われた複数の接客カルチャーが同時に出現しているように思う。「必要以上に丁寧な接客」が現われる気配は感じられないが,「横柄型」「機械型」「友だち型」には日々お目にかかる。

こんなおしゃれな洋菓子店も現われた(台中・宮原眼科洋菓子店)

日本のチェーン店も続々進出(統一阪急百貨店)

台湾の「横柄型」は,バブル期日本のような演出がかったものとは違って,もっと単純に横柄だ。「接客が面倒」という気持ちを隠さないだけなのかもしれない。この10年で,台湾の(特に台北の)消費文化は随分洗練されたものとなったが,おつりを投げて返す売り子や,露骨に不機嫌な対応をする店主は,まだ少なくない。

「友達型」には,モダン型と伝統型がある。角田さんが書いていたような,接客の一環として親しく話しかけてくるスターバックスの店員はモダン型で,台湾でも着実に増えつつある。これに対して,「伝統型」は,接客する側が,販売員としての「公」の顔をするりと脱いで,いきなり「私」として接してくるタイプの接客だ。遅めの時間にスーパーで生鮮食料品を買たら,レジの女性に「これから料理するの?今から始めたら9時近くになるよ,疲れるから食べて帰ればいいのに」と言われる。コンビニでハーゲンダッツのアイスを買ったら,「これ高いですよね,本当に値段に見合うほどおいしいですか?」と聞かれる。同じくコンビニでビールを買ったら「あなたがお酒買うの,初めて見た」と言われる。(←以上,いずれも最近の私の体験。)

最たるものは,タクシー運転手だ。「結婚しているか?→彼氏はいるか?→なぜ彼氏と早く結婚しないか?(20-30代向け),「子どもは何人いるのか?→なぜいないのか?orなぜ一人だけなのか?」(30台後半以降向け)等,日本では友人・親戚どうしでも聞かないor聞けない質問が矢のように降ってくることがある。「うるさぁーい!」と叫びそうになることもあるが,こういう時には「運転手さんは?」と聞けばいいのだと学んでから気が楽になった。

相手のプライバシーの尊重を基本とする日本の接客とは違って,台湾では私的な「相手への興味,関心」を示すことが,親しみの表現方法のひとつになっているように感じる。このような友達型接客は,内心はどうであれ建前として,買い手を一段高いところに「お客様」として祭り上げる標準的な日本型接客の発想とはまるで違うものだ。

こんな伝統的な市場もしっかり健在。

台湾の「機械型」として私が真っ先に思い浮かべるのは,「秒速の食器下げ」だ。台湾のレストランでは,使い終わった(ようにみえる)食器をすばやく下げるのが重要なサービスだという通念があるようで,話が盛り上がって食事の手をちょっと休めると,食べかけのお皿を速攻で下げにくる店員さんが必ずいる。それがあまりに続くと,「早く食べて,早く出て行けというサインか」と疑いたくもなる。もう少し,客の食事のテンポを観察して,臨機応変な接客をできないものか。だいたい,かなりの高級レストランでも,最初にいきなりスープやビーフン炒めを出してくるところが多い。厨房もフロアも,お客が料理を楽しむための順番やテンポを考えずに,機械的につくって,機械的に運んでくるのだ。これじゃまるで料理マシーンと皿下げマシーンだよ。

などと考えていたら,先日,台湾の知人から「日本の飲食店は,融通が効かなくて機械的!」という話をきいた。この方の友人たちが,日本旅行の折,街のおそばやさんにグループで入って,「この温かいおそばを肉ぬきで」「このセット下さい。但し小皿の揚げ物は他のものに変えて」といった注文をしたのだが,店主は「できません」の一点張りだったとのこと。

「台湾ならなんの問題もなくできることなのに!」と批判する知人の気持ちも分かるが,「肉ぬきのカレー蕎麦(←という注文だったかどうかは知らないが)」といった注文を口々にされて,呆然と立ち尽くしたそば屋の店主の気持ちもよーく分かる。

しかし台湾では,こういう時こそ,「お客様は神様」なのだ。宴会のメンバーのなかに一人だけベジタリアンがいることを事前に伝えておけば,小皿に別盛りにした食事を,宴会の進行にあわせて適宜提供する。フードコートの飲食店のセットメニューでさえ,組み替えがきくことが多い。お客が食べたいと言うものを柔軟に提供できてこそ,飲食店としてのメンツが立ち,自然と繁盛もするもの,と考えられているようだ。

これは,接客文化の問題ではなく,飲食店オーナーのマインドの違いによるものだが,日本の店が,一部の顧客に融通をきかせて他の客へのサービスとの整合性がとれなくなることをいやがるのに対して,台湾では「来たお客を逃してなるものか」と考える傾向が強い。そのため,従業員の対応というレベルでは日本が,オーナーの臨機応変さという点では台湾のほうが,より柔軟になる。

「お客と売り手」という役割間関係に徹し,すべての顧客に平等に一定レベルのサービスを提供する日本と,お客を手荒に扱ったかと思えば,少々無理な注文にもどんどん答えようとする台湾と。どちらがより洗練された接客文化かと問われれば,圧倒的に日本なのだが,どこから何が飛び出してくるか分からない台湾の接客文化にも,不思議な迫力と底力がある。


台北を代表する繁華街のひとつ・西門町にて


2013年5月21日火曜日

県営観光バスで行く金門島の旅

5月3-5日に,金門島を旅してきた。金門は,中国福建省アモイの沖合,わずか数キロの距離に浮かぶ中華民国(台湾)領の島だ。この島は,1940年代末から1950年代にかけて,国共間の激しい戦闘の舞台となり,その後も長らく軍事統制のもとに置かれていた。2000年代に入ると,中国との「小三通」(アモイ・金門間の直接往来等の解禁策)の拠点となり,国共対立の最前線から一転して,両岸交流の最前線へと衣替えすることとなった。

台湾の友人たちに金門島のイメージを聞いてみたら,「兵役で行くところ」「東南アジアで成功した企業家を生んだ華僑のふるさと」「古い閩南(福建省南部)式の建築がよく残っている」といった答えがかえってきた。中華民国福建省(*金門島と馬祖列島のみから成る)への好奇心もあり,連休を利用して来台した連れ合いとともに行ってみることにした。

1日目は台北・松山空港から9:25発の復興航空のプロペラ機に乗り,約70分で金門へ。空港から直に観光に出るつもりだったのだが,荷物を置きにいったん宿に行くことにした。結果的にこれが大正解だった。

今回,私たちが泊ったのは,島の西南部にある珠山集落の「漫漫民宿」。金門では,行政(国家公園)の主導下で,古くから残る閩南式の建物を保存・修復して民宿にする動きが広がっており,すでに60軒以上の古民家民宿がオープンしているという。私たちの宿も,100年以上の歴史を刻んだ建物だ。

タクシーで珠山集落に着いたとたん,そのたたずまいの美しさに息をのんだ。ため池を囲むように,柔らかな色合いの煉瓦造りの建物が,優雅な曲線を描いた低い屋根を並べている。台湾のどこでも見たことのない,シンプルで均整のとれた風景だ。


ため池を抱くように広がる珠山集落

何棟もの「古厝」から成る漫漫民宿
民宿の共有スペース。1泊目はこの空間を独占した。

 宿のマネジャー・黄さんが,さっそく部屋に案内してくれ,観光プランの相談にものってくれた。当初の私たちの予定は,2日を金門観光に,1日を対岸のアモイへの日帰り観光にあてるというものだった。これを聞いた黄さんが「週末のアモイは混雑していて勧められない。金門島をゆっくり楽しむほうがいい」と言って勧めてくれたのが,「県営観光バス」の利用だった。

島内には,観光バスが4路線走っており,それぞれ,複数の観光地を4時間弱で回れるようになっているという。まずは試しに乗ってみよう,ということになり,13:30金城ターミナル発のB線「古寧頭戦場線」に乗ってみたら,これが予想外に面白かった。これは,4路線のなかで最も「戦跡めぐり」色の濃いハードボイルド系のコースで, ①「金城民防坑道」の体験歩行(金門の市街地には,戦闘時の避難用に地下トンネルが張り巡らされている。そのトンネルを歩く),②和平記念園区(古寧戦史館,中国を間近に望む北山海岸の見学),③慈湖トーチカの見学,という内容だったが,盛りだくさんで面白かった。

というわけで,すっかり味をしめた私たちは,「1日目午後=B線,2日目午前=C線,同午後=D線,3日目午前= A線」と,観光バスの全路線を制覇することとなった。

このバスに乗って回ります。
この県営観光バスは,日本語のガイドブックやネット上ではあまり紹介されていないようだが,金門旅行を考える人には,ぜひお勧めしたいと思う。案内は中国語のみだが,ガイドさんは外国人の乗車にもある程度慣れているようで,中国語を解さないドイツ人カップルもツアーを楽しんでいた。ターミナルで,路線ごとのスケジュールが記されたパンフレットが手に入るので,集合地点とバスの出発時刻さえ押えておけば,中国語のできない人でも問題なく一行について回れると思う。

いずれの路線も,金門の観光資源である戦跡見学と伝統建築・集落見学が組み合わされていて,見応えがある。駆け足での見学なので慌ただしく,どこに行っても後ろ髪を引かれる思いで早足で立ち去ることになるが,見所の多い島内を効率的に見て回れるのは間違いない。

移動の足を心配する必要がないのも有り難い。島内の路線バスは本数が少ないし,タクシーを借り上げるのは高くつく。中国語が分かる人なら,バスの中ではガイドさん,博物館等では解説員の話を聞けるのも楽しい(もっとも,戦闘関係,歴史関係の解説の中国語は,私にはチンプンカンブンだったが・・・)。ガイドさんからは,両岸の軍事的緊張の緩和とともに島内の軍人の数が減っており,政府は軍人に変わる金門の収入源の確保策として大学の誘致(複数の台湾の大学が,中国人留学生の獲得を目的に金門にキャンパスを設置することを計画しているらしい)や観光業に力を入れていること,金門の学校には中国で仕事をしている台湾人企業家の子どもが多く通っていること,などを教えてもらった。

驚かされるのが値段の安さだ。2路線に乗れるチケットが200元(700円),2人だと2割引きになるので,4時間近い充実した観光を,80元(300円弱)で楽しめる。見所の多くがきれいに整備され,入場無料であることも含めて,金門県が(そして中華民国政府が),この島の振興策として観光産業に多大な資源を投じていることに驚いた。

見学箇所のうち,つまらないと感じたのはD線の「自行車故事館」(自転車博物館)だけで,あとはどこも興味深かった。そのなかでも特に印象に残ったところを挙げると,まず,A線の水頭集落。金門は,南洋移民をたくさん輩出した「僑郷」。この村には,成功した華僑が故郷に建てた小学校や,美しい洋館が多数ある。華僑の歴史や洋楼の建築様式についての解説も豊富で,勉強になった。

南洋で成功した華僑が故郷に建てた小学校。

手前はミンナン式,奥は洋楼になっている。

洋楼の窓から。屋根が美しい。
観光のもう一つの目玉は,軍事施設・戦跡めぐりだ。なかでも,かつての軍事秘密基地だった翟山坑道のスケールの大きさと神秘的な地下水路が特に印象深かった。

ガイドさんは,中国の若い観光客から「台湾はどこと戦ったの?」と聞かれることもあるという。

しかし,個人的に最も印象に残ったのは,D線の「特約茶室展示館」だった。最初,パンフレットをみた連れ合いと私は,「なんで金門まできて,茶室を見せられるのか」と内心不満だったのだが,現地に着いてみて心底驚いた。特約茶室とは,なんと軍がもうけた慰安所のことだったのだ! 

金門に軍の慰安所「軍中楽園」が設立されたのは1951年。後に「特約茶室」と名を改め,1990年に廃止されるまで続き,金門島だけでも11箇所の特約茶室があったという。この展示館では,「特約茶室」の歴史を紹介しており,実際に使用されていた部屋も見学できる。後で調べてみたところ,「特約茶室」については,金門県政府から二冊の記録が出ているほか,未成年女子が働かされていたこと,女性たちが劣悪な環境に置かれていたことを詳しく論じたウェブサイト等もあった。今ではこざっぱりと整えられた「特約茶室展示館」だけからでは分からない,過酷な歴史を知ることができる。

1989年の「ウェイトレス(慰安婦)」の価格表。職種,職階ごとに大きく異なることが分かる。
かつて使われていた部屋が公開されている。
軍の慰安所についての記録を県政府がまとめ,施設を博物館として開放し,観光バスのルートのなかにいれる---。この展示館の建設や展示内容をめぐってどのような議論や意志決定のプロセスがあったかも興味深いが,何より印象に残ったのは,事実として存在したものを歴史として記録し,人々の記憶にとどめようとする姿勢だ。軍の島・金門の深い影を覆い隠すのではなく,それをも観光資源として位置づけようとするその姿勢(この主語は,中華民国(台湾)ということになろう)に,不思議な感銘を覚えた。帰り際,ガイドさんに「日本にこういう記念館はあるの?」と聞かれ,「いえ,ないです」と答えながら,なんとも複雑な思いが心をよぎった。

3日目は午前に観光バスに乗ったあと,おいしい牡蠣めんと広東粥の昼食を食べ,金門一の繁華街・金城の街をぶらぶら散策した。古い路地がくねくね走る旧市街をあてどなく歩いていると,突如,荒れ果てた洋楼に行き当たった。金城は,歴史の記憶が幾重にも折り重なった魅力的な街だ。


金城の街には古い洋楼が自然に溶け込んでいる。

対岸の中国領の島は,実際にはこの写真よりだいぶ大きく見える。


歴史的には対岸のアモイと極めて密接な関係にありながら,中国の内戦によって大陸とは異なる歴史を步むこととなった金門。こんにちの「台湾」の一部であるが,日本の植民地統治を受けておらず,台湾本島の人々とは異なる歴史を持つ金門の人たち。目と鼻の先に中国大陸を控えるこの島の人たちは,「閩南人」であるけれども,台湾の文脈でいう「本省人」とはまた異なるアイデンティティや歴史認識を育んできたのだろう。

中華民国在台湾が,このような異質な歴史を刻んできた土地をそのなかに抱えていることに驚きつつ,金門を後にした。