2013年7月21日日曜日

今さら読む,『風と共に去りぬ』

『風と共に去りぬ』全5巻を読了した。40代半ばになるまで読まずにきたのだから,これから先も読むことはないだろうと思っていた小説だ。

『風と共に去りぬ』といえば,ガールズ向け小説の代表格。しかも,映画(実は未見なのだけれども)が有名なので,この小説の粗筋は,だいたい知っている。それにこの本は,良くできた娯楽小説だけれども,小説としての奥行きや広がりには乏しいという評判だ。そんな本を,今さらよむのもなぁ・・・。

などと思っていたのに,読むことにしたのは,この本が私にとって「いまさら」である最大の理由-これが私の母の青春時代の愛読書であるという理由からだ。母は今でも,高校時代に従姉妹や同級生たちとともに夢中になってこの本を読んだ思い出をよく語る。ふと「この小説の何が,母の,そしてあの時代の日本人女性の心をそんなに掴んだのだろう?」という興味が湧いて,読んでみることにした。

『風と共に去りぬ』は確かに,読み始めたらとまらない小説だった。南北戦争を舞台に,スカーレット,アシュレー,バトラー,メラニーの間の三角関係と,同性間の奇妙な友情の物語がスリリングに展開されていく。緩急をつけた構成が巧みだし,著者の物語への情熱が全編にみなぎっている。何より,気品ある美青年のアシュレと,究極の色男バトラーから思いを寄せられるヒロインという設定が,10代女子の”妄想”をしっかり満たす強力な筋書きだ。細部までしっかり描かれた歴史小説であることにも驚いた。

原作は1936年出版。新潮文庫版は,大久保康雄・竹内道之助訳[1977]。

読み進めながら,「この小説の何が,1950-60年代の日本人女性の心を掴んだのだろう?」と考えた。まず,これはすでに広く指摘されている点だろうが,女性の視点から,南北戦争による徹底した破壊とそこからの再生を描いたことが,同じような時代を生きることとなった戦後日本の女性たちの心性とマッチしたのだろう。

著者は,レット・バトラーの口を借りて,戦争についてこう語る:「戦争には,ただ一つの理由しか絶対にありません。それは金だ。戦争はすべて,じつは金の奪い合いなんです」(第二巻pp.50-51)。これだけ冷徹に戦争の本質を見極めていたバトラーも,結局は不思議な愛国心に駆られて戦場に向かうのだが,スカーレットはその利己的な性格ゆえに,抽象的な大義にはまるで心を動かされず,最後まで戦争への突き放した視線を失わない。そんな彼女の目から描かれる戦争の荒廃と,戦後の価値観の転倒は,敗戦と復興の時代に生きた日本人たちの経験とシンクロするものだったのではないか。

スカーレット・オハラのキャラクター設定も,実に興味深い。私がヴィヴィアン・リーの姿から連想していたスカーレットのイメージは,「勝ち気で情熱的で高貴な女性が,歴史に翻弄されながら,気高く生き抜いていく」というものだった。

ところが,小説中のスカーレットは,少しも気高くなんかない(ついでにいうと,映画と違って,特別な美人でもない)。むしろ,やたらと虚栄心が強く,徹底して自己中心的な性格だ。目先の利益の計算には長けているが,物事への洞察力や,他人の高潔さ・誠実さを理解する能力は欠けている。しかも,品が悪くてすぐに怒鳴りちらす。行き当たりばったりに,愛のない結婚を繰り返し,生まれてくる子どものことも,邪魔だとしか思わない。打算から妹の恋人を奪い,製材所を経営するという「性別のない」ふるまいをしたうえ,にっくき「北部人(ヤンキー)」にとりいって,南部人の怒りと軽蔑をかう。

だが,スカーレットのこの「食えない」性格-それは,戦争によって生きる気力を失った家族とタラを守るために彼女がまとった鎧でもあるが-こそが,この物語が世代を超えて多くの女性の心をつかんできた鍵なのだろう。読み手は誰でも,彼女のなかに自分の愚かさや欲深さを見いだすからだ。

周りとの摩擦を恐れないあつかましさ,手段を選ばない欲の皮の突っ張り具合。読み手をはらはら・いらいらさせることで,超長編を一気に読み進めさせてしまうこの最強キャラクターは,それまでの女性向けの小説には見られなかった一種の革新的なヒロインだったのではないか?

このようにこの小説は,ヒロインの破壊的なキャラクターと型破りなふるまいを描いており,また驚くほど保守的だった南部の性別規範に挑戦する女の物語でもある。しかし他方で,著者の黒人観といい,物語の帰着先といい,この物語を支える世界観の骨組みは,随分と保守的で,偏見に満ちていて,底が浅いものだとも思う。

やや古い感じもあるけれど,良書です。
特に,黒人の登場人物の描き方や,奴隷制をめぐる描写には,ミッチェル自身の強烈な偏見-彼女はそれを自分の「偏見」だとは思っていなかっただろう-が現われている。この点については,青木富貴子『「風と共に去りぬ」のアメリカ 南部と人種問題』(岩波新書,1996年)が丁寧に論じているので,詳しくは書かない。けれども,この物語にのって,白人支配者に都合の良い「ハッピーな奴隷」「愚かな黒人」観が,戦後日本の女性を含む世界中の若い読者の間に運ばれていったという事実を思うと,ため息が出てしまう。

「ミッチェルの小説は,悪意に満ちたステレオタイプの奴隷を描き,人種差別小説と呼んでもおかしくないほどのものです。・・・しかし,白人でも,黒人でも,日本人でも,あらゆる人種の人たちがこの小説を読んで,たまらまく面白いと思い,自分自身を白人の主人公になぞらえて物語を読み進める・・・・そして,明日は明日の風が吹くとスカーレットのように思うのでです」(青木前掲書中のある黒人政治家の発言,p.95)。
ああ,まったくその通りだ。

シニカルな異端児だったレット・バトラーも,年と共に,愛娘ボニーのために,軽蔑していた南部の名士にとりいるありふれた父親になり,最後は,あれほど嫌っていたはずの故郷へと帰っていく。そしてスカーレットも,母なるタラの大地に向かう。この帰結もまた,メロドラマの帰着先としては実にありふれたものだ。

文学を,国境と時代を超えて互いに影響を与え合う作品どうしのネットワークとしてとらえるなら,『風と共に去りぬ』は,その営みの体系から外れた作品だろう。たしかにこの小説には,優れた小説の登場を新たに啓発するような広がりや深さがない。その系譜をひくのは,せいぜい「ハーレクインもの」とよばれるちょっとエッチな少女向けロマンスのような無数の消費型小説と,あまたの映画,ドラマ,マンガに登場するスカーレット型の高慢なヒロインの造形ということになろう。

けれども,この小説が,1936年の出版以来,80年近く,世界中で読まれてきた(手元の新潮文庫は第62刷!)のは,スカーレット・オハラの異常なまでに旺盛な生命力が,さまざまな混乱や苦しみに直面する人々を励まし,周りからの嘲笑をはねのけて生きる彼女の姿が,多くの女性を力づけてきたからだ。そう考えると,『風と共に去りぬ』は,実に偉大な大衆小説である。

7月半ばに台風7号が台北を直撃。風の威力はすごい・・・

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