2013年11月17日日曜日

音楽家が映し出す社会,社会が映し出す音楽という営み:吉原真里『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』を読む

吉原真里『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか? 人種・ジェンダー・文化資本』(アルテス出版,2013年,原著 M. Yoshihara,Musicians from Different Shore: Asians and Asian American in Classical Music, Temple Univ. Press, 2007)を大変おもしろく読んだ。

本を読む楽しさには幾通りかあって,深く頷きながらぐんぐん読み進めるときに感じる読書の快感と,要所要所で立ち止まり,著者に反論したり説得されたりしながら読み進めていくときに感じる読書の手応えがある。本書が与えてくれるのは後者のタイプの「骨を折る読書の喜び」だ。決して読みやすい本ではないけれども,最後の頁を閉じたときに,ああ,新しい世界と出会えたな,と思える本だ。


この本は,「アメリカ合衆国で西洋クラシック音楽に携わるアジア人やアジア系アメリカ人について,歴史的・文化的・民族誌的に研究したもの」である(p.25)。主な素材が音楽家へのインタビューということもあって,私はこの本を文化史の本として読み始めた。けれどもこの本は,私に二つの予期せぬ出会いを運んできてくれた。第1に,アジア人音楽家という存在に映るアメリカ社会との出会いだ。

著者は,今日のアメリカで活躍するアジア人音楽家たちの生い立ちとキャリア形成,自己認識と職業観といった内面世界を描きだすことを通じて,彼ら・彼女らという鏡に映し出されるアメリカ社会のありよう-具体的には,人種とジェンダーと経済(報酬のメカニズム,出身階層,階層帰属意識といった広義の"経済")の絡まり合いを見事に描きだしている。

実は私は,最初の数章を読みながら,本書が,著者自らその多様性を指摘しているアジア人を,「人種」として捉えていることに強い違和感を覚えた。「人種」という概念が厳しい批判にさらされ,否定されて久しいのに,なぜ著者はわざわざこの言葉を使うのだろう?と。

しかし読み進めていけば分かるように,著者が問題化しているのは,多様な背景を持つ東アジア系の人々が「Asianという人種」としてひとからげに捉えられるアメリカ社会の文脈だ。アメリカでは,"白人"と"黒人"という最も鮮明な"人種"間の対立を基軸として,先住民や複数の新移民グループが配置されるかたちで,"人種"間の緊張関係が展開してきた。このなかで,東アジア人というニューカマーは,集団的に貼り付けられた「アジア人」というカテゴリーを生きざるをえない。そのカテゴリー性は,「西洋」の伝統が重視されるクラシック音楽の世界で,また聴衆という顧客を獲得する過程で外見やイメージが大きく作用する演奏家の世界で,ことさら大きな影響を持つ。

さらにこの「人種」変数は,ジェンダーという変数と結びつくことで,個々の演奏家の立ち位置と内面を強く規定する。その点で,3章の「アジア人音楽家のビジュアルマーケティング」の節は,音楽という産業セクターにおけるraceとジェンダーの相互作用を描いていて,きわめて興味深い。

アジア系女性演奏家のなかには,自らの容姿を戦略的な「商材」にする人もいれば,アジア人女性へのステレオタイプを強化しかねないふるまいをする同性への強い不快感を抱く人もいる。いずれも女性の職業世界で広く見られる現象だが,クラシックの演奏家にとってのステレオタイプの有用性と有害性は,他の専門職のアジア人女性にとってとは比べものにならないほど大きい。アジア人女性演奏家はしばしば,その名前と外見によって,"聴く"以上に性的に想像され,見られる存在となるからだ。

サンフランシスコは西洋と東洋の出会う町。チャイナタウンとイタリア人街の境目にて。


この本が私に運んできてくれた第2の出会いは,西洋クラシック音楽の演奏という,私にとってはえらく不可解な世界との再会だ。

私は,クラシック音楽好きの両親のもとに生まれた。熱心にピアノを勉強していた母の方針で,3歳過ぎからピアノの英才教育を受け,中学3年の時にあっさり挫折した(実際にはそのずっと前から挫折していたのだが,やめられなかった)。そして,嫌々ピアノを練習していたあの頃から,クラシック音楽を聴く楽しみを知った今にいたるまで,私にはクラシック音楽の演奏というものの面白さが一向に分からない。

そもそもクラシック音楽の演奏とは,どこまでが再現行為で,どこからが表現行為なのか?あらゆる芸術分野で日々新しい作品が生み出されているなかで,昔の西洋の偉人がお残しになった少数の名曲を演奏し,鑑賞しつづけるという保守性は一体何なのか?作曲家の意図という誰にも知り得ないものを解釈しようとする秘密結社的な体質も,「おけいこ」「おさらい」「お月謝」といったピアノ界の住人の言葉使いも好きになれなかった。

私が長いこと抱いてきたそんな違和感と反発は,ここ数年,趣味で音楽を続けている友人の話などを聞くうちに少しずつほぐれてきたのだが,その「ほぐれ」のきっかけの一つを与えてくれたのは,実は,本書の著者である。著者が東京でピアノリサイタルを開いたとき(←ここまで書きそびれていたが,私は著者の大学時代の同級生である),「私らしい演奏をしたい」という表現を度々用いるのを聞いて,「えっ?クラシックの演奏で『私らしさ』というものを追求していいの?」とびっくりしたのだ。

本書は,クラシックの演奏における自己表現の問題を直接考察しているわけではない。けれども,第5章でのクラシック音楽の演奏における「真正性authenticity」をめぐる考察は,この問題を私なりに考えるための手がかりを与えてくれた。この章で著者は,「真正性」をめぐる音楽家たちの言葉を紹介しているが,ここから見えてくるのは,音楽のもつ超時代・超地域的な可能性と,特定の文化や個人の経験にねざす固有性とのあいだで揺れ動く音楽家たちの姿だ。

彼ら・彼女らの言葉と,著者の思考に刺激されて,私のなかでも,いろいろな思いがわき上がってくる。私は,何人かの音楽家が「血」「魂」「本能的」といった言葉で強調する,作曲家と演奏家の文化的な結びつきを絶対視する議論には,「ちょっとなー」と引いてしまう。他方で,演奏が,個人の表現行為であるなら,広東語アクセントのショパン(p.252)や演歌風のシューベルトがあったっていいじゃないか,とも思う。

そして,演奏家の言葉に刺激されて,答えのでるはずのない「真正性」についてあれこれ思いをめぐらすなかで,彼ら・彼女らの「不可解さ」への違和感が少しずつほぐれていき,彼ら・彼女らが追求しているものの一端に触れることができたのを感じる。音楽という,とかく「言葉にならないもの」として神秘化される傾向の高い営み(岡田曉生『音楽の聴き方』中公新書,2009年)への窓を,言葉の世界が少しだけ開けてくれることを感じる瞬間だ。

サンフランシスコのチャイナタウンにて。
最後に,いくつかのコメントを,ばらばらと。

本書を読むと,英語と日本語の学術書のスタイルの違いがよく分かる。日本語の叙述スタイルが,材料を分厚く積み上げて,書き手の結論を読み手にじわじわと共有していくプロセスをたどるの対して,英語の学術書では「これが結論です」という著者のメッセージが,最初にドーンと示される。その違いをよく知っているはずの私でも,1章で,アジアの西洋音楽受容史に絡めて,西洋帝国主義,近代化といった生硬なbig wordsがどんどん出てくるのには結構面食らった。しかし,第2章以降でインタビュー相手たちが登場してくるとがぜん叙述が生き生きしたものになる。これからお読みになる方は,どうぞ,冒頭部だけで挫折しませんよう。

「もっと分析してほしかった」と思うこともいくつかあるが,その中から一点だけあげたい。歴史的・文化的起源における「正統性」を重んじる西洋クラシック音楽の世界でのアメリカの位置づけはもっと丁寧に論じるべきだったと思う。音楽における「本場主義」のなかでは,アメリだっても,西洋音楽の歴史的背景から切り離された根の浅い新興国とみなされているに違いない。クラシック音楽における「真正性」争いの勢力図のなかで,アメリカが占める位置づけを明示化することは,この国を舞台とするアジア人音楽家の姿を描きだすための前提として必要な作業だったのではないか。

それから,技術的な問題を一つ。本書に登場する台湾人,香港人が自らを語るなかで用いた"Chinese"の語は,「中国人」ではなく「華人」と訳するほうがよかったと思う。個々の演奏家の帰属意識を知る由はないが,台湾人や香港人が英語で自らに言及する時に用いる"Chinese"の語は,政治的含意を持つ「中国人」という概念より,文化・歴史を緩やかに共有する集団としての「華人」概念により近いと思われるからだ。

音楽家が映し出す社会の力学と構造。社会というプリズムを通してみたときにくっきりと立ち上がる音楽家たちの内面。優れた学術書の常で,本書は,読み手に,マクロとミクロの両方の世界の行き来を体験させてくれるスリリングな書物だ。

私も,専門分野は違うけれど,いつの日にか,こんな学術書を書いてみたいなあ。