2012年12月21日金曜日

「英雄」を求める技術システム


台北の冬は,雨の季節だ。繰り返し近づいてくる低気圧に覆われるたび,冷たい雨が降り注ぐ。15年前の滞在経験から冬の陰鬱さは覚悟していたけれども,今月に入って降り続いた長雨にはかなり参った。


雨にぬれて輝く巨大な葉っぱ。木柵・政治大学にて。

心にかびが生えそうな気分になっていたので,今日は久しぶりの快晴になったことが本当に嬉しく,お昼に中央研究院のキャンパスのなかをぐるぐる歩き回った。

南港山脈の美しい稜線を眺めながら,福島の山々のことを思った。そして,読み終えたばかりの『死の淵を見た男:吉田昌郎と福島第一原発の五百日』(門田隆将著,PHP研究所,2012年)のことを考えた。


PHP研究所 HPより。



題名の通り,この本は,過酷な事故に見舞われた福島第一原発の現場の人々の3.11直後からの数ヶ月にわたるドキュメンタリーである。副題には吉田所長の名前が挙げられているが,吉田氏というカリスマ的な人物だけに光をあてているわけではない。紙幅の多くは,原子炉建屋に突入した作業員,放水による冷却作業に携わった自衛隊員,協力企業の人々といったあの壮絶な現場で働いた人々の生の声の紹介に割かれている。

これは,「福島フィフティーズ」を含む,幾百人もの無名の英雄たちの物語だ。けれども,英雄とは何なのだろう?私たちは彼らの勇気と責任感を,遠くからあがめ,称えるだけでよいのだろうか?

福島第一原子力発電所(2012/3/12朝日新聞ウェブより)
 


昨晩,Cafe Philo(慕哲珈琲)で「社会は英雄を必要とするか?」という座談会が開かれた。学生運動や社会運動が盛んな台湾では,これまで,幾人もの社会運動や政治運動を象徴するヒーローが生まれてきた。

席上,あるパネリストが「英雄とは社会的なプロセスである。英雄は社会が必要とし,生み出し,その地位に押し上げ,しばしばそこから引きずり下ろす存在だ」と発言した。ああ,その通りだ,と思った。

吉田所長を含め,3.11後の福島第一原発の現場で命がけで働いた人々は,英雄になることを選んだわけではない。彼らは英雄になるほかなかったのだと思う。彼らという英雄を必要としたのは,原子力発電という,いったん重大な事故を起こしたら瞬く間に国家レベルの危機を引き起こし,人々の故郷を破壊してしまう巨大で残酷な技術システムだったのではないか?


Cafe Philoでの討論会のようす。
あの日まで,ごく普通のサラリーマンであり,ありふれた夫・息子・父であった人々が,大規模余震や再度の津波の襲来の可能性があるなか,線量計が振り切れるほど汚染され,すべての計器が止まった原子炉建屋に突入し,バルブを開き,メーターを確認し,冷却に向けた作業を行い,最悪の危機をその一歩手前で食い止める--。あの事故現場で命がけで働いた人々の勇気と責任感には本当に心打たれる。

しかし,この人たちの勇気と責任感は,原発という技術システムとそれを支える企業システムが,プラントの第一線を預かる人々に求めた英雄的な強さの現れでもある。そしてその巨大な技術システムは,本質において,戦争と非常によく似た構造を持つものであるように思われる。

この本で描き出されている福島第一原発の現場の姿には,疲労困憊した人々が所狭しと身を横たえていた免震棟の風景が「戦場のようであった」という比喩を越えて,戦争における国家と個人の関係によく似た残酷な構図が重なる。人々が「国が滅びるか,自らが滅びるか」の二者択一を迫られる点で,そして危険へのコミットメントを求める装置として「東電社員であること」「年長者であること」「管理職であること」といった位階システムが人々の行動を強くしばる点で,過酷事故下の原発の現場は,戦争の現場と極めてよく似た場であったのだと思う。


この本には勇気ある人々の物語がたくさん出てくるが,私がいちばん心を打たれたのは,事故直後の免震棟の中で作業員の世話やロジスティックスに奔走した佐藤眞理さんの言葉だ。3.11の後,極限の緊張状態に置かれ,「いろんなものが麻痺していた」という彼女が本当に泣いたのは,8月頃のことだという。

"私たちは,いろいろ復旧で誰もいない町の中を通って行くんですよ。本当に牛とかが死んでいたり,キツネとかが出てきたり・・・・骨と皮だけになってね。(略)あれ,あの尻尾,キツネだよね,って言いながら,持ってたあんぱんをあげたんです,それを見てたら,あんまり痩せて,哀れで。私,その時,もう本当に突然,バーっと涙が出てきたんですよ。人間だけじゃなく,動物まで,こんな目に遭っているということが,この土地一帯をこんなことにしちゃったって。そういう生き物が苦しんでいるのを見た時に,地元の人が事故で受けた被害の大きさがより胸に迫ってきて,本当に泣けました。"(一部略,pp.310-311)
戦場の極限状態から解き離れたときに佐藤さんを襲った悲しみと挫折の深さ,そして彼女を打ちのめした福島の山河の荒廃に,涙が出た。



冷たい雨の中でも花が咲き乱れる台北の冬。木柵にて。


改めて思う。原子力発電という技術システムは,いったん事故を起こしたときには,国と故郷を根こそぎ破壊し,その破滅の程度を少しでも小さくするために,その現場で働く人々に自らの肉体を犠牲にすることを迫るシステムなのだ。私たちは,他の方法でもつくりだせる電気というものを得るのに,どうしてそのような技術システムに頼り続けねばならないのだろう?

2012年12月13日木曜日

「子どもを生む花嫁さん募集します」


古新聞を整理していたら,こんなスゴい花嫁募集広告をみつけた。聯合報の一面右上,題字の真下に,赤字で婚婚婚婚婚婚・・・・と描かれた囲み枠があり,こう書いてある。
「結婚相手募集:①ある男性が「結婚し,子どもを生む」女性を必要としています。21-39歳,未婚のすらりとした美しい女性。②健康であること。③身長157センチ以上,ウェスト26インチ以下。色白,容貌端麗。④籍貫(父方の出身地)および学歴は不問(博士でも可),⑤(略)。⑥働いている人でも失業中の人でも構いません。」
続いて青文字で
「お医者さんによると,40-50歳(更年期)の女性は月経がなく,子どもを生むことができません。従って私は39歳以下の女性をめとって『子どもを生んでもらいます』」
 
とある。

聯合報 2012年10月27日 1面掲載。



こんな花嫁さんを募集しているご本人はというと,
「当人の条件①10数個の不動産,高級車を所有。貯蓄あり,安定した生活。②職業,結婚写真専門フォトグラファー,写真コンテストで7度の入賞歴あり。③身長170センチ,70キロ。健康,ハンサム,気品あり。(略)⑤道理をわきまえ,温厚で善良(他)。⑥本省人,63歳過ぎ(見た感じは40ちょっと),離婚歴有り,一人暮らし。」
だそうだ。




12月に入って雨の日が続く。それでも街角の緑はこの濃さ。



うーん,何ともえげつない衝撃的な募集広告ではあるが,ここまで堂々とされると,なんだかあっぱれ,という気になってくる。

しかし,「63歳過ぎだが見た感じは40歳ちょっと」という自己申告も,女性に「157センチ以上,ウェスト26インチ以下」を求める指定の細かさも,すべてが大変気になる記事なのだが,最も気になるのは,この男性が子どもを得ることを目的に女性を募集するという『借り腹宣言』をすることの意味だ。

「40-50歳の女性は月経がなく,子どもを生むことができません」という青字の説明が間違いであるように,39歳以下の女性ならば必ず妊娠すると決めつけるのも間違いだ。この男性は,めでたく39歳以下の女性と結婚しても,子どもを授からない場合には,結婚を解消するつもりなのだろうか? 望み通りに子どもが生まれたとして,妻と離婚することになったばあいに,母親に子どもの親権を持たせる可能性や,母と子どもの関係継続を認め尊重する考えを少しでも持ち合わせているだろうか?

妊娠・出産という身体機能を利用するために女性を「必要としています」というこの広告には--奇妙なおかしみとともに--心がざわざわと波立つものを感じずにはいられない。


杭州南路にて。


でも,このお金持ちでハンサムだという結婚写真専門フォトグラファーの彼も,願いをかなえてくれる女性を探し求め,結婚するまでのプロセスで,人と人とが一緒に生きていくということについて思い悩んだり,新たな境地にいたったりするかもしれないなー。いやしかし,この募集広告を見る限り,それを期待するのはムリそうだなー。

などとお節介きわまりない妄想にふけっていたら,ふと,タクシー運転手のCさんの悲しそうな顔が浮かんできた。

先日,いつものタクシー会社に電話をして迎えに来てもらったタクシーに乗り込んだら,二月ほど前に乗ったCさんの車だったのだ。

前回は,台北市郊外のあるメーカーまでの長い道すがら,Cさんと,20歳年下のベトナム人の奥さんの話を長々と聞いた。写真を見せてもらった奥さんは,華やかな南国美人。「どうしても孫の顔を見たい」というお母さんの願いで,ベトナムへのお見合いツアーに参加し,結婚して10年。二人の娘が生まれたが,奥さんは数年前から家を出てベトナム人の男性と暮らし始め,たまに帰ってくるだけだという話だった。

密室のなかでの一期一会(そうではなかったのだが!)ゆえか,Cさんは饒舌だった。「そろそろ離婚するほかないかと思うけれど,別れたくない」「でも,あっちがもう,うちのお袋のこともオレのこともイヤだというからね。姑嫁関係がとにかく最悪だから」と言う。お母さんとは別居できないの?と聞いたら,子どもたちの世話をするのがCさんのお母さんである以上,妻をとるか母をとるかと迫られたら,母をとるしかないという。

数ヶ月を経て,Cさんの車にまた乗ることがあろうとは思わなかった。さっそく「奥さんとはどうしました?」と聞いたところ,その後正式に離婚したという。「まぁ子どもが二人できたからいいんだけれどね」「多分,あっちはあの男と結婚するんだろうけれど,詳しく知りたくないね」。「人生は思い通りにいかないもんだねぇ。」

子どもを生んでもらうために探し,一緒になった奥さんへの未練を語りつづけるCさんの姿に,それぞれの思惑から国境を越えて結婚することとなった男女が,長い月日をともに重ねるなかで育んだのであろう不思議なえにしを思った。


2012年11月28日水曜日

「台湾国際ドキュメンタリー映画祭」の二本の日本映画 その2

11月は,調査のために日本に戻ったり,親しい先輩たちが台北に遊びに来てくれたので一緒に街歩きをしたり,台湾社会学会年次大会のために日帰りで台中に二往復したりするうちに,あっという間に過ぎてしまった。


11月に入って雨の日が増えた。陰鬱な台北の冬も近い。
 
気がついたら,台湾国際ドキュメンタリー映画祭で「311」(共同監督:森達也,綿井健陽,松林要樹,安岡卓治,2011年)を見てから一月近くが経っている。「いまさら感想をブログに書いても仕方がない。関心のありそうな人に勧めるだけにしよう」と思っていたのだが,一月近くが経っても,あの映画の記憶は驚くほど鮮明に脳裏に焼き付いている。「石巻市立湊小学校避難所」の悲しくも穏やかな余韻が時間とともに次第に薄れていくのに対して,口のなかに無理やり砂粒を押し込まれたような「311」のざらざらとした感触は,この一月の様々なできごとにもかかわらず,まるで失われないのだ。


映画「311」より(Movie Collectionから)。

「311」は,東日本大震災の惨状に衝撃を受けて,「とにかく被災地へ行ってみることにした」4人のドキュメンタリスト(森達也・綿井健陽・松林要樹・安岡卓治)たちの物語だ。彼らは,放射能に汚染された福島第一原発周辺から,想像を絶する津波の被害を受けた陸前高田,そして石巻へと向かって走って車を走らせていく。ビデオカメラは被災地の惨状を記録していくのだが,そのなかで次第に焦点が当てられていくのが,カメラを手にした撮り手たち自身の姿である。

そう,この作品は,311という未曾有の災害を前にしたジャーナリストたちのセルフドキュメンタリーであり,ロードムービーなのである。被災地入りを前に,旅館でたばことお酒を手にハイになっている姿。放射能におののき,福島のホームセンターで間に合わせの防護用品を探し求める姿。そして後半部では,「絵」になる現場を求めてハイエナのように被災地を歩き回る自らの姿が,森達也に焦点をあてて描きだされていく。

日本のセルフドキュメンタリーの多くがそうであるように,この映画もまた,自虐的かつ自己愛的である。なかでも,「カメラを持った我々」の象徴としての森達也が,被災した人々との出会いのなかでさらすぶざまな姿は強烈だ。「A」「」A2」といった先鋭的な作品と,傑出した文章力で,日本のドキュメンタリー映画の理論と実践に新しいページを切り開いきてきた奇才が,子どもの遺体を探し続ける大川小学校の遺族たちがつぶやく「誰に憤りをぶつけていいのかわからない」という言葉に対して,「その憤りをぼくにぶつけてください」という空虚な言葉しか発することができない。森たちが遺体にカメラを向けたことに激怒した被災地の人々から角材を投げつけられ,もみ合いになるなかで,「僕たちだって苦しい思いをしながら撮っているんだ」「ヘラヘラしながら撮っているわけじゃない」(←いずれも正確な言葉ではない)とムキになって言い返す。思わず目を覆いたくなるものがある。

映画「311」より(Movie Collectionから)

けれども,「この作品は見るに値する作品か?」と聞かれたら,私はためらうことなく「イエス」と答える。

撮り手たちの姿がレンズともなり反射板ともなって,この映画からは,大震災の姿が強烈な衝撃を伴って伝わってくる。言葉が空回りするほかない津波の被害のすさまじさ,遺された人々の無念さ,放射能への恐怖がビリビリと伝わってきて,スクリーンから目をそらすことができない。何より,森達也の発する言葉の空虚さが,被災した人々の語る言葉の重みと誠実さを照らし出す。

この映画ははまた,撮ることの加害性,そうして記録されたものを見ることの暴力性をいやおうなく思い知らせるものだ。

森達也がやったように,自分の家族の遺体にカメラを向けるメディアがいたら,私も迷わず角材をなげつけるだろう。スクリーンに映し出された遺体が私の家族だったら,私はこの映画を見に来たすべての人を許せないと思うだろう。けれども,今この時点の私は,大震災で家族や大切な人を失った当事者ではない。遠く離れた台中の映画館という安全地帯から,この映画を見ている観客だ。そしてその立ち位置にある私の目には,被災した人に角材を投げつけさせたこの場面抜きに,この映画が成り立たないことは明らかであると思われる。暴力的なカメラがあってはじめて,私たちが知ることのできる現実があり,被災した人たちを傷つける影像を通じて,亡くなった人に思いを馳せることができるという,私たちが日々繰り返しているこの矛盾。


映画「311」より(Movie Collectionから)


「311」は,見る者の思考の枠組みを強烈にゆさぶり,感情の安全弁をこじあける作品だ。消耗させ,げんなりさせる映画だ。それでも,311の直後に流した涙の記憶が遠ざかり,メディアを通じて大量の物語を消費したあの日々のなかで感じていた強い罪悪感が薄れゆく今こそ,見るに値する映画だと思う。





2012年11月2日金曜日

台湾国際ドキュメンタリー映画祭の二本の日本映画 その1


台湾国際ドキュメンタリー映画祭で森達也監督の「A」「A2」が上映されるという。10月28日(日),新幹線とシャトルバスを乗り継いで台中の国立美術館に向かった。

開演90分前には受付に着いたのだが,なんと両作品ともチケットはとっくに売り切れていた。がーん!!考えてみれば,ここは,ドキュメンタリー映画の制作者・観衆の層が厚く,日本のドキュメンタリーへの関心も高い台湾。しかも各国の業界関係者が集まる映画祭の場だ。「A」「A2」の評判がとどろいているのも,当然なのだった・・・。

映画祭会場の国立美術館
 
ショックを受けている私に,映画祭のスタッフが,「え,日本人?森監督特集見に来たの?監督,帰っちゃったけれどかっこよかったわよー」と言いつつ,「石巻市立湊小学校避難所」と「311」の鑑賞を勧めてくれた。実は私は「A」「A2」とも前にDVDで見たことがある。同じ時間帯にこの二本が上映されることを知りながら「A」「A2」を見ようとすることが,映画という強烈なメディアを通じて東日本大震災と向き合うことのしんどさからの逃避であることは自分でも分かっていた。「よし,これも何かの巡り合わせだ」と思い,「石巻・・」と「311」のチケットを1枚30元(=80円!)で購入した。


「石巻市立湊小学校避難所」より(Movie Collectionから)
 
 
「石巻市立湊小学校避難所」(監督:藤川佳三,124分,2012年)は,大津波で甚大な被害を受けた石巻市の小学校の校舎に避難し,生活をともにすることになった人々の姿の6ヶ月にわたる記録だ。不思議な友情で結ばれた二人の女性--一人暮らしの70歳の愛ちゃんと,10歳の小学生の女の子・ゆきなちゃん--の姿を軸に,小学生の男の子とお母さん,福島から石巻の実家へ避難しボランティア活動をする女性,理容師さん,造船工場を営む兄弟,といった様々な人々にカメラを向けて,ひとりひとりの不安,怒り,喜び,再起への歩みを丹念に映き出した作品だ。

優れたドキュメンタリー映画は,できごとの広がりや,人の感情の複雑な絡まり合いを見せてくれるものだが,この映画にもそういう複眼的な視点がある。カメラは,支援物資の配給現場での管理者側の高圧的な取り仕切りぶりや,「ふるさと」を高らかに歌いあげる慰問団の善意に満ちた鈍感さにカメラを向ける。一方で,「見知らぬ人のために何かをしたい」という一途な思いが,被災者の抱える切実なニーズとうまく結びついたときにどれほど大きな力を発揮するか,たとえ不完全な存在ではあっても,ボランティアが被災者とどれほど深く結びつきくことのできる存在であるか,を見事に描きだしてもいる。避難所で生活する人たちのユーモアと笑顔,怒りと不安も,よく伝わってくる。特に,自分の怒りや違和感をカメラの前で率直に言葉にする女性たちの姿に感動した。撮る人への信頼がなければ不可能なことだと思うが,同時に,カメラを通して見知らぬ誰かに吐露せずにはいられない彼女たちの悲しみと怒りの深さを感じる。


「石巻市立湊小学校避難所」より(Movie Collectionから)

映画の終盤,69歳の愛子さんの緊張と不安のなかで張り詰めていた心が,仮設住宅への入居が決まったことをきっかけに静かに溶け出す瞬間をとらえたシーンには,こちらまで何かが溶け出してしまったかのように涙がとまらなくなった。

上映が終わって暗い場内に明るい光が灯ったときに心に浮かんだのは,この作品をつくり,届けてくれた藤川佳三監督への感謝の思い。「この映画を撮ってくれて,見せてくれてありがとうございます」と,心からの謝意を伝えたい。そしてそれ以上に,カメラに向かって語ること通じて,自らの経験と感情を私たちに伝えてくれた出演者の方々に,深い感謝と敬意の気持ちを伝えたい。

国立美術館では,台湾ビエンナーレも開催中。

終演後,「311」の開始まで1時間近い休憩があったので,美術館のなかをぶらぶら歩き回った。台湾国際ドキュメンタリー映画祭は,この国立美術館の2ヶ所と市内の別会場3ヶ所のあわせて5会場で行われているそうだ。この映画祭は,世界有数の規模と質を誇る山形国際ドキュメンタリー映画祭(隔年開催)の「裏」の年に行われているのだが,世界各地からやってきた映画関係者らが美しい秋の山形の街を闊歩し,作り手と観客があちこちで親密な会話を交わす山形映画祭の国際色豊かな雰囲気に比べると,ぐっとローカルな雰囲気だ。この日の二作品の観客をみる限り,平均年齢はかなり若いように感じた。

敷地内の「春水堂」でパールミルクティーを飲んでリフレッシュ。15時から「311」(森達也・綿井健陽・松林要樹・安岡卓治,92分,2011年)を見たのだが,いやはや,これがまた大変な作品だった。「石巻市立・・・」を見て私の心にぽっとともった灯は,この映画の作り手--特に森達也の強烈な毒気にあてられて瞬く間にかき消されてしまったのである。

このとてつもないドキュメンタリストたちのダークなエネルギーの呪縛から抜けて,感想を文章にまとめられそうな気になったら,「311」の感想を書きたい。しかし当分は無理かもしれないなぁ・・・。


「311」(Movie Collectionから)

2012年10月28日日曜日

台北の本屋さん その2:「本の気配」のする街


台北に住んで,東京での暮らし(←私は川向こうの某県民になって久しいのだけれども)を懐かしく思うことの一つが,「町の本屋さん」の存在だ。日本でも最近は,小型書店が次々と姿を消しているという。それでも,台北に住んでみると,新刊書店がコンビニや居酒屋とおなじように街中に溶け込んでいる日本の風景が,とても懐かしく思われる。

駅ナカや商店街に書店がひょっこり顔を現わす東京圏に比べると,台北の本屋さんの立地は,ずいぶんと体系だっている。書店集積エリアがいくつかあるのだ。

中国語の閲読力の不十分な私は,専門関係の書籍と雑誌,ベストセラー小説を少々買う程度の半人前以下の本の買い手なのだが,なじみのある本屋さんについて,少し書いてみたい。

台北の「書店街」として古くから知られるのは,台北駅からほど近い重慶南路だ。最近,ここでは書店の廃業が相次いでいるという。寂しいニュースだ。ただ,私はここの本屋とはあまり縁がなかった。公務員やサラリーマンが多く,予備校街に近いという場所がらもあって,実用書,参考書,中国文学や翻訳小説といった本が一通りそろっている古めかしい本屋が多い。店ごとの個性はあまりはっきりしていない。


台北駅前・重慶南路の書店街。

私がよく行くのは,台湾大学メインキャンパスの向かい,新生南路とルーズベルト通り(羅斯福路)に挟まれた一帯だ。老舗書店が軒を並べる重慶南路とは違って,比較的新しい小さな個性派書店が住宅街の中に点在している。

なかでも好きなのが,唐山書店(*羅斯福路三段333巷9號地下室一樓)。社会学,カルチュラルスタディーズ,思想史,美術史,都市研究,ジェンダー研究,台湾史研究など,社会科学・人文系書籍が充実している。平台には,最新の出版物やロングセラーが見やすく並べられ,ゆっくり手にとって眺めることができる。台湾の批判的研究の潮流がよく分かって大変おもしろい。



演劇や映画のポスターで埋め尽くされた階段を地下へ。アングラ感,たっぷり。

小さな入り口から怪しげな階段を下りた地下室にある唐山書店の店内は,床があちこちはがれ,古びている。しかし,不思議と居心地のいい空間だ。夏には,高い天井でゆっくりまわる大型扇風機の音が耳に心地よい。
 

社会科学系の品揃えが充実している。
もうひとつ,私の専門とは距離があるので眺めるだけのことが多いのだが,よく足をのばすのが「台灣e店 」(eは閩南語で"の"の意,新生南路三段76巷6號1樓)。台湾の歴史,自然,文学の書籍のほか,台湾の自然や動物をモチーフにしたTシャツや雑貨,音楽CD等が置いてある。年季が入ってきたからか,店内になんとなく生活感!?がある。

先日,ここに行ったときに日本植民地統治期のある台湾人作家の日本語小説集について聞いてみた。その時は「置いていない」という返事だったが,連絡先を聞かれ,後から作品の入手可能性についての電話をもらった。嬉しかった。


「台湾e店」


再び大通りの新生南路に戻ると,社会科学系の本が充実している「聯經出版」や,誠品書店・台大店といった中型の新刊書店がある。前回の投稿では,誠品書店・信義旗艦店について批判したが,その時念頭に置いていたのが,同書店の敦南店と,ここ台大店だった。いずれも,本が読みたくて集まってくる人たちで賑わういい書店だ。大学が近く,個性派書店のそろうエリアにあるからか,手頃な店舗のサイズが活気をつくり出しているからなのか。おしゃれだけれども空虚な感じの漂う信義旗艦店とは違って,ここ台大店は生き生きとした本屋である。




さて,最近,このエリアでは,おしゃれな古本屋がぽつぽつと現われてきている。こちらは,新生南路と羅斯福路にはさまれたエリアでみつけた「二手的書店」。大きなガラス張りの店内は明るく,本の整理も行き届いている。




羅斯福路の西側にあたる「公館」エリアには,友人に教えてもらった古本屋チェーン「茉莉」(羅斯福路三段244巷10弄17号)の支店がある。こちらも棚がきれいに整理されていて,小さい店ながら,並みの新刊書店より品揃えがよい。多くの日本の古本屋とは違って,ジャンル・カテゴリー別に棚が分けられているので,分かりやすい。





二手書店「茉莉」。賑わっている。


日本文学コーナー。

ちなみに,このエリアは,学生街であることもあって,一休みするのにぴったりのお店がいくつもある。新生南路側ならば,夏は各種かき氷,冬は焼仙草や湯圓を楽しめる「台一牛奶大王」へ!

学生や買い物客でいつも混んでいる「台一」。

マンゴーかき氷。かなりの分量だが,とてもおいしい。

本屋といえば,やはり喫茶店。「公館」エリアには,藤井省三さんの『村上春樹のなかの中国』(朝日選書)にも出てくる「ノルウェイの森」「海辺のカフカ」という二軒の喫茶店がある。どちらもゆったりくつろげるいい店だ。




ノルウエイの森
このエリアを歩くと,本はやっぱり本屋で買うべきものだなぁ,と思う。自宅で一人でDVDを見るのと,映画館の暗闇のなかで見知らぬ人たちとともにスクリーンを見つめるのとがまるで違う経験であるように,クリック一つで本を買うのと,本屋の賑わいのなかで,誰かがつくった棚から本を選び出すのとは異なる体験だ。

神保町・東京堂の元店長さんが『書店の棚 本の気配』(佐野衛,亜紀書房)という本を出したという。本屋の仕事と,本屋という空間の意味を端的に表すいい書名だ。

本屋とは,本を棚に抜いたりさしたりすることを通じて,売り手と買い手が無言のコミュニケーションをとる空間なのだと思う。今日紹介した小さな書店の棚からは,「本の気配」と棚をつくった人の気配を感じ取ることができる。そしてこのエリアには,この記事では紹介できなかった本屋,私の知らない本屋がたくさんある。ぜひ探検してみてください!


2012年10月10日水曜日

台北の本屋さん その1: 誠品書店信義旗艦店の「正しい楽しみ方」


930日の中秋節を境に,とつぜん秋がやってきた。空から巨大なホースが下りてきて,夏のあいだ空気をパンパンに膨らませていた水分をすっかり抜き取っていったかのようだ。代わって乾いた空気が降りてきた。「読書の秋」の到来だ。

10月の光(長興街・台湾大学宿舎にて)
 
週末,久しぶりに,台北の本屋さんめぐりをした。土曜日は,開店7周年セールで大賑わいの新光三越信義店を横目に,誠品書店の本店へ。

誠品書店は,いまや台湾が世界の華人読書圏に誇る文化資産だ。今年8月に香港への出店を果たし,再来年は蘇州への出店を予定しているという。

 
誠品書店信義旗艦店(MRT市政府駅すぐそば)
1995年に,誠品書店敦南店が現在の場所に移転・オープンしたときの衝撃は忘れられない。こと大型店に関する限り,相当に寒々しい状況にあった台湾の書店界に,突如,神々しいばかりに光輝くハイブロウな書店が出現したのだ。高級感あふれるオーク調の木材をふんだんに使った店内は,間接照明の光に照らし出され,コーナー間のつながりを巧みに実現した売り場の横には,洗練されたカフェが併設されている。今から思うに,店内設計はアメリカの大型高級書店,別フロアに輸入文具等のテナントを入居させるスタイルは丸善等に,それぞれ範をとったのではなかろうか。


 その後,誠品書店は台湾の読書文化の旗手として急速な成長を遂げ,台湾の主要都市に多数の店舗を構えるまでに成長した。書店以外にも,地下街等でフードコートを展開するなど,空間プロデュース業のような展開をしている。
 


信義旗艦店の店内。什器が豪華。


さて,2006年にオープンした信義旗艦店は,地上6F,地下2Fという巨大店舗。いまや台湾の読書文化,消費文化のランドマーク的な存在ともなっている。香港やシンガポールの文化人の多くが立ち寄る店だともいうし,日本人研究者もここに買い出しに行く人が多いし,とにかく「台湾を代表するすばらしい書店」ということになっているのである。

だが・・・・私はどうにもこの信義店が好きにはなれない。これだけ統一感のある「おしゃれな空間」を創り出したハード面の技量には感銘を受けるが,肝心の本屋としてのソフト面がついてきていないと思う。そう感じるのは,部分的には,私が中国語書籍の本当の読者ではなく,台湾の書籍世界の文脈を知らないため,この書店の空間構成が発するメッセージを受け取れていないからなのかもしれない。でも,同じ誠品書店でも敦南店や新生南路店にはこの物足りなさを感じない。ひとえに,信義旗艦店の巨大さに伴って現われている問題であると思う。

誠品書店は威信をかけて旗艦店をつくったものの,本業での実力でこの巨大な箱物を使いこなせず,余った面積をテナントに切り売りして商売しているように見える。実際,書籍売り場が入っているのは2階と3階だけ。その部分にしても,同じフロアのなかに書籍売り場と,アロマ製品・輸入雑貨・ITガジェット等のテナントが混在しているのが,どうにも座りが悪い。
 

奥は家具,バッグ屋さん。

 
こちらも,奥は調理器具,リビング用品屋さん。
 
 
書籍売り場にしても,スペースにゆとりがあるのは素晴らしいのだけれども,何度も通ううちに,これは空間を使い切れていないだけなのではないか,と感じるようになってきた。台湾の書籍市場での流通点数がこの巨大なスペースを満たすほどのボリュームに達していないからなのか,回転の悪い書籍は置かないようにしているからなのか。いずれにせよ,スペースを無駄なく活用して,本を大量に用意して客を待ち受けている日本の大型書店に比べると,「無駄に広い」印象を受けるのだ。

そして,肝心の企画力がいまいち。たとえばこのコーナー↓。遠くから見ると,木村伊兵衛の有名なスナップショットが目に飛び込んでくるかっこいいコーナーだ。しかし,近寄ってみると,肝心の本の品揃えがなんともわびしい。いくらでも工夫ができるはずなのに,どうにも見かけ倒しだ。
 
 
棚の上には申し訳程度に木村伊兵衛,そして蜷川実花の写真集が。


くだんのコーナーと写真集売り場はなぜかノート売り場によって区切られている
らに,日本書店の風景と比べると,「若い店員さんしかいない」こと,店員さんが棚の間を行き交う光景をあまり見かけないことに気がつく。

日本のあるベテラン書店員が,「本屋の売り場には,老若男女の店員がいなければならない」と指摘しているのを読んだことがある(石橋毅史『「本屋」は死なない』新潮社,2011年)。若い女性で売り場を固める書店が増えているが,そうすると,女性の好みに合わない本が並ばなくなり,棚のバランスが崩れてしまうのだという。

長年にわたって洪水のような新刊書の流れのなかに身を置き,本についての知識と売り場構成についてのセンスを身につけたベテラン書店員の役割も,重要なはずだ。

日本の実力のある本屋さんの社会科学のコーナーを眺めていると,古典と新刊を的確に組み合わせ,複数領域にまたがる本を最も的確なジャンルに分けていたりするのに出会って,「おお~!」と声をあげたくなることがある。閉店してしまったが,ジュンク堂新宿店では,棚分類を見るだけで勉強になった。自宅の最寄り駅の小さな駅ナカ書店も,人文系の品揃えにきらりと光るセンスがある。どれも,本に対するアンテナを高く張り,日々,商品知識を磨いている書店員さんの地道な仕事のたまものだと思う。新聞や雑誌の書評欄を中心とする制度化された日本の読書市場の存在も助けになっているのだろう。



台湾文学のコーナー。

9月の帰国時に立ち寄った八重洲ブックセンターの文庫コーナーで,お客さんが,あまり有名とは思われない時代物作家の名前をあげて,曖昧な記憶に基づく要領の得ない質問をしていた。これを受けた店員さんが,端末検索もせずに,すらすら文庫シリーズ名をあげ,ついでにその作家の新刊についても紹介していた。ああ,この人たちはプロだなぁ,とほれぼれした。同時に,いろいろなお客さんが書店員に声をかけることで,書店の現場力は磨かれていくのだろうなぁ,とも感じた。

そんな,「人」に強みのある日本の書店に比べると,この店の売り場は,アルバイトのように思われる若い店員さんばかり(しかも広大な売り場面積に対してかなり少ないと思う)。店員がお客さんを棚に案内したり,一緒に本を探したりしている光景もあまり見かけない。

 

台湾文学のコーナー その2

というわけで,この信義店は,誠品「書店」の旗艦店ではなく,洗練された消費文化のマーケティング屋へと多角化した誠品グループのショーウィンドーとして楽しむべきなのだろう。誠品「書店」の実力のほうは,ややこぶりな敦南店のほうでこそ発揮されているのだと思う。

「本屋を楽しむ」と思わず,台湾の消費文化の最前線をのぞきにいくつもりで出かければ,信義旗艦店も,大いに楽しめる空間なのだろう。
 

2012年9月29日土曜日

郭雪湖ふたたび:「南街殷賑」の視線について


前回の投稿では,郭雪湖の絵画と出会ってから,迪化街でご家族にお会いできることになった経緯について書いた。

9月1日(土)のお昼に民藝埕に集まったのは,郭雪湖夫人で,ご自身も才能あふれる画家であった林阿琴さん(97歳),二人の娘さん(郭香美さん,郭珠美さん)と息子さん(郭松年さん)。ホスト側は,民藝埕のオーナーで,郭雪湖の代表作「南街殷賑」の迪化街への里帰り展覧という夢に向けて活動をしている周奕成さんと,周さんの仲間の美術関係者やデザイナーたち。特別ゲストとして,周さんがこの絵とめぐりあうきっかけをつくった民藝埕の大家さんもいらした。大家さんは「南街殷賑」の大ファンなのだという。
 
郭さんご一家を囲む会の会場,民藝埕2Fの茶芸館「南街得意」
 
ご家族を囲んでのひとときは,実に楽しかった。お子さん方は,日本で学んだ経験があり,美しい日本語をお話しになる。息子さんは,京都大学で数学を専攻していた学生時代,休日になるたび,お父上のお供をして上野の美術館めぐりをした思い出を語って下さった。娘さんは,お父上が,生涯の師・郷原古統に対して抱いていた深い尊敬の思いや,国画論争が画風にもたらした変化について話して下さった。アメリカ在住のご家族たち-特にたいへんご高齢の郭夫人に,「南街殷賑」のなかに描きこまれている建物のなかでお話をうかがえるだなんて,信じられない幸せなことだと思う。


郭雪湖夫人(前列右),二人の娘さんと息子さん
 

そんな夢のような時間のことを早く文章にしようと思いながら,三週間が過ぎてしまった。9月半ばに大きな仕事と一時帰国の予定が入って多忙だったことも一因だが,それだけが理由ではない。郭さん一家とお会いしたあと,迪化街を歩きながら芽生えた「南街殷賑」への疑問が日増しに膨らみ,この絵の魅力をどう理解したらよいのか分からなくなってしまったのだ。

 改めて,「南街殷賑」と向き合ってみよう。この絵は,実に不思議なエキゾチズムに満ちていると思う。この絵が現実の迪化街を写したものではなく,資料を参照しながら想像力を膨らませて描いた作品であることは前回書いたとおりだ。

まったくの素人解釈ではあるが,前回の記事で書いたように,この絵には三つの要素がある。日本の植民者の手になる威風堂々たる洋風建築の表すモダンさと,霞海城隍廟にお参りする人たちのにぎわいが表す台湾の土着的な色彩と,看板や意匠の数々が表すエキゾチックな彩りの豊かさだ。この3つの要素のそれぞれ―モダンさ,ローカルさ,そして「蕃産内地みやげ」「蓬莱名産」「南國商會」「新高バナナキャラメル」といった看板や,壁に描かれた先住民族の伝統的な意匠にみられるエキゾチズム――には,自らを観光の対象として見る視点,いわばよそ者の視線――あるいはよそ者が台湾に見いだしたいと願う風景への視線――が強く投影されているように思う。誤解をおそれずにいうなら,この絵は,台湾をエキゾチックな南国として見る日本人の視線を内在させているのではないだろうか?
 

郭雪湖「南街殷賑」(1930年)

迪化街の街並みは実際には2階建てだが,郭雪湖はそれを3F建てにして描いた

それでは,私がこの絵から受けるそのような印象が間違っていないとするならば,そのようなよそ者=「北からやってきたよそ者」の視線は,どのような経路を経て,郭雪湖の絵画的な想像力と重ね合わされたのだろうか?台湾の風景を描きつづけた師・郷原古統の影響が,弟子である郭雪湖の台湾の風景への視線に現われているのだろうか? 

そんな疑問を胸に9月半ばに日本に一時帰国したら,ちょっと不思議な出会いが待ち受けていた。連れ合いが森美根子著『台湾を描いた画家たち』(産経新聞出版,2010年)という本を買って,私の机のうえに置いてくれていたのである。日本統治期の台湾美術史についてほとんど何も知らない私にとって,非常に参考になる本だった。

今回の参考文献

作者の森美根子さんによると,日本統治時代の台湾の画家たちは台湾の風景を主題にした作品を多数描いているが,これは「台展」(*台湾総督府の外郭団体主催の展覧会)等の展覧会の審査にあたった日本人画家たち(*1)が「臺灣色」豊かな風景画を受賞作品に取り上げたからであり,そのため台湾人画家の関心事は「ローカル・カラー」に向けられたのだという(p210)。さらにこの本では,顔娟英氏の論考(『風景心境──台灣近代美術文獻導讀』》上・下冊,雄獅,2001年)をひいて,そのような「台灣色」の重視が,台湾の特色を帝国の植民地体制の中に定着させることを目的としていたこと,「台展」が植民地政府の治績宣揚のための「飾り窓」であり,多くの台湾人画家たちがこの飾り窓に向かってしのぎを削っていたこと,を指摘している。郭雪湖は,第一回の台展で陳進・林玉山とともに衝撃のデビューを果たした「台展三少年」の一人で,それ以後,台展の常連として活躍した画家であり,「南街殷賑」も1930年の台展賞を獲った作品であった。

そうか,そういうことだったのか──。上のような解釈がどの程度,「南街殷賑」にあてはまるのは分からない。けれども,展覧会の審査という装置が,台湾人画家による「臺灣色」豊かな風景画の創作への熱意をかきたてたということを知ったうえで,この絵ともう一度向き合ってみると,この絵のエキゾチムの謎が解けてくるように思う。

この絵の鮮やかな彩りの背後には評価者=植民者と,評価される者=被統治者のあいだでの,,「台湾のローカル・カラー」を定義づける政治的な資源の不平等な配分があった。そのことを知った以上,この絵を単純に「台湾人画家が描いた台湾色豊かな絵」としてだけとらえるのは,無邪気すぎるだろう。

しかし,この絵には,そういった一種の紋切り型のとらえ方を軽々と飛び越える生命力がみなぎっている。そもそも,絵であれ,映画であれ,小説であれ,作家は作品の受け手との相互作用のなかで,作品を作っていくものだ。そして人は,他人から「見られる」ことを通じて自己表現を磨いていくものだ。評価される側に立つ創作者は,評価する者がつくりだす枠組みに縛られ,それを受け入れたり反発したりしながら,枠組みの外縁を少しずつ押し広げていく。


改めて,画集『四季・彩妍 郭雪湖』のなかで,特別に折りたたむかっこうで納められた「南街殷賑」を眺めてみると,この絵の持つパワーに胸をうたれる。ここには,若き日の郭雪湖の画家としての力量と想像力と野心がみなぎっている。迪化街のモダンさとコスモポリタン的な賑わいへの誇りがこめられている。

「南街殷賑」は,北からやってきた権力をもつよそ者たちが台湾に見いだしたいと願った「ローカル・カラー」と,よそ者が握る評価の枠組みのもと,自らの絵筆で自分の故郷の豊かな彩りを描き出そうとした画家のあいだで生じた強烈な化学反応のなかから生まれた作品なのだと思う
 

 (*1)台展の審査委員には内地の中央画壇から著名な画家が招かれていたという。そのなかではじめての台湾人審査委員になったのが廖継春であった(森[2010],p.120)。


2012年9月3日月曜日

迪化街での出会いはつづく:画家・郭雪湖のこと


その画家との出会いは,偶然だった。友人と一緒に圓山に遊びに行き,涼みがてら,ふらりと立ち寄った台北市立美術館で,彼の作品と出会ったのだ。

郭雪湖(1908-2012)--。日本統治下の台湾画壇で頭角を現わし,戦後も長きにわたって活躍した著名な台湾人画家だという。しかし,美術にうとく,台湾の絵画史はおろか日本の画家についてもよく知らない私は,初めて聞く名前だった。


郭雪湖「圓山附近」:この再現性の低さでは,作者に申し訳ないのですが,やはり画像があったほうがいいので。


郭雪湖「新霽」:本当に美しい絵です。ぜひ実物を見に美術館にお運びください。

美術館の二階,区切られた空間になっている展示スペースの右手には,「圓山附近」(1928)と「新霽」(1931)という二枚の作品が飾られていた。いずれも,手前に畑の風景,その背後に小さな森,その上にくれなずむ空を配置した作品だ。この二枚の絵と向きあった瞬間に,見えない手が絵のなかからグイと伸びてきて,心臓をつかまれたような衝撃を受けた。

私は,絵画の系譜や手法にまるで詳しくないので,郭雪湖の絵が「うまい」のかどうかもよく分からない。「素朴派」と呼ばれる画家たちを思い起こさせるやや素人じみた作風のようにも感じる。しかし,この二枚の絵と向き合うと,画家の心をとらえたもの,画家が持てる力のすべてを注ぎ込んで描き出そうとしたものが,伝わってくる。対象物への無我な没入と,題材を大胆に再構成し題材に構図を与えようとする強烈な表現欲が,渾然一体となって絵のなかから溢れだしてくるのを感じる。
二枚の絵は,台湾の緑の複雑な美しさを見事にとらえている。黄みがかった緑,黒みがかった緑,油光りするような肉厚の緑に,ふわふわと広がった広葉樹の優しい緑。色と色のふしぎな重なり合いを,郭雪湖の筆は,「圓山附近」では繊細に, 「新霽」では大胆に描き出す。それは,絵筆を握る人が,「描きだせますように,伝えられますように」という祈りをこめて愚直に一筆一筆を重ねていった先に現われた作品のように思われる。

 

郭雪湖「南街殷賑」(以上3点はいずれもネット上からDLした画像)

もう一枚,展示スペースの中央に,強い生命力を放つ絵が飾られていた。「南街殷賑」(1930)だ。郭雪湖が生まれ育った迪化街の「霞海城隍廟」の祭りのにぎわいを描いた彩り豊かな絵だ。縦長の画面の下方には,通行人たちの姿が細かく描かれて,街の賑わいが強調されている。左右には,迪化街のモダンな洋風建築がそびえている。目をひくのが,カラフルな看板の数々だ。「蕃産内地みやげ」「蓬莱名産 竹細工」「新高バナナキャラメル」といった文字に,凝った図柄や色鮮やかな意匠が施されていて,なんともエキゾチックだ。空を切り取るファサードが強調するモダンさ,画面中央に配置された看板の南国情緒,右下に小さく配置されたお廟の土着的なにおいが入り交じったなんとも魅力的な絵である。

後で解説を読み,この絵には,作者の想像力が奔放に取り込まれていることを知った。実際には二階建ての迪化街の街並みは,三階建てに「建て増し」されている。壁面に描かれた先住民の伝統的な意匠や看板のデザインは,資料や商業名鑑を参考にして描いたものだという。郭雪湖が,大稲埕への愛情をこめてつくりあげた万華鏡のような渾身の一作である。

迪化街の実際の街並みは二階建て+ファサード

けれども,この長命の画家が,後半生に描いた作品には,この三枚の作品に充ちていた強烈な躍動感と緊張感が感じられない。表現への強烈な欲望というつきものが落ちてしまったような物足りなさを感じる。この画風の変化は,一体なんなのだろう?

数日後,台湾史研究者の友人にこの話をしたら,彼も郭雪湖の初期の作品が大好きだという。そして,彼の作風の変化を理解する鍵である「国画論争」について教えてくれ,これを読むといいよと言って,数冊の本を貸してくれた。

1950年代に起きた「国画論争」は,不幸な,だが台湾の歴史の必然でもあったであろう,戦後台湾美術史を揺るがせたイデオロギー論争である。

日本の植民地統治下で,官営の展覧会を軸に組織されていた台湾の美術界は,戦後,台湾に移転してきた国民党の支配下で,台湾省全省美術展覧会(省展)として,再び上から組織化されることとなった。そして,日本統治下の展覧会の「東洋画」の部と「西洋画」の部は,省展の「国画部」と「西洋画部」となり,かつて「東洋画」の部で活躍した郭雪湖や陳進は,「国画部」の審査委員となった。

しかし1950年代初頭になると,外省人の美術家たちが,膠絵具を用いて創作する本省人画家たちの作品は「日本画」であり,「国画(この場合の「国」は当然中国である)」ではないとして,東洋画の伝統をひく画家たちを強く攻撃するようになる。東洋画出身の画家たちの描く作品を「正しくないもの」として排撃したこの「国画論争」は,多くの本省人画家たちに深刻な打撃を与え,外省人画家たちの画壇での主導権を固めることとなった。郭雪湖と陳進に関する文献の一部*を読む限り,言語面・政治資源面で圧倒的に不利であった本省人画家たちには有効な反論はできなかったようだ。「論争」というより一方的な攻撃であったのではなかろうか。画家たちのなかには,創作意欲を失った者もいれば,作風の改造を試みた者もいたというが,一様に,政治的な力によって自らの作品を否定され,攻撃されたことに,深い苦しみを味わったことであろう。

この時,郭雪湖は40代半ば。画集を見ていくと,郭雪湖の緻密な画風は1940年代以降,漸進的に変わっていったように思われるが,「国画論争」が彼に大きな打撃を与え,その作風に変化を引き起こしたことはほぼ間違いないだろう。その後,郭雪湖は1960年代半ばには活動拠点を日本に移し,1978年にはカリフォルニアに移住して,2012年に米国で104年の生涯を閉じた。

台北市立美術館。MRT圓山駅から徒歩5分。


郭雪湖の生涯を知り,その人生に刻み込まれた台湾の歴史に思いを馳せていたそのわずか数日後に,今度は迪化街の民藝埕の会議室で,額装された「南街殷賑」の複製が置かれているのを見かけた。そして,前々回のブログ記事で紹介した周奕成さんがこの絵を迪化街に「里帰り」させたいという計画を練っていることを知って,さらに驚いた。「南街殷賑」は,今では台北市美術館の目玉作品の一つともなっている。それを館外に借り出すのは容易なことではないだろう。しかし,この絵を迪化街に迎えることができたら,この町を新たな本土文化の発信の拠点にしたいという周さんたちの活動の大きな弾みになる。何より,この絵に満ちあふれている画家のこの町への誇りと愛情を思えば,天国の郭雪湖さんも喜ばれることだろう。
   
そしてなんと,おととい,周さんがSNSで,アメリカから帰国中の郭雪湖夫人,娘さん,息子さんたちが,周さんの「名画の里帰り」運動のアイディアを耳にし,民藝埕を訪問するので,関心がある人は同席してもよいというニュースを知らせてくれた。絵のことをよく知りもしない私がノコノコと出かけていっていいものだろうか?と迷ったのだが,郭雪湖の画集を取り出して眺めたら,彼の作品と人生への強い関心がわき上がってきて,行かずにはいられない気持ちになった。

というわけで, 民藝埕での郭家の方々との出会いと,このあと迪化街を歩き回りながら考えた郭雪湖の「南街殷賑」についてのしろうと考察については,次号で書きます。(この号続く)

*参考文献:
寥瑾瑗『四季・彩妍 郭雪湖』雄獅美術,2001年。
田麗卿『閨秀時代 陳進』雄獅美術,1994年。

 

2012年8月24日金曜日

翻訳,ばんざい!:台北でオースティンを読む


ジェーン・オースティンの小説のとりこになってしまった。太平洋そごう忠孝店のジュンク堂で買った『ノーザンガーアビー』『高慢と偏見 上下』『エマ 上下』『マンスフィールド・パーク』と日本から差し入れてもらった『分別と多感』を読み終えてしまったので,残る長編小説は『説得』だけになってしまった。この本がジュンク堂の棚にあるかどうかを確かめる時には,思わず胸がドキドキした。あった,あった~。すばらしい。

ジュンク堂・金石堂@そごう。文庫,新書の品揃えが充実している。


オースティンの作品を読むのはこれが初めてではない。そもそも,私が世界でいちばん好きな小説家・夏目漱石がオースティンの大ファンなのだからして,彼女の作品がおもしろくないはずはない。小説の好みがあう友人たちのなかにも「オースティンが好きだ」という人が何人もいる。私は英文学者の新井潤美さんの大ファンなのだが,新井さんの出発点もまた少女時代に読みふけったオースティンにあるという。オースティンの小説を読む前に,新井さんの『自負と偏見のイギリス文化:J・オースティンの世界』(岩波新書 2008年)を読んでしまうという本末転倒?なこともした。

だが,実は,これまで『高慢(自負)と偏見』には二度チャレンジして,二度とも途中で飽きてやめてしまった。いちばん人気のある『高慢と偏見』でこうなのだから,他の作品はもっと合わないに違いない。どうもオースティンとはウマが合わないな。そもそもどうしてみんな,こんなもったいぶった会話がえんえんと続く小説を面白いと思うのかな,と首をひねっていた。

なのに,なぜ今頃になってオースティン作品のおもしろさに目覚めたのだろう?

小説は,ページを広げたとたんに今いる「ここ」から別の世界に連れて行ってくれる自由の翼だ。でもその翼が読み手をどこへ連れて行ってくれるか,そもそもどこへ連れて行ってくれる本に身を投じるかは,その日その時の気分によって,また読む側の目の前の現実との折り合いの具合によって随分と違う。期間限定での台湾暮らしのなかで生まれた新しい好奇心と,異国に身を置くよるべなさが,19世紀初頭のイギリスのジェントリー家庭の結婚話に再度,挑戦してみようという気持ちを後押ししてくれたのかもしれない。

もうひとつ,遅まきながらようやくオースティンの魅力に出会えた大きな理由は,ちくま文庫でオースティンの長編6冊を訳出した中野康司氏のみずみずしい翻訳文体のおかげである。挫折した二冊の訳者は,富田彬氏(岩波文庫)と中野好夫氏(新潮文庫)。この新訳のほうが断然読みやすく,作品のかなめである会話に躍動感がある。オースティンの主人公たち(orその周りの女性たち)は,恋に身を焦がしたり,相手の経済状況を厳しく値踏みして結婚の損得を計算したりする若い女性たちだ。そしてその周りには,みっともないふるまいをする家族,素っ頓狂な親戚,打算をもって近づいてくる女友達,軽薄な美青年といった濃厚なキャラクターが現われてさまざまな喜劇を展開する。その活劇的な楽しさと,その底にある作者の辛辣な人間観察を味わううえで,この新訳の読みやすさはとてもマッチしている。

10年でオースティン長編6篇の個人全訳をなさった中野康司さん,すばらしい!


聡明で鼻っ柱が強くて機知に富んだエリザベス(『高慢と偏見』),世間知らずの空想家だけれども,純真な心の持ち主のキャサリン(『ノーサンガー・アビー』)。『エマ』の高慢な主人公や『マンスフィールドパーク』の引っ込み思案なファニーも,読み手とすぐに打ち解けるタイプの主人公ではないけれども,作品のなかでいろんなできごとを一緒に体験するうちに大切な友人のような存在になってくる。キャラクターの性格の一貫性や自然なストーリー運びに細心の注意を払った現代小説を読み慣れていると,最後に話が一気に展開して女主人公が幸せな結婚をすることになる展開や,主人公の性格のやや唐突な変化に,少々驚かされるかもしれない。でも,主人公といっしょに泣いたり笑ったりできる素朴な「物語の力」の強さという点で,オースティンの小説には本を読む喜びの原点のようなものがある。

真夏の台北でイギリスの田園風景をむりやり想像してみる@中央研究院「生態観察池」

ここだけ見ればダーシーのペンバリー屋敷のよう?


オースティンが「愚かな人」を徹底して笑いものにする辛辣な観察家であることは,彼女の小説を少しでも分かることだが,登場人物に託して,作者が男性に向けて放つ言葉も,なかなか手厳しい。

   「自分たちの物語をつくる点で,男性は女性より断然有利だったし,教育程度も男性のほうが
    はるかに高かったし,ペンを握ってきたのもほとんどが男性ですもの。・・・・本なんて何の証
    明にもなりませんわ」(『説得』p.388)

   「ほらごらんなさい!女性には知性なんて必要ないと,男性は思っているのよ。男性はみん
    な・・・男性の五感を魅了して,でも男性の意見には黙って従う,そういう女性が好きなのよ。」
    (『エマ』上巻p.99)

また,当時流行していたゴシック小説への皮肉たっぷりのパロディに満ちた,『ノーサンガー・アビー』のような小説を読むと,作家としてのオースティンの自負と気概と創造性に心打たれる。遅まきながら,中野新訳と出会ってようやく,なぜこんなに多くの人たちがオースティンに魅せられてきたのかがよく分かった。


どの小説にも蝶のような女性が出てくる @木柵動物園昆虫館


とはいえ,岩波版・新潮版の格調高い文章になじんできた読者たちには,中野新訳のくだけた文体に違和感があるようだ。ネットでも,「はじめてオースティンの面白さにめざめた」という意見がある一方で,「物語の設定を考えると,敬語の使い方に問題がある」「文体に品がない」という批判も散見される。そして「やはり河出文庫版の阿部知二訳がいい」「いや,中野好夫訳だろう」「いや,中野康司訳の読みやすさはすばらしい」といった熱い議論が闘わされている。私自身は,新井潤美さんが論じているように(上掲書第1章),オースティンは決して「お上品」ではなく,「奢侈と堕落のリージェンシー」の時代を生きたどぎついユーモアの作家だったというのだから,中野康司訳の闊達さがマッチすると思う。

それにしても,Pride and Prejudiceだけでも7つの翻訳が出ていて,その好みを熱く語りあえるのだから,これってなんと贅沢なことか!翻訳大国・日本ならではの楽しみだと思う。

さて,昨日,最後の一冊『説得』をついに読み終えてしまった。寂しくなるなあ,と思いながら,アンの幸せな結婚を見届けたが,そうだ,今度は別の訳者の版でもう一度読んでみればいいだけなのだ。あの蓮っ葉なリディア(『高慢と偏見』)やKYなマリアン(『分別と多感』)は,阿部知二訳や中野好夫訳ではどんな言葉づかいでしゃべっているのかな?楽しみだ。明日,さっそくジュンク堂に行ってみよう。