その画家との出会いは,偶然だった。友人と一緒に圓山に遊びに行き,涼みがてら,ふらりと立ち寄った台北市立美術館で,彼の作品と出会ったのだ。
郭雪湖(1908-2012)--。日本統治下の台湾画壇で頭角を現わし,戦後も長きにわたって活躍した著名な台湾人画家だという。しかし,美術にうとく,台湾の絵画史はおろか日本の画家についてもよく知らない私は,初めて聞く名前だった。
郭雪湖「圓山附近」:この再現性の低さでは,作者に申し訳ないのですが,やはり画像があったほうがいいので。 |
郭雪湖「新霽」:本当に美しい絵です。ぜひ実物を見に美術館にお運びください。 |
美術館の二階,区切られた空間になっている展示スペースの右手には,「圓山附近」(1928)と「新霽」(1931)という二枚の作品が飾られていた。いずれも,手前に畑の風景,その背後に小さな森,その上にくれなずむ空を配置した作品だ。この二枚の絵と向きあった瞬間に,見えない手が絵のなかからグイと伸びてきて,心臓をつかまれたような衝撃を受けた。
私は,絵画の系譜や手法にまるで詳しくないので,郭雪湖の絵が「うまい」のかどうかもよく分からない。「素朴派」と呼ばれる画家たちを思い起こさせるやや素人じみた作風のようにも感じる。しかし,この二枚の絵と向き合うと,画家の心をとらえたもの,画家が持てる力のすべてを注ぎ込んで描き出そうとしたものが,伝わってくる。対象物への無我な没入と,題材を大胆に再構成し題材に構図を与えようとする強烈な表現欲が,渾然一体となって絵のなかから溢れだしてくるのを感じる。
二枚の絵は,台湾の緑の複雑な美しさを見事にとらえている。黄みがかった緑,黒みがかった緑,油光りするような肉厚の緑に,ふわふわと広がった広葉樹の優しい緑。色と色のふしぎな重なり合いを,郭雪湖の筆は,「圓山附近」では繊細に, 「新霽」では大胆に描き出す。それは,絵筆を握る人が,「描きだせますように,伝えられますように」という祈りをこめて愚直に一筆一筆を重ねていった先に現われた作品のように思われる。
郭雪湖「南街殷賑」(以上3点はいずれもネット上からDLした画像) |
もう一枚,展示スペースの中央に,強い生命力を放つ絵が飾られていた。「南街殷賑」(1930)だ。郭雪湖が生まれ育った迪化街の「霞海城隍廟」の祭りのにぎわいを描いた彩り豊かな絵だ。縦長の画面の下方には,通行人たちの姿が細かく描かれて,街の賑わいが強調されている。左右には,迪化街のモダンな洋風建築がそびえている。目をひくのが,カラフルな看板の数々だ。「蕃産内地みやげ」「蓬莱名産 竹細工」「新高バナナキャラメル」といった文字に,凝った図柄や色鮮やかな意匠が施されていて,なんともエキゾチックだ。空を切り取るファサードが強調するモダンさ,画面中央に配置された看板の南国情緒,右下に小さく配置されたお廟の土着的なにおいが入り交じったなんとも魅力的な絵である。
後で解説を読み,この絵には,作者の想像力が奔放に取り込まれていることを知った。実際には二階建ての迪化街の街並みは,三階建てに「建て増し」されている。壁面に描かれた先住民の伝統的な意匠や看板のデザインは,資料や商業名鑑を参考にして描いたものだという。郭雪湖が,大稲埕への愛情をこめてつくりあげた万華鏡のような渾身の一作である。
後で解説を読み,この絵には,作者の想像力が奔放に取り込まれていることを知った。実際には二階建ての迪化街の街並みは,三階建てに「建て増し」されている。壁面に描かれた先住民の伝統的な意匠や看板のデザインは,資料や商業名鑑を参考にして描いたものだという。郭雪湖が,大稲埕への愛情をこめてつくりあげた万華鏡のような渾身の一作である。
迪化街の実際の街並みは二階建て+ファサード |
けれども,この長命の画家が,後半生に描いた作品には,この三枚の作品に充ちていた強烈な躍動感と緊張感が感じられない。表現への強烈な欲望というつきものが落ちてしまったような物足りなさを感じる。この画風の変化は,一体なんなのだろう?
数日後,台湾史研究者の友人にこの話をしたら,彼も郭雪湖の初期の作品が大好きだという。そして,彼の作風の変化を理解する鍵である「国画論争」について教えてくれ,これを読むといいよと言って,数冊の本を貸してくれた。
1950年代に起きた「国画論争」は,不幸な,だが台湾の歴史の必然でもあったであろう,戦後台湾美術史を揺るがせたイデオロギー論争である。
1950年代に起きた「国画論争」は,不幸な,だが台湾の歴史の必然でもあったであろう,戦後台湾美術史を揺るがせたイデオロギー論争である。
日本の植民地統治下で,官営の展覧会を軸に組織されていた台湾の美術界は,戦後,台湾に移転してきた国民党の支配下で,台湾省全省美術展覧会(省展)として,再び上から組織化されることとなった。そして,日本統治下の展覧会の「東洋画」の部と「西洋画」の部は,省展の「国画部」と「西洋画部」となり,かつて「東洋画」の部で活躍した郭雪湖や陳進は,「国画部」の審査委員となった。
しかし1950年代初頭になると,外省人の美術家たちが,膠絵具を用いて創作する本省人画家たちの作品は「日本画」であり,「国画(この場合の「国」は当然中国である)」ではないとして,東洋画の伝統をひく画家たちを強く攻撃するようになる。東洋画出身の画家たちの描く作品を「正しくないもの」として排撃したこの「国画論争」は,多くの本省人画家たちに深刻な打撃を与え,外省人画家たちの画壇での主導権を固めることとなった。郭雪湖と陳進に関する文献の一部*を読む限り,言語面・政治資源面で圧倒的に不利であった本省人画家たちには有効な反論はできなかったようだ。「論争」というより一方的な攻撃であったのではなかろうか。画家たちのなかには,創作意欲を失った者もいれば,作風の改造を試みた者もいたというが,一様に,政治的な力によって自らの作品を否定され,攻撃されたことに,深い苦しみを味わったことであろう。
この時,郭雪湖は40代半ば。画集を見ていくと,郭雪湖の緻密な画風は1940年代以降,漸進的に変わっていったように思われるが,「国画論争」が彼に大きな打撃を与え,その作風に変化を引き起こしたことはほぼ間違いないだろう。その後,郭雪湖は1960年代半ばには活動拠点を日本に移し,1978年にはカリフォルニアに移住して,2012年に米国で104年の生涯を閉じた。
台北市立美術館。MRT圓山駅から徒歩5分。 |
郭雪湖の生涯を知り,その人生に刻み込まれた台湾の歴史に思いを馳せていたそのわずか数日後に,今度は迪化街の民藝埕の会議室で,額装された「南街殷賑」の複製が置かれているのを見かけた。そして,前々回のブログ記事で紹介した周奕成さんがこの絵を迪化街に「里帰り」させたいという計画を練っていることを知って,さらに驚いた。「南街殷賑」は,今では台北市美術館の目玉作品の一つともなっている。それを館外に借り出すのは容易なことではないだろう。しかし,この絵を迪化街に迎えることができたら,この町を新たな本土文化の発信の拠点にしたいという周さんたちの活動の大きな弾みになる。何より,この絵に満ちあふれている画家のこの町への誇りと愛情を思えば,天国の郭雪湖さんも喜ばれることだろう。
そしてなんと,おととい,周さんがSNSで,アメリカから帰国中の郭雪湖夫人,娘さん,息子さんたちが,周さんの「名画の里帰り」運動のアイディアを耳にし,民藝埕を訪問するので,関心がある人は同席してもよいというニュースを知らせてくれた。絵のことをよく知りもしない私がノコノコと出かけていっていいものだろうか?と迷ったのだが,郭雪湖の画集を取り出して眺めたら,彼の作品と人生への強い関心がわき上がってきて,行かずにはいられない気持ちになった。
というわけで,
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