2013年12月13日金曜日

掛け値なしの外国人:アメリカで英語を話す


台湾で行ったインタビューの一部が未整理のままになっていたので,まとめてテープ起こしをした。イヤホンを通してきく私の中国語は,ひどい日本語なまりだ。なのにどの録音でも,妙に自信をもって,堂々と中国語を話している。

ああ,台湾で中国語を話すのは,アメリカで英語を話すのより,ずっと楽で,ずっと楽しいことだったなあ。

とはいっても,私は,英語より中国語のほうが得意というわけでもない。聞き取りと日常会話は中国語のほうがはるかに楽だが,複雑な内容を話そうとすると,正規の教育を長く受けた英語を使うほうが,正確に伝達できると感じる。

それでも,アメリカで英語を話すことがひどく億劫に感じるのは,つまるところ,気持ちの問題だ。どうやら私は,台湾では「私は中国語をこれだけ話せるんです」というポジティブモードでいたのに,アメリカでは「英語をこの程度しか話せないんです」というネガティブモードになっているらしい。


El Cerritoの高台からサンフランシスコ湾を望む
 それは,英語を「話せるべき」普遍語として,中国語を「話せることが評価される」ローカル言語としてとらえている意識の現れである。また,「中級中国語を話せる日本人」が台湾で受ける扱いと,「中級英語しか話せないアジア人」がアメリカで受ける扱いの違いを反映したものでもある。

日本人が台湾で中国語を話すと,まずは「すごいね。うまいね」という反応が返ってくる。日本語を話す欧米人が日本で受ける扱いと同じだ。そのうち,一言話しただけで「日本人だね」とバレたり,「典型的な日本語なまりだ」と発音のまねをされてガックリきたりするようになるが,それでも,台湾人が拙い中国語を話す日本人に向ける優しい視線に変わりはない。

しかし,「中国語を話す日本人」に向けられる台湾の人たちの暖かさは,おそらく同じレベルの中国語を話すベトナムやインドネシア人労働者には向けられないものだろう。日本語を話す欧米人と,日本語を話す中国人やインド人への,日本人の対応にもまた明らかに違いがあると思う。

今,生活者としてアメリカで暮らす私に向けられるのは,後者のタイプの視線だ。郵便局の窓口やインターネットプロバイダーのサービスマンとのやりとりで,言葉につまったり,聞き返したりする時に感じるのは,「このアジア人の女,何いってるのかよく分からない」という,ふつうに冷たい異国人への視線である。 

そして,これがドイツやフランスの郵便局なら,「あなたの母語はローカル言語なので,私には分かりません」と思うのだろうが,英語だと「世界で通用するあなたの母語が下手でスミマセン」という卑屈な気分になるのが,我ながら腹ただしい。


冬のぶどう畑。ナパにて。
とはいえ,台湾で与えられてきた「日本人プレミアム」や,国際学会やコンファレンスで英語を話すときに与えられる「職業プレミアム」をはがされ,一人の外国人として,国際言語ヒエラルキーの頂点にあるアメリカで英語を話してみるというのは,なかなかに考えさせられる経験だ。

ふと,思考の道具として慣れ親しんできた日本語を禁止されたときの戦後の台湾人の苦しみや,日本統治期・国民党の権威主義体制下でミンナン語を劣った言語とされたことで誇りを傷つけられた人々,ミンナン語の世間話に混ざれない外省人の疎外感を思ったりもする。

話を聞く側の態度が,話す側の言語操作力にてきめんに影響することも,改めてよく分かった。相手がこちらの言葉を聞き取ろうと眉間に皺を寄せるだけで,話そうとする気力が萎えてしまったり,親切心から言葉を先取りして(←私はこれを日本語でよくやってしまう)かえって言いたいことが言えなくなってしまったり。

それにしても,いったいどうしたら,英語を特権的な国際通用価値としている枠組みからもう少し自由になれるのだろう。せめて,中国語を話すときのように「私は日本人ですが,勉強して,外国語である英語をこれだけ話せるんです」というポジティブモードにもう少し近づきたい。

まずは,英語をもっと普通の外国語としてとらえて,「すらすら話せない,すべてを聞き取れないことが恥ずかしい」という感情を乗り越えないと,アメリカ人と英語で話せることの純粋な喜びを味わえるようにはなれないのだろうなぁ。

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