2013年9月7日土曜日

「聞いてはいけない」:プライバシーとデリカシー

最近,知り合いになった台湾人の女性が,日本語を勉強しているという。彼女に,「日本人に聞いてはいけないことを教えて」と聞かれた。

「日本人は,相手の月給は聞かないんだよね?」「年齢は聞かないほうがいいの?」「恋人の有無は?」といった質問に答えていくうちに,うーん,と考え込んでしまった。「聞かないほうがいいこと」は指摘できるのだが,なぜそれを聞かないほうがいいのかを説明するのが,難しいのだ。

給料の額は,聞かないほうがいい。年齢は,欧米人ほど気にしないと思うが,個人差があるから様子を見ながらね。このあたりまでは答えやすいのだが,結婚・出産といった人口動態系の話題,特に「なぜ聞かない方がよいか」の理由となると,とたんに答えるのが難しくなる。

「既婚か否か,子どもの人数といったことは聞いてもいい。しかし,恋人の有無は気軽には聞かないほうがいい」といったら「え,なぜ?」と不思議がられた。台湾では,恋人の有無はオープンな情報だ。初対面の相手や,仕事上の知り合いにも,「私の彼氏が・・・」といった話を気軽にする。「忍ぶれど/色に出でにけり/我が恋は・・・」といった情緒とはまるで無縁の社会なのだ。

「それよりね,台湾人はすぐに『なぜ結婚しないの?』『どうして子どもを生まなかったの?』『次の子どもはいつ生むの?』といった質問をするでしょ。あれは,日本人にはやめたほうがいいよ」と言ったら「え,そうなんだー」と彼女。「というか,台湾人でも聞かれてイヤだと思っている人はいっぱいいると思うよ」と話しながら,ついつい言葉に力が入っている自分に気がついた。

中央研究院にて。

私は,既婚・子なしである。この"中途半端"な状況を,台湾の人々は決して放っておいてはくれない。30代の頃は,「生まないの?」「ほしくないの?」「かわいいよ」攻撃に,40代半ばになってからは,「どうして子どもがいないの?」「かわいそうに」攻撃にさらされ続けている。

大勢の人がいる前で「どうして子どもを生まなかったの?」と問われるのも面食らうが,「寂しいでしょ」「いる人が羨ましいでしょ」と同情されたり,「ご両親がかわいそうじゃない」「今からでも努力しなさい」とお説教されたりするのは,さらにかなわない。

以前,「あれって本当に信じられない。delicacyって言葉は中国語にないの?」と台湾人女性の友人にぐちったら,「それって,子どもがいても続くんだよ」と慰められた。一人っ子なら,「一人っ子はかわいそう」「二人目をなんで生まないの?」と言われる。娘二人の母親である友人は,「親御さんに孫子(男孫)を抱かせてあげなさい」と言われるそうだ。そうか,「なぜ?」攻撃は,オンナの人生双六をどこまでいっても続くわけか(←いや,男性も聞かれているぞ)。そして,そんな問いかけに,台湾の女性もやっぱりいやな思いをしているのか・・・。

それにしても,人,中年に至れば,既婚か独身か,子どもの数が何人か,といった個々人の状況が,選択したことと選択したわけではないこととが絡まり合った複雑な物語であることくらい,分かっているはずだ。「なぜ?」と問われて一言で答えられるほど簡単なものとは限らないこと,たとえ明快な答えがあったとしても,それを誰にでも気軽に話したいと思っているとは限らないことくらい,想像がつくはずだ。

社会によって,聞くことをよしとしない「プライバシー」の範囲が異なるのは当然だ。けれども,自分の発言に相手が戸惑った様子を見せたら,会うたびに問い詰めたり,繰り返しお説教したりするようなことはしないくらいのデリカシーはあってもいいのではないか。

淡水から八里・観音山を望む。

というわけで,日本にも「デリカシー」に欠ける人がやまほどいることは承知のうえで(そして私も,
後から振り返って"あの時の自分はデリカシーを欠いていたなぁ"と反省する場面がたくさんある),"人口動態"系の話題については,台湾の人たちに「聞いてはいけない」「言ってはいけない」と言いたいことがいろいろある私である。

が,そのいっぽうで,まれにではあるけれども,日本人どうしではめったに踏み込まない「なぜ?」と踏み込んでくる台湾の友人とのあいだに,思いがけなく深い感情の交流が生まれることもある。

そういう心の化学反応が起きるためには,いくつかの前提条件がある。まず,一対一で,深く向き合える相手であること。互いが話したことを他人には話さないと信頼できること。硬直した「幸せ・不幸せ」観や,「幸せでなければならない」という強迫観念から自由な人であること。(ふだんは距離が離れている台湾の友人だから話しやすかったりもする。)

めったにないことだけれども,そんな相手から発せられた「なぜ」に答える言葉を探すうちに,思いがけない自分の心や人生観の変化に気づかされることがある。好奇心からではない,友人の人生に寄せる深い関心から発せられる「なぜ」。人生の機微を知り,人を型にはめようとはしない,尊敬できる人からの「なぜ」。

そんな「なぜ」に答えようとして言葉を探す瞬間,人は,互いの人生を分かちあうことはできないけれども,分かり合おうと努力し続けることはできるのだなぁ,と思う。

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