2013年9月29日日曜日

台北,また会う日まで!

引っ越し荷物の搬出も,手荷物の準備もすべて終わり,マンションの掃除も一通り終わった。あと1時間もすれば,大家さんが鍵を受け取りにやってくる。1年半住んだこの家を出て,夜の便で,次の任地・サンフランシスコに向かう。

台北を離れる9月30日は,どんな気持ちがするだろう? 立ち去りがたくて涙がこぼれてしまうかな? ずっとそんな想像をめぐらしてきたが,実際にその日を迎えてみると,不思議と寂しさは感じない。むしろ,何の始まりであるかはまだ分からないけれど,これから何かが始まるんだ,という気がする。

昨日,近所のスーパーへ最後の買い物に行く途中,ふだん通っている道の一本手前の小道を曲がってみた。行き止まりだと思って一度も曲がったことのなかった角だ。突き当たりまで行ってみたら,その道には先があった。くねくねと曲がりながら続く小さな路地には,小さなホステル,貿易会社,アートギャラリー,NGOのオフィス,旅行会社がぎっしりと連なっていた。

驚いた。人々が暮らし,働く気配が濃厚に漂うこんな空間が,私の家のすぐ隣にあったことに,まるで気がつかなかった。たぶん,今のマンションに3年住んでも,5年住んでも,私はあの角を一度も曲がろうとはしなかったろう。もう最後だから,と思って,気まぐれにいつもとは違う道を通ってみるその日まで,ずっとずっと,毎日同じ道を歩いたことだろう。

慣れというのはそういうことだ。だからこそ,ある場所を立ち去ることで訪れる,その場所との新しい出会いもあるのだろう。

15年ぶりに住んで,台北の新しい顔といくつも出会った。1年半の生活を経て,この町を離れることで見えてくる台北の姿も,きっとあるに違いない。今は,台湾で出会った全ての友人に,心からの感謝の気持ちを伝えたい。


MRT淡水線から見えるマングローブの林と観音山。私が台北で最も好きな風景のひとつ。

2013年9月22日日曜日

中央研究院社会学研究所の日々(2) 旅立ち篇


このブログで「社会学研究所の日々(1)地理・環境篇」という記事を書いたのは,台湾到着直後の昨年4月のこと。「研究所のなかみを紹介する続編を書こう」と思いながら,あっという間に1年半の任期が過ぎてしまった。今月末にはもう台北を離任せねばならない。

台北を立ち去りがたい気持ちにとらわれるのが怖くて,この2ヶ月ほどは,毎日のように,友人・お世話になった方との会食やインタビューの予定を入れ,忙しく過ごしてきた。中秋節の4連休を利用して,引っ越しの準備を始めてみたけれど,様々な思いが胸にこみあげてきて,荷造りをする手がついとまってしまう。今はまず,台北でお世話になった全ての友人たちに,心からの感謝の気持ちを伝えたい。


中央研究院活動中心。短期滞在者のなかにはここに泊る人も多い。
社会学者ではない私を1年半という長期にわたって温かく迎え入れてくれた社会学研究所の方々には,とりわけ深く感謝している。なかでも,カウンターパートを引き受けてくれた古くからの友人L・Cさんは,私に多くの新しい出会いと刺激をもたらしてくれた。

私を経済社会学の世界に導いてくれたのも,私の初めての単著の「新書発表会」を企画してくれたのも,私の新しいテーマへの挑戦について最初に話を聞き,背中を押してくれたのも,みんなLさんだ。彼のおかげで,迪化街の素敵なよそ者,若者,バカ者たちにも出会うことができた。

そして彼はなんと今,迪化街で,家族と一緒に「JFK絵本屋」という素敵なお店を立ち上げようとしている。「絵本」の世界を研究対象の1つとしてきた彼が,絵本を届ける人になる瞬間。経済社会学者が創業者へと生まれ変わる瞬間。台北滞在最後の月に,彼の人生の新しいステップともなるそんな瞬間に立ち会えたことはとても幸運なことだ。

拙著の新書発表会がきっかけとなって,研究所の人たちに「社会学者ではないけれど,台湾の産業社会の発展を貫く社会・経済的な力に関心を持っている人らしい」と認知してもらえたことも,後から思うと,新たな研究仲間や友人,理解者との出会いにつながる幸運なきっかけだった。

社会学研究所のある人文社会科学館
社会学研究所で出会った短期訪問者たちとの交流からも多くの刺激を受けた。社会学研究所に来る訪問者のほとんどは,夏休み前後に2~3ヶ月の予定で来台する短期滞在者だ。1年半も滞在している私は,すっかり「お局様」となってしまい,多くの研究者がここに集い,去っていくのを見とどけることになった。

訪問研究者は3つのカテゴリーに分けられる。第1のカテゴリーは,アメリカで博士号をとり,引き続きアメリカで研究者としてのキャリアを追求している台湾人研究者たち。昨夏,オフィスをシェアしたL教授や,ポスドクのWさんたちがこのパターン。台湾を分析対象とし,中国語の論文を読み込んで,英語論文を発表する彼女,彼らと話していると,不十分な中国語で台湾のことを調べ,主に日本語で成果を発表する自分の研究者としての立ち位置についてあれこれ考えさせられた。Lさん,Wさんはともに二人の子の母親。遠い異国・アメリカの地で,研究者としての厳しいキャリアと家庭生活を両立する彼女たちの話からは,多くの刺激を受けた。

訪問研究者の第2のカテゴリーは,台湾や中国を研究対象とする非・華人系研究者。この1年のあいだに,アメリカ,オーストラリア,ドイツ,フランスから来た台湾研究者たちと交流する機会を得た。アメリカ人やドイツ人と中国語で台湾研究について話をするのは楽しい経験だった。彼ら,彼女らの多くは,台湾だけではなく中国,日本を含む東アジアを研究対象とし,日本についても実によく知っている。3.11後の原発政策のこと,日本で高まる排外的なナショナリズムの背景等について彼らと話すたび,日本についての新しい発見があった。

第3のグループは,サバティカルをとって,社会学研究所に籍をおいている台湾の大学の教員たち。その一人で,台湾STS学会の理事長でもある台湾大学のWさんは,人と人をつなぐ名人。私に台湾STS学会でのパネル報告というチャレンジングな機会を与えてくれてたのは彼女だ。彼女が企画し,誘ってくれたランチでは,専門の違う人同士で話がはずみ,いくつもの新しい出会いがあった。

社会学研究所で出会った人たちに共通していたのが,他人の研究への開かれた関心だった。社会学の世界では,経済学のように,主流(*簡単にいえば,アメリカの経済学界を中心とする強固な科学主義と,ランク化された英文ジャーナルによって制度化された世界)と非主流(*「それ以外」)が判然と分かれているわけではない。方法論や流行の共有度もさほど高くはない。

だから,お互いに言葉が通じ合うかどうかを確かめるには,「どんな研究をしているのか」を自己紹介しあい,雑談を重ねていくなかで,互いの関心や価値観を探り合うプロセスが必要になる。そして,手法が違えど,相手の研究について踏み込んだコメントや感想を述べ合ってみることで,少しずつ距離を狭めていくプロセスがこれに続く。意気投合する相手もあれば,淡々とした付き合いで終わる相手もあるけれど,経済学の世界でありがちな「コッチ側の人,アッチ側の人」という区分けや,内輪のジャーゴンでの閉じた会話の世界とは違って,「私の専門とあなたの専門は随分違うけれど,あなたの研究の話を聞かせてほしい」という姿勢を持ちつづけている人が多かった。

それが,社会学の気風によるものなのか,台湾という場の特質なのか,あるいは短期滞在者どうしであることによって発生する一種の高揚感によるものであるのかは,分からない。おそらくその3つが入り交じって,ここにつかのま集う者のあいだに不思議な連帯感を生むのだろう。

昨年3月末,台北にたどりついた時の私は,初めての単著の執筆に持てるわずかなエネルギーを投入しつくし,年度末の仕事と引っ越しで疲労困憊した,出がらし状態だった。そして,1年半を経た今・・・・肝心の研究の進捗状況ははなはだ心許ないものだったけれども,多くの人との出会いによって,自分のなかにわずかなら,新しいエネルギーが生まれたことを感じている。

私がここで出会った人々がそうであったように,私も,私の研究,私が書きたい本について生き生きと語れる研究者でありたいと願う。

キャンパスの一角にて。林の本来の生態を復元中。




2013年9月7日土曜日

「聞いてはいけない」:プライバシーとデリカシー

最近,知り合いになった台湾人の女性が,日本語を勉強しているという。彼女に,「日本人に聞いてはいけないことを教えて」と聞かれた。

「日本人は,相手の月給は聞かないんだよね?」「年齢は聞かないほうがいいの?」「恋人の有無は?」といった質問に答えていくうちに,うーん,と考え込んでしまった。「聞かないほうがいいこと」は指摘できるのだが,なぜそれを聞かないほうがいいのかを説明するのが,難しいのだ。

給料の額は,聞かないほうがいい。年齢は,欧米人ほど気にしないと思うが,個人差があるから様子を見ながらね。このあたりまでは答えやすいのだが,結婚・出産といった人口動態系の話題,特に「なぜ聞かない方がよいか」の理由となると,とたんに答えるのが難しくなる。

「既婚か否か,子どもの人数といったことは聞いてもいい。しかし,恋人の有無は気軽には聞かないほうがいい」といったら「え,なぜ?」と不思議がられた。台湾では,恋人の有無はオープンな情報だ。初対面の相手や,仕事上の知り合いにも,「私の彼氏が・・・」といった話を気軽にする。「忍ぶれど/色に出でにけり/我が恋は・・・」といった情緒とはまるで無縁の社会なのだ。

「それよりね,台湾人はすぐに『なぜ結婚しないの?』『どうして子どもを生まなかったの?』『次の子どもはいつ生むの?』といった質問をするでしょ。あれは,日本人にはやめたほうがいいよ」と言ったら「え,そうなんだー」と彼女。「というか,台湾人でも聞かれてイヤだと思っている人はいっぱいいると思うよ」と話しながら,ついつい言葉に力が入っている自分に気がついた。

中央研究院にて。

私は,既婚・子なしである。この"中途半端"な状況を,台湾の人々は決して放っておいてはくれない。30代の頃は,「生まないの?」「ほしくないの?」「かわいいよ」攻撃に,40代半ばになってからは,「どうして子どもがいないの?」「かわいそうに」攻撃にさらされ続けている。

大勢の人がいる前で「どうして子どもを生まなかったの?」と問われるのも面食らうが,「寂しいでしょ」「いる人が羨ましいでしょ」と同情されたり,「ご両親がかわいそうじゃない」「今からでも努力しなさい」とお説教されたりするのは,さらにかなわない。

以前,「あれって本当に信じられない。delicacyって言葉は中国語にないの?」と台湾人女性の友人にぐちったら,「それって,子どもがいても続くんだよ」と慰められた。一人っ子なら,「一人っ子はかわいそう」「二人目をなんで生まないの?」と言われる。娘二人の母親である友人は,「親御さんに孫子(男孫)を抱かせてあげなさい」と言われるそうだ。そうか,「なぜ?」攻撃は,オンナの人生双六をどこまでいっても続くわけか(←いや,男性も聞かれているぞ)。そして,そんな問いかけに,台湾の女性もやっぱりいやな思いをしているのか・・・。

それにしても,人,中年に至れば,既婚か独身か,子どもの数が何人か,といった個々人の状況が,選択したことと選択したわけではないこととが絡まり合った複雑な物語であることくらい,分かっているはずだ。「なぜ?」と問われて一言で答えられるほど簡単なものとは限らないこと,たとえ明快な答えがあったとしても,それを誰にでも気軽に話したいと思っているとは限らないことくらい,想像がつくはずだ。

社会によって,聞くことをよしとしない「プライバシー」の範囲が異なるのは当然だ。けれども,自分の発言に相手が戸惑った様子を見せたら,会うたびに問い詰めたり,繰り返しお説教したりするようなことはしないくらいのデリカシーはあってもいいのではないか。

淡水から八里・観音山を望む。

というわけで,日本にも「デリカシー」に欠ける人がやまほどいることは承知のうえで(そして私も,
後から振り返って"あの時の自分はデリカシーを欠いていたなぁ"と反省する場面がたくさんある),"人口動態"系の話題については,台湾の人たちに「聞いてはいけない」「言ってはいけない」と言いたいことがいろいろある私である。

が,そのいっぽうで,まれにではあるけれども,日本人どうしではめったに踏み込まない「なぜ?」と踏み込んでくる台湾の友人とのあいだに,思いがけなく深い感情の交流が生まれることもある。

そういう心の化学反応が起きるためには,いくつかの前提条件がある。まず,一対一で,深く向き合える相手であること。互いが話したことを他人には話さないと信頼できること。硬直した「幸せ・不幸せ」観や,「幸せでなければならない」という強迫観念から自由な人であること。(ふだんは距離が離れている台湾の友人だから話しやすかったりもする。)

めったにないことだけれども,そんな相手から発せられた「なぜ」に答える言葉を探すうちに,思いがけない自分の心や人生観の変化に気づかされることがある。好奇心からではない,友人の人生に寄せる深い関心から発せられる「なぜ」。人生の機微を知り,人を型にはめようとはしない,尊敬できる人からの「なぜ」。

そんな「なぜ」に答えようとして言葉を探す瞬間,人は,互いの人生を分かちあうことはできないけれども,分かり合おうと努力し続けることはできるのだなぁ,と思う。

2013年8月25日日曜日

進んでいる台湾,遅れている日本?


中央研究院のモスバーガーでお昼を食べていたら,隣の席から英語の会話が聞えてきた。50歳前後のアメリカ人と,30歳台とおぼしき台湾人の男女が話に花を咲かせている。

Japanという言葉が繰り返し聞えてくるので,耳ダンボ状態で聞いていると,アメリカ人が,「日本がいかに窮屈でイヤな社会か」を力説している。いわく,日本人は権威に弱くて,肩書きのある人の前に出ると誰も何も言えない。満員電車の通勤客は機械のように無表情で無感情だ。男がやたらと威張っていて,女の地位はありえないほど低い。それに比べると,台湾はいかに自由で平等で,女性がのびのびと生きられる素晴らしい社会であることか。

「はいはい,その通りです」と思いつつ,「なんだかなー」という気分にもなる。

モスバーガーも入っている中研院活動中心

数少ないサンプルからの経験ではあるが,台湾の人々は,欧米の知識人やビジネスマンのあいだで,概して評価が高い。これに対して日本の評価は,下がるいっぽうだ。

人権意識・マイノリティへの理解の高さ,活発な社会運動,はっきりと意志表明をする文化。ビジネスの世界でいえば,決断力,機動力,コミュニケーション力。今日の台湾は,欧米の知識人やビジネスエリートが重視するこうした価値を高い水準で満たしている。女性の社会的地位という指標も,「実は進んでいる台湾,やっぱり遅れている日本」という対比を強調するためによく挙げられる。

しかも,台湾はこの10数年のあいだに,「公共空間でのマナー」といった苦手項目でも長足の進歩を遂げた。社会も個人もすっかり疲れ切ったように見える日本は,いかにも分が悪い。

喩えていえば,今の台湾は,公私ともに脂がのり,自信に満ちた,30過ぎの働き盛り。感情的な行動に出ることも多いけれど,自己修正力の高い若者だ。かたや日本は,定年退職してまもない60台半ば。しかもこのシニアは,東日本大震災で心身に受けた深刻な傷がいまだ癒えていない病身でもある。(最近は新しい医者が現われて,やれ筋肉増強剤を飲め,精力剤を飲めと,大忙しのようだが・・・)

日本社会には,落ち着き,配慮,豊かな知識と深い趣味の世界,といった美点があると思うのだが,台湾の若々しい活力に比べられたら,とうてい叶わない。

そう考えれば,隣席のアメリカ人の発言に,いちいち目くじらを立てるまでもないのかもしれない。私自身,彼が指摘したような日本社会の側面を常に腹ただしく思い,台湾の友人に向かってぼやいてもいるのだ。しかし,それでもやはり,こういう発言を耳にして抱くのは,「ステレオタイプ化されるのは,いやなものだなぁ」という素朴な感情だ。対象への関心や愛情のかけらも感じられない語り口での類型化は,なおさらそうだ。類型論をむやみにタブー化するのは愚かなことだと思うけれども,時に,誰かをカテゴリー化することが,笑い話ではすまされない暴力性を持つものであることを思い知らされる。

ステレオタイプな類型論はまた,社会現象を多面的にみる視線をふさぐことにもなる。

例えば,日台比較の際にしばしば強調される「台湾の女性の地位の高さ」というポイント。公的領域での台湾の男女の平等度(登用面,意識面ともに)が日本に比べて圧倒的に高いことに異論はない。ただ,それを強調するあまり,台湾の女性たちが直面している困難が見過ごされていることが気にかかる。

私的領域に目を向けて,「嫁」「妻」「母」「娘」としての彼女たちが抱えている負担や困難を,「娘婿」「夫」「父」「息子」のそれと比べてみれば,台湾が単純に「すばらしい男女平等社会」ではないことが見えてくるはずだ。高い意識をもち,あらゆる面で対等な夫婦関係を築いている都市部のインテリ・カップルがいる一方で,大多数の台湾の女性は,伝統的な大家族のなかでの「嫁,娘」の役割と,家計の経済戦略の論理から要請される稼ぎ手としての役割の両立を求められている。台湾人男性が「男女が平等な台湾社会」を誇らしげに語るのに対して,女性の友人から聞く現実はなかなかにシビアだ。

隣席では,アメリカ人の話に,台湾人の聞き手たちが盛んにあいづちをうち,「日本人は分かりづらいよー」「日本の女性は本当にかわいそう」と感想を述べている。幸か不幸か,台湾にいると,日本人の自尊心をくすぐるようなカテゴリー論を耳にすることのほうが多いけれども,若い彼ら・彼女らの目に映っている日本人の姿は,実際には,もっと不気味で理解しがたいものであるはずだ。

そう思えば,今日この席に座り,この会話を聞くことができたのは,悪くない巡り合わせだったのかもしれない,と思いながら,モスバーガーの席を立った。


活動中心そば,「生態観察池」は自然がいっぱい。



2013年8月4日日曜日

カメラと『キメラ』と行く旧・満州の旅

7月末に,ハルビン・長春へ一人で旅行してきた。

1日目(7/24 木)はエバー航空の直行便で台北からハルビンへ。ホテルに荷物をおいてすぐに,ハルビン市建築芸術館分館(旧ユダヤ新教シナゴーグ)に行き,20世紀前半のハルビンで栄えたユダヤ人コミュニティについての展示を見学。夕方からは,市内随一の繁華街・中央大街(旧キタイスカヤ)を散歩し,ロシア料理の夕食を食べた。2日目は午前の高速鉄道で長春へ。午後,1932-45年にかけて溥儀が満洲国皇帝として住んだ仮宮殿跡(「偽満皇宮博物院」)を見学。3日目は午前中,長春市内の旧・満州の建物めぐりをし,昼過ぎの高速鉄道でハルビンへ。旧東清鉄道職員住宅が残る西大直街の南側エリアを散歩し,夜は中央大街周辺を散策。夕食は昨日に続き,餃子屋さん。本場の水餃はおいしかった。4日目は午前に731部隊跡を見学し,午後のフライトで台北に戻った。

東北地方は,上海・広東とは別の世界だった。ホテルやレストランでの「没有(ないよ)」「不知道(知らないよ)」攻勢は想定内だったが,困ったのがタクシー事情の悪さだ。特に1日目は,空車がまるでつかまらなくて,途方にくれた。ようやく捉まえたタクシーでも,ボラれてしまった。

もっとも,2日目午後に,「ここではタクシーは相乗りするものなのだ」ということに気づいて,楽になった。先客が乗っている車でも,行き先が順路ならば乗せてもらえるのだ。相乗りには,遠回りになるというデメリットと引き替えに,ボラれないというメリットがあって有り難い。

ハルビン・長春は,歴史散歩のしがいのある街だった。特に,映画『ラストエンペラー』(ベルトルッチ監督,1987年)を見て以来,いつか行きたいと思っていた満洲国の首都・長春はみごたえがあった。

溥儀が住んでいた仮宮殿では,溥儀たちの生活・執務スペースがよく保存されており,たいへん興味深かった。関東軍参謀だった吉岡安直(溥儀の御用掛)の執務室があったりするのが生々しいが,『ラストエンペラー』『流転の王妃の昭和史』(愛信覚羅浩,1992年)とのかかわりから興味深いのは,やはり溥儀と皇后・側室たちが暮らした緝熙楼だ。部屋のしつらえやスペースの割り当てからも,婉容皇后の孤独な生活,溥儀の寵愛を受けた側室の満たされた生活の様子など,溥儀と妻たちの数奇な運命が伝わってくる。

旧宮殿への入り口には「九一八を忘るるなかれ」との江沢民の大きな揮毫が。

婉容皇后のアヘン吸引室。


「建築とはかくも雄弁なものよ」と唸らされたのが,新民街に沿って整然と並ぶ旧・満洲国中枢部の建物群だ。威圧感や和洋中の折衷ぶりは,建物によって異なるのだけれども,とにかく日本の,いや関東軍の異様な鼻息の荒さが視覚を通じて伝わってきて,驚いた。写真ではあまり伝えられないが,とにかく「でかい!」という印象。これに比べれば,帝国初の植民地・台湾で日本が建てた建築の数々は,落ち着いたたたずまいであったのだなぁ。

旧・満洲国司法部跡(現在は吉林大学医学部)

旧・満洲国国務院跡(現在は吉林大学医学部)



なんですか,これは!すごすぎる・・・旧関東軍司令部(現在は中国共産党吉林省委員会)

さて,一人旅の道連れは,愛用機リコーCX6。ところが,3日目の午後,このカメラが突然壊れてしまった。レンズが怪しい開閉運動を繰り返したあげく,勝手に閉じてしまうのだ。うーん,困った。

ハルビンでは,目玉の中央通から外れたたあたりに,戦前期からの古い建物がたくさん残っていた。ようし撮るぞ!と張り切った直後に突然逝ってしまったカメラのことが,恨めしくてならない(涙&怒)。

ハルビンの旧・東清鉄道幹部職員住宅。
けれども,もうひとつの旅の道連れ,山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』(中公新書,2004年)は,旅の最後まで私を助けてくれた。

今回の旅で,私は初めて中国の「愛国教育」の現場に足を運んだ。「偽満皇宮博物院」併設の「東北淪陥史陳列館」が,典型的な愛国主義教育施設だったのだ(この「博物院」の性格規定については長春市政府のサイト参照)。

展示を見終えて,建物の前の階段に座って,考えた。

428頁,参考文献だけで23頁の増補版。二つの後書きも素敵です。
日本の侵略がいかに多くの中国の人々を残酷な運命においやったか。そのことを中国人が語り継いでいくのは当然のことであるし,日本人も深く学ばねばならない事実である。私もこの展示をみて初めて知ったことも多く,その凄惨さに胸がふさがった。

しかし,この陳列をみて感じたのは,日本を徹頭徹尾,「侵略への欲望に燃えあがった残虐者集団」として-つまり理解不能な変態集団として-描くこのような展示手法は,日本の中国侵略のあやまちを考えるうえでも,決して有益でないだろう,ということだ。

『キメラ』は,優れた歴史の書物の常で,その時代に生きた人々の世界認識に内側から光をあてる。当時の日本が誤った道に突き進んでいった主観的要因と外在的要素を丁寧に掘り下げていくことは,決して,満洲国の暴力性,欺瞞性を正当化するための作業ではない。むしろ,どのような情勢認識と行動の相互作用,軍部・政治指導者の利害と国民の感情の相互作用が,あの時代の日本を中国侵略へと駆り立てていったのかを知るための最も重要な作業なのだ。

日本が,異常な侵略の欲望に燃えた変態ファシスト集団だったと決めつけてしまえば,ある意味,話は分かりやすい。もうそれで話は決まりだ。しかしそれは,あの悲惨きわまる歴史を二度と繰り返さないための知恵の蓄積には役立たないだろう。

15年ぶりに読んだ『キメラ』は,怪獣キメラと同じように,異なる生命体が接合されたような不思議な生命力をもつ本だった。前半ではアカデミックで禁欲的な筆致で,満洲国の歴史が語られていく。後半(特に終章)になると一転,筆者は,悲愴な感情に突き動かされるかのように,満洲国を通じて日本が中国の人々に強いた苦痛を描きだす。

目を背けたくなる歴史,国と区のあいだで激しい感情対立をよぶ歴史と向かい合うのはおそろしく骨が折れる作業だ。それでも,歴史の複雑さと向き合うことからしか何も始まらない。この本にみる山室氏の「キメラ的」な知性のあり方-国家の暴力にふみにじられた人々の苦痛への想像力と,多面的,実証的な研究姿勢をかねそなえた姿勢-は,そのために学問にできることを見事に指し示している。

2013年7月21日日曜日

今さら読む,『風と共に去りぬ』

『風と共に去りぬ』全5巻を読了した。40代半ばになるまで読まずにきたのだから,これから先も読むことはないだろうと思っていた小説だ。

『風と共に去りぬ』といえば,ガールズ向け小説の代表格。しかも,映画(実は未見なのだけれども)が有名なので,この小説の粗筋は,だいたい知っている。それにこの本は,良くできた娯楽小説だけれども,小説としての奥行きや広がりには乏しいという評判だ。そんな本を,今さらよむのもなぁ・・・。

などと思っていたのに,読むことにしたのは,この本が私にとって「いまさら」である最大の理由-これが私の母の青春時代の愛読書であるという理由からだ。母は今でも,高校時代に従姉妹や同級生たちとともに夢中になってこの本を読んだ思い出をよく語る。ふと「この小説の何が,母の,そしてあの時代の日本人女性の心をそんなに掴んだのだろう?」という興味が湧いて,読んでみることにした。

『風と共に去りぬ』は確かに,読み始めたらとまらない小説だった。南北戦争を舞台に,スカーレット,アシュレー,バトラー,メラニーの間の三角関係と,同性間の奇妙な友情の物語がスリリングに展開されていく。緩急をつけた構成が巧みだし,著者の物語への情熱が全編にみなぎっている。何より,気品ある美青年のアシュレと,究極の色男バトラーから思いを寄せられるヒロインという設定が,10代女子の”妄想”をしっかり満たす強力な筋書きだ。細部までしっかり描かれた歴史小説であることにも驚いた。

原作は1936年出版。新潮文庫版は,大久保康雄・竹内道之助訳[1977]。

読み進めながら,「この小説の何が,1950-60年代の日本人女性の心を掴んだのだろう?」と考えた。まず,これはすでに広く指摘されている点だろうが,女性の視点から,南北戦争による徹底した破壊とそこからの再生を描いたことが,同じような時代を生きることとなった戦後日本の女性たちの心性とマッチしたのだろう。

著者は,レット・バトラーの口を借りて,戦争についてこう語る:「戦争には,ただ一つの理由しか絶対にありません。それは金だ。戦争はすべて,じつは金の奪い合いなんです」(第二巻pp.50-51)。これだけ冷徹に戦争の本質を見極めていたバトラーも,結局は不思議な愛国心に駆られて戦場に向かうのだが,スカーレットはその利己的な性格ゆえに,抽象的な大義にはまるで心を動かされず,最後まで戦争への突き放した視線を失わない。そんな彼女の目から描かれる戦争の荒廃と,戦後の価値観の転倒は,敗戦と復興の時代に生きた日本人たちの経験とシンクロするものだったのではないか。

スカーレット・オハラのキャラクター設定も,実に興味深い。私がヴィヴィアン・リーの姿から連想していたスカーレットのイメージは,「勝ち気で情熱的で高貴な女性が,歴史に翻弄されながら,気高く生き抜いていく」というものだった。

ところが,小説中のスカーレットは,少しも気高くなんかない(ついでにいうと,映画と違って,特別な美人でもない)。むしろ,やたらと虚栄心が強く,徹底して自己中心的な性格だ。目先の利益の計算には長けているが,物事への洞察力や,他人の高潔さ・誠実さを理解する能力は欠けている。しかも,品が悪くてすぐに怒鳴りちらす。行き当たりばったりに,愛のない結婚を繰り返し,生まれてくる子どものことも,邪魔だとしか思わない。打算から妹の恋人を奪い,製材所を経営するという「性別のない」ふるまいをしたうえ,にっくき「北部人(ヤンキー)」にとりいって,南部人の怒りと軽蔑をかう。

だが,スカーレットのこの「食えない」性格-それは,戦争によって生きる気力を失った家族とタラを守るために彼女がまとった鎧でもあるが-こそが,この物語が世代を超えて多くの女性の心をつかんできた鍵なのだろう。読み手は誰でも,彼女のなかに自分の愚かさや欲深さを見いだすからだ。

周りとの摩擦を恐れないあつかましさ,手段を選ばない欲の皮の突っ張り具合。読み手をはらはら・いらいらさせることで,超長編を一気に読み進めさせてしまうこの最強キャラクターは,それまでの女性向けの小説には見られなかった一種の革新的なヒロインだったのではないか?

このようにこの小説は,ヒロインの破壊的なキャラクターと型破りなふるまいを描いており,また驚くほど保守的だった南部の性別規範に挑戦する女の物語でもある。しかし他方で,著者の黒人観といい,物語の帰着先といい,この物語を支える世界観の骨組みは,随分と保守的で,偏見に満ちていて,底が浅いものだとも思う。

やや古い感じもあるけれど,良書です。
特に,黒人の登場人物の描き方や,奴隷制をめぐる描写には,ミッチェル自身の強烈な偏見-彼女はそれを自分の「偏見」だとは思っていなかっただろう-が現われている。この点については,青木富貴子『「風と共に去りぬ」のアメリカ 南部と人種問題』(岩波新書,1996年)が丁寧に論じているので,詳しくは書かない。けれども,この物語にのって,白人支配者に都合の良い「ハッピーな奴隷」「愚かな黒人」観が,戦後日本の女性を含む世界中の若い読者の間に運ばれていったという事実を思うと,ため息が出てしまう。

「ミッチェルの小説は,悪意に満ちたステレオタイプの奴隷を描き,人種差別小説と呼んでもおかしくないほどのものです。・・・しかし,白人でも,黒人でも,日本人でも,あらゆる人種の人たちがこの小説を読んで,たまらまく面白いと思い,自分自身を白人の主人公になぞらえて物語を読み進める・・・・そして,明日は明日の風が吹くとスカーレットのように思うのでです」(青木前掲書中のある黒人政治家の発言,p.95)。
ああ,まったくその通りだ。

シニカルな異端児だったレット・バトラーも,年と共に,愛娘ボニーのために,軽蔑していた南部の名士にとりいるありふれた父親になり,最後は,あれほど嫌っていたはずの故郷へと帰っていく。そしてスカーレットも,母なるタラの大地に向かう。この帰結もまた,メロドラマの帰着先としては実にありふれたものだ。

文学を,国境と時代を超えて互いに影響を与え合う作品どうしのネットワークとしてとらえるなら,『風と共に去りぬ』は,その営みの体系から外れた作品だろう。たしかにこの小説には,優れた小説の登場を新たに啓発するような広がりや深さがない。その系譜をひくのは,せいぜい「ハーレクインもの」とよばれるちょっとエッチな少女向けロマンスのような無数の消費型小説と,あまたの映画,ドラマ,マンガに登場するスカーレット型の高慢なヒロインの造形ということになろう。

けれども,この小説が,1936年の出版以来,80年近く,世界中で読まれてきた(手元の新潮文庫は第62刷!)のは,スカーレット・オハラの異常なまでに旺盛な生命力が,さまざまな混乱や苦しみに直面する人々を励まし,周りからの嘲笑をはねのけて生きる彼女の姿が,多くの女性を力づけてきたからだ。そう考えると,『風と共に去りぬ』は,実に偉大な大衆小説である。

7月半ばに台風7号が台北を直撃。風の威力はすごい・・・

2013年7月7日日曜日

変わりゆく「世界の工場」

11日間の中国出張を終えて,昨夕,台北に戻った。私の中国行きは基本的には台湾系企業を回る旅なので,台湾系企業の二大集積地である広東省南部と上海周辺に足をのばすパターンになる。今回もまず,香港経由でシンセンに向かった。

1990年代半ば,シンセンから東莞,広州へと続くエリアを初めて訪れたときに受けた衝撃は,今でも忘れられない。中国ぢゅうのブルドーザーを集めていっせいに地面を掘り返したのかと思うばかりの無秩序な土地造成,果てしなく続く工場群,宿舎の窓に吊るされた色とりどりの作業服。夜の高速道路を走ると,闇のなかに24時間稼動の工場の灯が無数に浮かび上がり,巨大な不夜城がどこまでも連なっているかのようだった。


台湾系の工場では,昼時に,数千人の従業員が軍隊式に列をつくって食堂に向かう姿や,同じ身長の女性ばかり,視力2.0以上の女性ばかりを集めた生産ラインを組んでいるという企業の話に驚いた。殺伐とした宿舎の室内や,暑い工場のなかで,マスクもせずにスプレー塗装をしている女性作業員たちの姿にも衝撃を受けた。台湾人幹部の案内で工場を見学しながら,「なぜ私は生産ラインのあちら側ではなく,こちら側で,彼女たちを見学しているのだろう?」と問わずにはいられなかった。

一方で,残業が終わったあと,路上に繰り出しておしゃべりをしている女性たちや,腕を組んだカップルの姿は,青春そのものだった。かりに私が四川省の山深い農家の娘に生まれていたら,学校を出たあと,農作業をしながら親の決めた相手と結婚する人生と,同じ年頃の仲間と一緒に沿海部の工場で働くことのどちらを選ぶだろう?とも考えさせられた。


あれから10年以上がたった今でも,中国は「世界の工場」であり,それを支えるのは内陸部からの出稼ぎ労働者たちだ。それでも,今回,東莞や昆山で目にした生産ラインの現場からは,かつて「無制限労働供給的」と形容された中国の労働市場がとっくに様変わりし,企業と労働者が相互に選び合う(*もちろん力関係は圧倒的に後者に不利だけれども)時代が訪れていることがうかがわれた。




出稼ぎ労働者たちの宿舎。窓には洗濯物が干してある。


東莞の台湾系企業にて。以前は女性のみだったというが,今は半数近くが男性。

まず目につく変化が,工場労働者に占める男性比率の上昇と,平均年齢の上昇だ。企業が「管理がしやすい」若い女性労働者を好む傾向には,変わりはない。しかし,若い女性はサービス業に向かうようになっているため,多くの工場が,男性を受け入れ,年齢制限も相当緩めているという。

また,かつてのように全員が宿舎に住みこむ時代も過ぎ,中堅ワーカーを中心に,自由を求めて工場外に部屋を借りて暮らす人が増えたという。かつての労働者らが,給料の多くを実家に送金していたのに対し,最近は給料の多くを自活のために使うようになっているともいう。

超安価なケータイの普及も,出稼ぎ労働者の味方となった。前に台湾企業で聞いた話によると,ケータイの普及とともに,残業の状況(*出稼ぎ労働者は,限られた年限で少しでも多くの収入を得たいと考えるため,残業が少ない企業は敬遠される傾向がある),食堂の食事の質を含む各社の労働条件に関する情報が労働者の間で広く流れるようになり,人気のない企業は人集めにひどく苦労するようになっているという。

その中国製の超安価なケータイ生産を支えているのが,シンセンの華強北市場だ。ここは巨大な電子製品・部品の市場で,携帯電話づくりに必要なあらゆる部品が手に入る。シンセン周辺には,ここで買った部品を組み立てて,超安価なケータイ・スマホを大量につくるメーカーが集積しており,出稼ぎ労働者にこの重要な「装備品」を提供しているのだ。

ケータイの基板,キーボード,各種部品。なんでも売られている華強北市場。
華強北路の表通りは有力ブランドのスマホ売り場に様変わり。怪しい部品市場は裏手に多い模様。

5日目からは,華中地域へ。蘇州一帯,特に昆山市周辺は台湾系企業が多数集積する大工場地帯だが,それでもあちこちに水をたたえた田んぼが広がり,柳の植わった水路が流れている,白壁の民家も,簡素なつくりながら,どことなく豊かさを感じさせる。車窓からのぞくだけだが,民家の家並みをみて,そのなかでの人々の暮らしを勝手に想像するのが楽しい。

杭州では,民家が大きく,色が派手で,あちこちの家に仏舎利状のタワーが載っているのが目をひいた。地元の裕福な人たちの家らしく,タワーは避雷針とテレビ用を兼ねているらしい。また,家ごとに棟の高さを競っているらしい。早い時期から私営企業が発展したこの地域らしい,エネルギッシュな光景だ。


杭州の大きくて派手な民家。

ドーム状のタワーを載せている家が多い。
上海では,静安寺近くのホテルに泊まった。この周辺には,1910-30年代に建てられたヨーロッパ式のアパートがたくさん残っており,現在でも住宅として使われている。最終日,仕事から戻ってから日没まで1時間ほどあったので,散歩に出てみた。

華中路に沿って広がる1920年代の英国式アパート群。

私は中国の住宅制度をよく知らないのだが,いずれも,アパート群のある敷地の一角に国有企業があること,住民の平均年齢が高く,庶民的な雰囲気であることから推し量るに,これらの住居は,中華人民共和国成立後は,国有企業の住宅として人々に分配され,のちに私有化されたものではないだろうか?

路地ではお年寄りが夕涼みし,近所の人たちが立ち話をしていた。高層ビルの谷間に,こんな生活感あふれる空間が広がっていようとは思いも寄らなかった。
愚園路から一歩入る。



華中路の住宅の一角は公的セクター。



最終日は,上海浦東ー台北桃園空港線に乗り,「両岸直行便」を初体験。かなり前に予約したのに,両都市の中心部の空港を結ぶ上海虹橋-台北松山空港線は取れなかった。二階建ての大型ジェット機は,ほぼ満席状態だった。両地を行き来する人の多さがうかがわれる。

11日間の中国出張は,学ぶことが多く,刺激的で,楽しくもあったが,桃園空港に着いて台湾風のまるっこい発音の中国語を耳にしたら,ホッと緊張がほどけた。台北に住んで1年ちょっと。3ヶ月後には私はもうここを去る。でも今このときだけは,私にとって台北は,帰る場所なのだなぁ。