江藤淳が,『アメリカと私』(講談社文芸文庫)の冒頭で,ある米国人との会話を引いてこんな言葉を記していた。
「外国暮らしの『安全圏』も一年までだね。一年だとすぐもとの生活に戻れるが,二年いると自分のなかのなにかが確実に変わってしまう。」この二年の体験は,私のなかのなにかを確実に変えただろうか?
台北・中正紀念堂そばで,二階建ての家屋を突き抜けて伸びる「ド根性の木」 |
ものごとの見方,感じ方は,変わったと思う。
台湾では,日本の暮らしにのなかで,受け入れるほかないことだと思っていたいくつものことがらが,「変えられるもの」であることを知った。20代で経験した初めての在外研究の時より,40代半ばの今回のほうがその「可変性」により強い衝撃を感じたのは,私自身がこの15年の間に,日本社会の常識により強く囚われ,世間のものさしをより深く内面化するようになっていたからだろう。また,台湾の市民社会の成熟と,人々の政治・社会の変革への強い意志が日本を遠く追い越し,私にとっての台湾が,観察する対象から学びを乞う対象へと変わったことの反映でもある。
バークレーでの半年は,思いがけないかたちで私の視野を広げてくれた。その衝撃は強く,書き始めればきりがない。なかでも収穫だと思うのは,台湾に加えてアメリカという視座が加わったことで,研究の面でも,自分の社会をみる目という点でも,新しい広がりを獲得できたことだ。風景を「三角測量」することで,それまでにない遠近感が得られたように思う。
バークレーの丘よりサンフランシスコ湾を望む。 |
他方で,自分の行動パターンは,日本に戻ったとたん,あっさり元に戻ってしまったなぁとも思う。
先日,樋口陽一氏が朝日新聞に寄稿した菅原文太さんの追悼文のなかに,菅原さんのこんな言葉が引用されていた。
「周囲の様子をうかがいながら、だいたい定まってきてからものを言い出す(笑)。なにがこわいのかね」ああ,私もまさにそんな一人だ。台湾やアメリカで,ひとから批判や非難を受けようとも,みっともなくても,先頭をきって最初の一歩を踏み出す勇気の持ち主たちに出会い,私もこうありたいと思って日本に帰ってきたはずなのに。自分が育った社会の常識や,ふるまい方の規範から踏み出すことは,やはりしんどく難しいことだ。
でも,あの二年間が私にとって真にtransformative experienceだったのなら,それは私のものの見方を変えただけではなく,私の行動を変えるだけの力を,私に与えてくれたはずだ。もしその力が自分のなかに見つからないのなら,台北とバークレーは,私の「なにかを確実に変える」には至らなかったということなのだろう。
2014年の終わりに,この2年間を総括したいと思ってこのエントリーを書いた。でも書いてみて分かったことは,この二年間は,そんなに簡単に総括できるものでも,ピリオドを打てるものでもなく,どうやらいまだに現在進行形の体験だということだ。
願わくば,これからの私の行動のなかに,そして私が書くものののなかに,この2年間のtransformativeな力が現れますように!
(謝辞)
本ブログは,このポストをもって最終回とします。これまで,私の記事を読んでくださった全ての方に心からお礼を申し上げます。ブログというメディアのおもしろさと,自由さ,そしていささかの不自由さを心から楽しんだ二年間でした。
いつの日かまた,新しいブログを書きはじめることになるかもしれません。改めまして,本ブログにお越しくださいました皆さま,どうもありがとうございました。またお会いできる日まで,お元気で。再見!
0 件のコメント:
コメントを投稿