台北の冬は,雨の季節だ。繰り返し近づいてくる低気圧に覆われるたび,冷たい雨が降り注ぐ。15年前の滞在経験から冬の陰鬱さは覚悟していたけれども,今月に入って降り続いた長雨にはかなり参った。
雨にぬれて輝く巨大な葉っぱ。木柵・政治大学にて。 |
心にかびが生えそうな気分になっていたので,今日は久しぶりの快晴になったことが本当に嬉しく,お昼に中央研究院のキャンパスのなかをぐるぐる歩き回った。
南港山脈の美しい稜線を眺めながら,福島の山々のことを思った。そして,読み終えたばかりの『死の淵を見た男:吉田昌郎と福島第一原発の五百日』(門田隆将著,PHP研究所,2012年)のことを考えた。
PHP研究所 HPより。 |
題名の通り,この本は,過酷な事故に見舞われた福島第一原発の現場の人々の3.11直後からの数ヶ月にわたるドキュメンタリーである。副題には吉田所長の名前が挙げられているが,吉田氏というカリスマ的な人物だけに光をあてているわけではない。紙幅の多くは,原子炉建屋に突入した作業員,放水による冷却作業に携わった自衛隊員,協力企業の人々といったあの壮絶な現場で働いた人々の生の声の紹介に割かれている。
これは,「福島フィフティーズ」を含む,幾百人もの無名の英雄たちの物語だ。けれども,英雄とは何なのだろう?私たちは彼らの勇気と責任感を,遠くからあがめ,称えるだけでよいのだろうか?
福島第一原子力発電所(2012/3/12朝日新聞ウェブより) |
昨晩,Cafe Philo(慕哲珈琲)で「社会は英雄を必要とするか?」という座談会が開かれた。学生運動や社会運動が盛んな台湾では,これまで,幾人もの社会運動や政治運動を象徴するヒーローが生まれてきた。
席上,あるパネリストが「英雄とは社会的なプロセスである。英雄は社会が必要とし,生み出し,その地位に押し上げ,しばしばそこから引きずり下ろす存在だ」と発言した。ああ,その通りだ,と思った。
吉田所長を含め,3.11後の福島第一原発の現場で命がけで働いた人々は,英雄になることを選んだわけではない。彼らは英雄になるほかなかったのだと思う。彼らという英雄を必要としたのは,原子力発電という,いったん重大な事故を起こしたら瞬く間に国家レベルの危機を引き起こし,人々の故郷を破壊してしまう巨大で残酷な技術システムだったのではないか?
Cafe Philoでの討論会のようす。 |
しかし,この人たちの勇気と責任感は,原発という技術システムとそれを支える企業システムが,プラントの第一線を預かる人々に求めた英雄的な強さの現れでもある。そしてその巨大な技術システムは,本質において,戦争と非常によく似た構造を持つものであるように思われる。
この本で描き出されている福島第一原発の現場の姿には,疲労困憊した人々が所狭しと身を横たえていた免震棟の風景が「戦場のようであった」という比喩を越えて,戦争における国家と個人の関係によく似た残酷な構図が重なる。人々が「国が滅びるか,自らが滅びるか」の二者択一を迫られる点で,そして危険へのコミットメントを求める装置として「東電社員であること」「年長者であること」「管理職であること」といった位階システムが人々の行動を強くしばる点で,過酷事故下の原発の現場は,戦争の現場と極めてよく似た場であったのだと思う。
この本には勇気ある人々の物語がたくさん出てくるが,私がいちばん心を打たれたのは,事故直後の免震棟の中で作業員の世話やロジスティックスに奔走した佐藤眞理さんの言葉だ。3.11の後,極限の緊張状態に置かれ,「いろんなものが麻痺していた」という彼女が本当に泣いたのは,8月頃のことだという。
"私たちは,いろいろ復旧で誰もいない町の中を通って行くんですよ。本当に牛とかが死んでいたり,キツネとかが出てきたり・・・・骨と皮だけになってね。(略)あれ,あの尻尾,キツネだよね,って言いながら,持ってたあんぱんをあげたんです,それを見てたら,あんまり痩せて,哀れで。私,その時,もう本当に突然,バーっと涙が出てきたんですよ。人間だけじゃなく,動物まで,こんな目に遭っているということが,この土地一帯をこんなことにしちゃったって。そういう生き物が苦しんでいるのを見た時に,地元の人が事故で受けた被害の大きさがより胸に迫ってきて,本当に泣けました。"(一部略,pp.310-311)戦場の極限状態から解き離れたときに佐藤さんを襲った悲しみと挫折の深さ,そして彼女を打ちのめした福島の山河の荒廃に,涙が出た。
冷たい雨の中でも花が咲き乱れる台北の冬。木柵にて。 |
改めて思う。原子力発電という技術システムは,いったん事故を起こしたときには,国と故郷を根こそぎ破壊し,その破滅の程度を少しでも小さくするために,その現場で働く人々に自らの肉体を犠牲にすることを迫るシステムなのだ。私たちは,他の方法でもつくりだせる電気というものを得るのに,どうしてそのような技術システムに頼り続けねばならないのだろう?