2013年9月7日土曜日

「聞いてはいけない」:プライバシーとデリカシー

最近,知り合いになった台湾人の女性が,日本語を勉強しているという。彼女に,「日本人に聞いてはいけないことを教えて」と聞かれた。

「日本人は,相手の月給は聞かないんだよね?」「年齢は聞かないほうがいいの?」「恋人の有無は?」といった質問に答えていくうちに,うーん,と考え込んでしまった。「聞かないほうがいいこと」は指摘できるのだが,なぜそれを聞かないほうがいいのかを説明するのが,難しいのだ。

給料の額は,聞かないほうがいい。年齢は,欧米人ほど気にしないと思うが,個人差があるから様子を見ながらね。このあたりまでは答えやすいのだが,結婚・出産といった人口動態系の話題,特に「なぜ聞かない方がよいか」の理由となると,とたんに答えるのが難しくなる。

「既婚か否か,子どもの人数といったことは聞いてもいい。しかし,恋人の有無は気軽には聞かないほうがいい」といったら「え,なぜ?」と不思議がられた。台湾では,恋人の有無はオープンな情報だ。初対面の相手や,仕事上の知り合いにも,「私の彼氏が・・・」といった話を気軽にする。「忍ぶれど/色に出でにけり/我が恋は・・・」といった情緒とはまるで無縁の社会なのだ。

「それよりね,台湾人はすぐに『なぜ結婚しないの?』『どうして子どもを生まなかったの?』『次の子どもはいつ生むの?』といった質問をするでしょ。あれは,日本人にはやめたほうがいいよ」と言ったら「え,そうなんだー」と彼女。「というか,台湾人でも聞かれてイヤだと思っている人はいっぱいいると思うよ」と話しながら,ついつい言葉に力が入っている自分に気がついた。

中央研究院にて。

私は,既婚・子なしである。この"中途半端"な状況を,台湾の人々は決して放っておいてはくれない。30代の頃は,「生まないの?」「ほしくないの?」「かわいいよ」攻撃に,40代半ばになってからは,「どうして子どもがいないの?」「かわいそうに」攻撃にさらされ続けている。

大勢の人がいる前で「どうして子どもを生まなかったの?」と問われるのも面食らうが,「寂しいでしょ」「いる人が羨ましいでしょ」と同情されたり,「ご両親がかわいそうじゃない」「今からでも努力しなさい」とお説教されたりするのは,さらにかなわない。

以前,「あれって本当に信じられない。delicacyって言葉は中国語にないの?」と台湾人女性の友人にぐちったら,「それって,子どもがいても続くんだよ」と慰められた。一人っ子なら,「一人っ子はかわいそう」「二人目をなんで生まないの?」と言われる。娘二人の母親である友人は,「親御さんに孫子(男孫)を抱かせてあげなさい」と言われるそうだ。そうか,「なぜ?」攻撃は,オンナの人生双六をどこまでいっても続くわけか(←いや,男性も聞かれているぞ)。そして,そんな問いかけに,台湾の女性もやっぱりいやな思いをしているのか・・・。

それにしても,人,中年に至れば,既婚か独身か,子どもの数が何人か,といった個々人の状況が,選択したことと選択したわけではないこととが絡まり合った複雑な物語であることくらい,分かっているはずだ。「なぜ?」と問われて一言で答えられるほど簡単なものとは限らないこと,たとえ明快な答えがあったとしても,それを誰にでも気軽に話したいと思っているとは限らないことくらい,想像がつくはずだ。

社会によって,聞くことをよしとしない「プライバシー」の範囲が異なるのは当然だ。けれども,自分の発言に相手が戸惑った様子を見せたら,会うたびに問い詰めたり,繰り返しお説教したりするようなことはしないくらいのデリカシーはあってもいいのではないか。

淡水から八里・観音山を望む。

というわけで,日本にも「デリカシー」に欠ける人がやまほどいることは承知のうえで(そして私も,
後から振り返って"あの時の自分はデリカシーを欠いていたなぁ"と反省する場面がたくさんある),"人口動態"系の話題については,台湾の人たちに「聞いてはいけない」「言ってはいけない」と言いたいことがいろいろある私である。

が,そのいっぽうで,まれにではあるけれども,日本人どうしではめったに踏み込まない「なぜ?」と踏み込んでくる台湾の友人とのあいだに,思いがけなく深い感情の交流が生まれることもある。

そういう心の化学反応が起きるためには,いくつかの前提条件がある。まず,一対一で,深く向き合える相手であること。互いが話したことを他人には話さないと信頼できること。硬直した「幸せ・不幸せ」観や,「幸せでなければならない」という強迫観念から自由な人であること。(ふだんは距離が離れている台湾の友人だから話しやすかったりもする。)

めったにないことだけれども,そんな相手から発せられた「なぜ」に答える言葉を探すうちに,思いがけない自分の心や人生観の変化に気づかされることがある。好奇心からではない,友人の人生に寄せる深い関心から発せられる「なぜ」。人生の機微を知り,人を型にはめようとはしない,尊敬できる人からの「なぜ」。

そんな「なぜ」に答えようとして言葉を探す瞬間,人は,互いの人生を分かちあうことはできないけれども,分かり合おうと努力し続けることはできるのだなぁ,と思う。

2013年8月25日日曜日

進んでいる台湾,遅れている日本?


中央研究院のモスバーガーでお昼を食べていたら,隣の席から英語の会話が聞えてきた。50歳前後のアメリカ人と,30歳台とおぼしき台湾人の男女が話に花を咲かせている。

Japanという言葉が繰り返し聞えてくるので,耳ダンボ状態で聞いていると,アメリカ人が,「日本がいかに窮屈でイヤな社会か」を力説している。いわく,日本人は権威に弱くて,肩書きのある人の前に出ると誰も何も言えない。満員電車の通勤客は機械のように無表情で無感情だ。男がやたらと威張っていて,女の地位はありえないほど低い。それに比べると,台湾はいかに自由で平等で,女性がのびのびと生きられる素晴らしい社会であることか。

「はいはい,その通りです」と思いつつ,「なんだかなー」という気分にもなる。

モスバーガーも入っている中研院活動中心

数少ないサンプルからの経験ではあるが,台湾の人々は,欧米の知識人やビジネスマンのあいだで,概して評価が高い。これに対して日本の評価は,下がるいっぽうだ。

人権意識・マイノリティへの理解の高さ,活発な社会運動,はっきりと意志表明をする文化。ビジネスの世界でいえば,決断力,機動力,コミュニケーション力。今日の台湾は,欧米の知識人やビジネスエリートが重視するこうした価値を高い水準で満たしている。女性の社会的地位という指標も,「実は進んでいる台湾,やっぱり遅れている日本」という対比を強調するためによく挙げられる。

しかも,台湾はこの10数年のあいだに,「公共空間でのマナー」といった苦手項目でも長足の進歩を遂げた。社会も個人もすっかり疲れ切ったように見える日本は,いかにも分が悪い。

喩えていえば,今の台湾は,公私ともに脂がのり,自信に満ちた,30過ぎの働き盛り。感情的な行動に出ることも多いけれど,自己修正力の高い若者だ。かたや日本は,定年退職してまもない60台半ば。しかもこのシニアは,東日本大震災で心身に受けた深刻な傷がいまだ癒えていない病身でもある。(最近は新しい医者が現われて,やれ筋肉増強剤を飲め,精力剤を飲めと,大忙しのようだが・・・)

日本社会には,落ち着き,配慮,豊かな知識と深い趣味の世界,といった美点があると思うのだが,台湾の若々しい活力に比べられたら,とうてい叶わない。

そう考えれば,隣席のアメリカ人の発言に,いちいち目くじらを立てるまでもないのかもしれない。私自身,彼が指摘したような日本社会の側面を常に腹ただしく思い,台湾の友人に向かってぼやいてもいるのだ。しかし,それでもやはり,こういう発言を耳にして抱くのは,「ステレオタイプ化されるのは,いやなものだなぁ」という素朴な感情だ。対象への関心や愛情のかけらも感じられない語り口での類型化は,なおさらそうだ。類型論をむやみにタブー化するのは愚かなことだと思うけれども,時に,誰かをカテゴリー化することが,笑い話ではすまされない暴力性を持つものであることを思い知らされる。

ステレオタイプな類型論はまた,社会現象を多面的にみる視線をふさぐことにもなる。

例えば,日台比較の際にしばしば強調される「台湾の女性の地位の高さ」というポイント。公的領域での台湾の男女の平等度(登用面,意識面ともに)が日本に比べて圧倒的に高いことに異論はない。ただ,それを強調するあまり,台湾の女性たちが直面している困難が見過ごされていることが気にかかる。

私的領域に目を向けて,「嫁」「妻」「母」「娘」としての彼女たちが抱えている負担や困難を,「娘婿」「夫」「父」「息子」のそれと比べてみれば,台湾が単純に「すばらしい男女平等社会」ではないことが見えてくるはずだ。高い意識をもち,あらゆる面で対等な夫婦関係を築いている都市部のインテリ・カップルがいる一方で,大多数の台湾の女性は,伝統的な大家族のなかでの「嫁,娘」の役割と,家計の経済戦略の論理から要請される稼ぎ手としての役割の両立を求められている。台湾人男性が「男女が平等な台湾社会」を誇らしげに語るのに対して,女性の友人から聞く現実はなかなかにシビアだ。

隣席では,アメリカ人の話に,台湾人の聞き手たちが盛んにあいづちをうち,「日本人は分かりづらいよー」「日本の女性は本当にかわいそう」と感想を述べている。幸か不幸か,台湾にいると,日本人の自尊心をくすぐるようなカテゴリー論を耳にすることのほうが多いけれども,若い彼ら・彼女らの目に映っている日本人の姿は,実際には,もっと不気味で理解しがたいものであるはずだ。

そう思えば,今日この席に座り,この会話を聞くことができたのは,悪くない巡り合わせだったのかもしれない,と思いながら,モスバーガーの席を立った。


活動中心そば,「生態観察池」は自然がいっぱい。



2013年8月4日日曜日

カメラと『キメラ』と行く旧・満州の旅

7月末に,ハルビン・長春へ一人で旅行してきた。

1日目(7/24 木)はエバー航空の直行便で台北からハルビンへ。ホテルに荷物をおいてすぐに,ハルビン市建築芸術館分館(旧ユダヤ新教シナゴーグ)に行き,20世紀前半のハルビンで栄えたユダヤ人コミュニティについての展示を見学。夕方からは,市内随一の繁華街・中央大街(旧キタイスカヤ)を散歩し,ロシア料理の夕食を食べた。2日目は午前の高速鉄道で長春へ。午後,1932-45年にかけて溥儀が満洲国皇帝として住んだ仮宮殿跡(「偽満皇宮博物院」)を見学。3日目は午前中,長春市内の旧・満州の建物めぐりをし,昼過ぎの高速鉄道でハルビンへ。旧東清鉄道職員住宅が残る西大直街の南側エリアを散歩し,夜は中央大街周辺を散策。夕食は昨日に続き,餃子屋さん。本場の水餃はおいしかった。4日目は午前に731部隊跡を見学し,午後のフライトで台北に戻った。

東北地方は,上海・広東とは別の世界だった。ホテルやレストランでの「没有(ないよ)」「不知道(知らないよ)」攻勢は想定内だったが,困ったのがタクシー事情の悪さだ。特に1日目は,空車がまるでつかまらなくて,途方にくれた。ようやく捉まえたタクシーでも,ボラれてしまった。

もっとも,2日目午後に,「ここではタクシーは相乗りするものなのだ」ということに気づいて,楽になった。先客が乗っている車でも,行き先が順路ならば乗せてもらえるのだ。相乗りには,遠回りになるというデメリットと引き替えに,ボラれないというメリットがあって有り難い。

ハルビン・長春は,歴史散歩のしがいのある街だった。特に,映画『ラストエンペラー』(ベルトルッチ監督,1987年)を見て以来,いつか行きたいと思っていた満洲国の首都・長春はみごたえがあった。

溥儀が住んでいた仮宮殿では,溥儀たちの生活・執務スペースがよく保存されており,たいへん興味深かった。関東軍参謀だった吉岡安直(溥儀の御用掛)の執務室があったりするのが生々しいが,『ラストエンペラー』『流転の王妃の昭和史』(愛信覚羅浩,1992年)とのかかわりから興味深いのは,やはり溥儀と皇后・側室たちが暮らした緝熙楼だ。部屋のしつらえやスペースの割り当てからも,婉容皇后の孤独な生活,溥儀の寵愛を受けた側室の満たされた生活の様子など,溥儀と妻たちの数奇な運命が伝わってくる。

旧宮殿への入り口には「九一八を忘るるなかれ」との江沢民の大きな揮毫が。

婉容皇后のアヘン吸引室。


「建築とはかくも雄弁なものよ」と唸らされたのが,新民街に沿って整然と並ぶ旧・満洲国中枢部の建物群だ。威圧感や和洋中の折衷ぶりは,建物によって異なるのだけれども,とにかく日本の,いや関東軍の異様な鼻息の荒さが視覚を通じて伝わってきて,驚いた。写真ではあまり伝えられないが,とにかく「でかい!」という印象。これに比べれば,帝国初の植民地・台湾で日本が建てた建築の数々は,落ち着いたたたずまいであったのだなぁ。

旧・満洲国司法部跡(現在は吉林大学医学部)

旧・満洲国国務院跡(現在は吉林大学医学部)



なんですか,これは!すごすぎる・・・旧関東軍司令部(現在は中国共産党吉林省委員会)

さて,一人旅の道連れは,愛用機リコーCX6。ところが,3日目の午後,このカメラが突然壊れてしまった。レンズが怪しい開閉運動を繰り返したあげく,勝手に閉じてしまうのだ。うーん,困った。

ハルビンでは,目玉の中央通から外れたたあたりに,戦前期からの古い建物がたくさん残っていた。ようし撮るぞ!と張り切った直後に突然逝ってしまったカメラのことが,恨めしくてならない(涙&怒)。

ハルビンの旧・東清鉄道幹部職員住宅。
けれども,もうひとつの旅の道連れ,山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』(中公新書,2004年)は,旅の最後まで私を助けてくれた。

今回の旅で,私は初めて中国の「愛国教育」の現場に足を運んだ。「偽満皇宮博物院」併設の「東北淪陥史陳列館」が,典型的な愛国主義教育施設だったのだ(この「博物院」の性格規定については長春市政府のサイト参照)。

展示を見終えて,建物の前の階段に座って,考えた。

428頁,参考文献だけで23頁の増補版。二つの後書きも素敵です。
日本の侵略がいかに多くの中国の人々を残酷な運命においやったか。そのことを中国人が語り継いでいくのは当然のことであるし,日本人も深く学ばねばならない事実である。私もこの展示をみて初めて知ったことも多く,その凄惨さに胸がふさがった。

しかし,この陳列をみて感じたのは,日本を徹頭徹尾,「侵略への欲望に燃えあがった残虐者集団」として-つまり理解不能な変態集団として-描くこのような展示手法は,日本の中国侵略のあやまちを考えるうえでも,決して有益でないだろう,ということだ。

『キメラ』は,優れた歴史の書物の常で,その時代に生きた人々の世界認識に内側から光をあてる。当時の日本が誤った道に突き進んでいった主観的要因と外在的要素を丁寧に掘り下げていくことは,決して,満洲国の暴力性,欺瞞性を正当化するための作業ではない。むしろ,どのような情勢認識と行動の相互作用,軍部・政治指導者の利害と国民の感情の相互作用が,あの時代の日本を中国侵略へと駆り立てていったのかを知るための最も重要な作業なのだ。

日本が,異常な侵略の欲望に燃えた変態ファシスト集団だったと決めつけてしまえば,ある意味,話は分かりやすい。もうそれで話は決まりだ。しかしそれは,あの悲惨きわまる歴史を二度と繰り返さないための知恵の蓄積には役立たないだろう。

15年ぶりに読んだ『キメラ』は,怪獣キメラと同じように,異なる生命体が接合されたような不思議な生命力をもつ本だった。前半ではアカデミックで禁欲的な筆致で,満洲国の歴史が語られていく。後半(特に終章)になると一転,筆者は,悲愴な感情に突き動かされるかのように,満洲国を通じて日本が中国の人々に強いた苦痛を描きだす。

目を背けたくなる歴史,国と区のあいだで激しい感情対立をよぶ歴史と向かい合うのはおそろしく骨が折れる作業だ。それでも,歴史の複雑さと向き合うことからしか何も始まらない。この本にみる山室氏の「キメラ的」な知性のあり方-国家の暴力にふみにじられた人々の苦痛への想像力と,多面的,実証的な研究姿勢をかねそなえた姿勢-は,そのために学問にできることを見事に指し示している。

2013年7月21日日曜日

今さら読む,『風と共に去りぬ』

『風と共に去りぬ』全5巻を読了した。40代半ばになるまで読まずにきたのだから,これから先も読むことはないだろうと思っていた小説だ。

『風と共に去りぬ』といえば,ガールズ向け小説の代表格。しかも,映画(実は未見なのだけれども)が有名なので,この小説の粗筋は,だいたい知っている。それにこの本は,良くできた娯楽小説だけれども,小説としての奥行きや広がりには乏しいという評判だ。そんな本を,今さらよむのもなぁ・・・。

などと思っていたのに,読むことにしたのは,この本が私にとって「いまさら」である最大の理由-これが私の母の青春時代の愛読書であるという理由からだ。母は今でも,高校時代に従姉妹や同級生たちとともに夢中になってこの本を読んだ思い出をよく語る。ふと「この小説の何が,母の,そしてあの時代の日本人女性の心をそんなに掴んだのだろう?」という興味が湧いて,読んでみることにした。

『風と共に去りぬ』は確かに,読み始めたらとまらない小説だった。南北戦争を舞台に,スカーレット,アシュレー,バトラー,メラニーの間の三角関係と,同性間の奇妙な友情の物語がスリリングに展開されていく。緩急をつけた構成が巧みだし,著者の物語への情熱が全編にみなぎっている。何より,気品ある美青年のアシュレと,究極の色男バトラーから思いを寄せられるヒロインという設定が,10代女子の”妄想”をしっかり満たす強力な筋書きだ。細部までしっかり描かれた歴史小説であることにも驚いた。

原作は1936年出版。新潮文庫版は,大久保康雄・竹内道之助訳[1977]。

読み進めながら,「この小説の何が,1950-60年代の日本人女性の心を掴んだのだろう?」と考えた。まず,これはすでに広く指摘されている点だろうが,女性の視点から,南北戦争による徹底した破壊とそこからの再生を描いたことが,同じような時代を生きることとなった戦後日本の女性たちの心性とマッチしたのだろう。

著者は,レット・バトラーの口を借りて,戦争についてこう語る:「戦争には,ただ一つの理由しか絶対にありません。それは金だ。戦争はすべて,じつは金の奪い合いなんです」(第二巻pp.50-51)。これだけ冷徹に戦争の本質を見極めていたバトラーも,結局は不思議な愛国心に駆られて戦場に向かうのだが,スカーレットはその利己的な性格ゆえに,抽象的な大義にはまるで心を動かされず,最後まで戦争への突き放した視線を失わない。そんな彼女の目から描かれる戦争の荒廃と,戦後の価値観の転倒は,敗戦と復興の時代に生きた日本人たちの経験とシンクロするものだったのではないか。

スカーレット・オハラのキャラクター設定も,実に興味深い。私がヴィヴィアン・リーの姿から連想していたスカーレットのイメージは,「勝ち気で情熱的で高貴な女性が,歴史に翻弄されながら,気高く生き抜いていく」というものだった。

ところが,小説中のスカーレットは,少しも気高くなんかない(ついでにいうと,映画と違って,特別な美人でもない)。むしろ,やたらと虚栄心が強く,徹底して自己中心的な性格だ。目先の利益の計算には長けているが,物事への洞察力や,他人の高潔さ・誠実さを理解する能力は欠けている。しかも,品が悪くてすぐに怒鳴りちらす。行き当たりばったりに,愛のない結婚を繰り返し,生まれてくる子どものことも,邪魔だとしか思わない。打算から妹の恋人を奪い,製材所を経営するという「性別のない」ふるまいをしたうえ,にっくき「北部人(ヤンキー)」にとりいって,南部人の怒りと軽蔑をかう。

だが,スカーレットのこの「食えない」性格-それは,戦争によって生きる気力を失った家族とタラを守るために彼女がまとった鎧でもあるが-こそが,この物語が世代を超えて多くの女性の心をつかんできた鍵なのだろう。読み手は誰でも,彼女のなかに自分の愚かさや欲深さを見いだすからだ。

周りとの摩擦を恐れないあつかましさ,手段を選ばない欲の皮の突っ張り具合。読み手をはらはら・いらいらさせることで,超長編を一気に読み進めさせてしまうこの最強キャラクターは,それまでの女性向けの小説には見られなかった一種の革新的なヒロインだったのではないか?

このようにこの小説は,ヒロインの破壊的なキャラクターと型破りなふるまいを描いており,また驚くほど保守的だった南部の性別規範に挑戦する女の物語でもある。しかし他方で,著者の黒人観といい,物語の帰着先といい,この物語を支える世界観の骨組みは,随分と保守的で,偏見に満ちていて,底が浅いものだとも思う。

やや古い感じもあるけれど,良書です。
特に,黒人の登場人物の描き方や,奴隷制をめぐる描写には,ミッチェル自身の強烈な偏見-彼女はそれを自分の「偏見」だとは思っていなかっただろう-が現われている。この点については,青木富貴子『「風と共に去りぬ」のアメリカ 南部と人種問題』(岩波新書,1996年)が丁寧に論じているので,詳しくは書かない。けれども,この物語にのって,白人支配者に都合の良い「ハッピーな奴隷」「愚かな黒人」観が,戦後日本の女性を含む世界中の若い読者の間に運ばれていったという事実を思うと,ため息が出てしまう。

「ミッチェルの小説は,悪意に満ちたステレオタイプの奴隷を描き,人種差別小説と呼んでもおかしくないほどのものです。・・・しかし,白人でも,黒人でも,日本人でも,あらゆる人種の人たちがこの小説を読んで,たまらまく面白いと思い,自分自身を白人の主人公になぞらえて物語を読み進める・・・・そして,明日は明日の風が吹くとスカーレットのように思うのでです」(青木前掲書中のある黒人政治家の発言,p.95)。
ああ,まったくその通りだ。

シニカルな異端児だったレット・バトラーも,年と共に,愛娘ボニーのために,軽蔑していた南部の名士にとりいるありふれた父親になり,最後は,あれほど嫌っていたはずの故郷へと帰っていく。そしてスカーレットも,母なるタラの大地に向かう。この帰結もまた,メロドラマの帰着先としては実にありふれたものだ。

文学を,国境と時代を超えて互いに影響を与え合う作品どうしのネットワークとしてとらえるなら,『風と共に去りぬ』は,その営みの体系から外れた作品だろう。たしかにこの小説には,優れた小説の登場を新たに啓発するような広がりや深さがない。その系譜をひくのは,せいぜい「ハーレクインもの」とよばれるちょっとエッチな少女向けロマンスのような無数の消費型小説と,あまたの映画,ドラマ,マンガに登場するスカーレット型の高慢なヒロインの造形ということになろう。

けれども,この小説が,1936年の出版以来,80年近く,世界中で読まれてきた(手元の新潮文庫は第62刷!)のは,スカーレット・オハラの異常なまでに旺盛な生命力が,さまざまな混乱や苦しみに直面する人々を励まし,周りからの嘲笑をはねのけて生きる彼女の姿が,多くの女性を力づけてきたからだ。そう考えると,『風と共に去りぬ』は,実に偉大な大衆小説である。

7月半ばに台風7号が台北を直撃。風の威力はすごい・・・

2013年7月7日日曜日

変わりゆく「世界の工場」

11日間の中国出張を終えて,昨夕,台北に戻った。私の中国行きは基本的には台湾系企業を回る旅なので,台湾系企業の二大集積地である広東省南部と上海周辺に足をのばすパターンになる。今回もまず,香港経由でシンセンに向かった。

1990年代半ば,シンセンから東莞,広州へと続くエリアを初めて訪れたときに受けた衝撃は,今でも忘れられない。中国ぢゅうのブルドーザーを集めていっせいに地面を掘り返したのかと思うばかりの無秩序な土地造成,果てしなく続く工場群,宿舎の窓に吊るされた色とりどりの作業服。夜の高速道路を走ると,闇のなかに24時間稼動の工場の灯が無数に浮かび上がり,巨大な不夜城がどこまでも連なっているかのようだった。


台湾系の工場では,昼時に,数千人の従業員が軍隊式に列をつくって食堂に向かう姿や,同じ身長の女性ばかり,視力2.0以上の女性ばかりを集めた生産ラインを組んでいるという企業の話に驚いた。殺伐とした宿舎の室内や,暑い工場のなかで,マスクもせずにスプレー塗装をしている女性作業員たちの姿にも衝撃を受けた。台湾人幹部の案内で工場を見学しながら,「なぜ私は生産ラインのあちら側ではなく,こちら側で,彼女たちを見学しているのだろう?」と問わずにはいられなかった。

一方で,残業が終わったあと,路上に繰り出しておしゃべりをしている女性たちや,腕を組んだカップルの姿は,青春そのものだった。かりに私が四川省の山深い農家の娘に生まれていたら,学校を出たあと,農作業をしながら親の決めた相手と結婚する人生と,同じ年頃の仲間と一緒に沿海部の工場で働くことのどちらを選ぶだろう?とも考えさせられた。


あれから10年以上がたった今でも,中国は「世界の工場」であり,それを支えるのは内陸部からの出稼ぎ労働者たちだ。それでも,今回,東莞や昆山で目にした生産ラインの現場からは,かつて「無制限労働供給的」と形容された中国の労働市場がとっくに様変わりし,企業と労働者が相互に選び合う(*もちろん力関係は圧倒的に後者に不利だけれども)時代が訪れていることがうかがわれた。




出稼ぎ労働者たちの宿舎。窓には洗濯物が干してある。


東莞の台湾系企業にて。以前は女性のみだったというが,今は半数近くが男性。

まず目につく変化が,工場労働者に占める男性比率の上昇と,平均年齢の上昇だ。企業が「管理がしやすい」若い女性労働者を好む傾向には,変わりはない。しかし,若い女性はサービス業に向かうようになっているため,多くの工場が,男性を受け入れ,年齢制限も相当緩めているという。

また,かつてのように全員が宿舎に住みこむ時代も過ぎ,中堅ワーカーを中心に,自由を求めて工場外に部屋を借りて暮らす人が増えたという。かつての労働者らが,給料の多くを実家に送金していたのに対し,最近は給料の多くを自活のために使うようになっているともいう。

超安価なケータイの普及も,出稼ぎ労働者の味方となった。前に台湾企業で聞いた話によると,ケータイの普及とともに,残業の状況(*出稼ぎ労働者は,限られた年限で少しでも多くの収入を得たいと考えるため,残業が少ない企業は敬遠される傾向がある),食堂の食事の質を含む各社の労働条件に関する情報が労働者の間で広く流れるようになり,人気のない企業は人集めにひどく苦労するようになっているという。

その中国製の超安価なケータイ生産を支えているのが,シンセンの華強北市場だ。ここは巨大な電子製品・部品の市場で,携帯電話づくりに必要なあらゆる部品が手に入る。シンセン周辺には,ここで買った部品を組み立てて,超安価なケータイ・スマホを大量につくるメーカーが集積しており,出稼ぎ労働者にこの重要な「装備品」を提供しているのだ。

ケータイの基板,キーボード,各種部品。なんでも売られている華強北市場。
華強北路の表通りは有力ブランドのスマホ売り場に様変わり。怪しい部品市場は裏手に多い模様。

5日目からは,華中地域へ。蘇州一帯,特に昆山市周辺は台湾系企業が多数集積する大工場地帯だが,それでもあちこちに水をたたえた田んぼが広がり,柳の植わった水路が流れている,白壁の民家も,簡素なつくりながら,どことなく豊かさを感じさせる。車窓からのぞくだけだが,民家の家並みをみて,そのなかでの人々の暮らしを勝手に想像するのが楽しい。

杭州では,民家が大きく,色が派手で,あちこちの家に仏舎利状のタワーが載っているのが目をひいた。地元の裕福な人たちの家らしく,タワーは避雷針とテレビ用を兼ねているらしい。また,家ごとに棟の高さを競っているらしい。早い時期から私営企業が発展したこの地域らしい,エネルギッシュな光景だ。


杭州の大きくて派手な民家。

ドーム状のタワーを載せている家が多い。
上海では,静安寺近くのホテルに泊まった。この周辺には,1910-30年代に建てられたヨーロッパ式のアパートがたくさん残っており,現在でも住宅として使われている。最終日,仕事から戻ってから日没まで1時間ほどあったので,散歩に出てみた。

華中路に沿って広がる1920年代の英国式アパート群。

私は中国の住宅制度をよく知らないのだが,いずれも,アパート群のある敷地の一角に国有企業があること,住民の平均年齢が高く,庶民的な雰囲気であることから推し量るに,これらの住居は,中華人民共和国成立後は,国有企業の住宅として人々に分配され,のちに私有化されたものではないだろうか?

路地ではお年寄りが夕涼みし,近所の人たちが立ち話をしていた。高層ビルの谷間に,こんな生活感あふれる空間が広がっていようとは思いも寄らなかった。
愚園路から一歩入る。



華中路の住宅の一角は公的セクター。



最終日は,上海浦東ー台北桃園空港線に乗り,「両岸直行便」を初体験。かなり前に予約したのに,両都市の中心部の空港を結ぶ上海虹橋-台北松山空港線は取れなかった。二階建ての大型ジェット機は,ほぼ満席状態だった。両地を行き来する人の多さがうかがわれる。

11日間の中国出張は,学ぶことが多く,刺激的で,楽しくもあったが,桃園空港に着いて台湾風のまるっこい発音の中国語を耳にしたら,ホッと緊張がほどけた。台北に住んで1年ちょっと。3ヶ月後には私はもうここを去る。でも今このときだけは,私にとって台北は,帰る場所なのだなぁ。


2013年5月31日金曜日

日台接客考


先週日曜の日経新聞「文化」欄(2013.5.26付 28面)で,角田光代さんの「接客今昔」というエッセーを読んだ。

「飲食店や洋服店での接客には,流行がある。バブル期には横柄な態度がはやり,バブル崩壊とともに機械のようなマニュアル対応が,やがて必要以上に丁寧な接客が広がった。最近は『友だち接客』とも呼ぶべき新しい波が現われているようだ」という内容だ。ちょうど,この10数年の台湾の接客カルチャーの変化や,日台の接客観の違いについてボンヤリ考えていたところだったので,面白く読んだ。

「圧縮型の産業発展」を遂げてきた台湾のサービス産業では,日本で順を追って現われた複数の接客カルチャーが同時に出現しているように思う。「必要以上に丁寧な接客」が現われる気配は感じられないが,「横柄型」「機械型」「友だち型」には日々お目にかかる。

こんなおしゃれな洋菓子店も現われた(台中・宮原眼科洋菓子店)

日本のチェーン店も続々進出(統一阪急百貨店)

台湾の「横柄型」は,バブル期日本のような演出がかったものとは違って,もっと単純に横柄だ。「接客が面倒」という気持ちを隠さないだけなのかもしれない。この10年で,台湾の(特に台北の)消費文化は随分洗練されたものとなったが,おつりを投げて返す売り子や,露骨に不機嫌な対応をする店主は,まだ少なくない。

「友達型」には,モダン型と伝統型がある。角田さんが書いていたような,接客の一環として親しく話しかけてくるスターバックスの店員はモダン型で,台湾でも着実に増えつつある。これに対して,「伝統型」は,接客する側が,販売員としての「公」の顔をするりと脱いで,いきなり「私」として接してくるタイプの接客だ。遅めの時間にスーパーで生鮮食料品を買たら,レジの女性に「これから料理するの?今から始めたら9時近くになるよ,疲れるから食べて帰ればいいのに」と言われる。コンビニでハーゲンダッツのアイスを買ったら,「これ高いですよね,本当に値段に見合うほどおいしいですか?」と聞かれる。同じくコンビニでビールを買ったら「あなたがお酒買うの,初めて見た」と言われる。(←以上,いずれも最近の私の体験。)

最たるものは,タクシー運転手だ。「結婚しているか?→彼氏はいるか?→なぜ彼氏と早く結婚しないか?(20-30代向け),「子どもは何人いるのか?→なぜいないのか?orなぜ一人だけなのか?」(30台後半以降向け)等,日本では友人・親戚どうしでも聞かないor聞けない質問が矢のように降ってくることがある。「うるさぁーい!」と叫びそうになることもあるが,こういう時には「運転手さんは?」と聞けばいいのだと学んでから気が楽になった。

相手のプライバシーの尊重を基本とする日本の接客とは違って,台湾では私的な「相手への興味,関心」を示すことが,親しみの表現方法のひとつになっているように感じる。このような友達型接客は,内心はどうであれ建前として,買い手を一段高いところに「お客様」として祭り上げる標準的な日本型接客の発想とはまるで違うものだ。

こんな伝統的な市場もしっかり健在。

台湾の「機械型」として私が真っ先に思い浮かべるのは,「秒速の食器下げ」だ。台湾のレストランでは,使い終わった(ようにみえる)食器をすばやく下げるのが重要なサービスだという通念があるようで,話が盛り上がって食事の手をちょっと休めると,食べかけのお皿を速攻で下げにくる店員さんが必ずいる。それがあまりに続くと,「早く食べて,早く出て行けというサインか」と疑いたくもなる。もう少し,客の食事のテンポを観察して,臨機応変な接客をできないものか。だいたい,かなりの高級レストランでも,最初にいきなりスープやビーフン炒めを出してくるところが多い。厨房もフロアも,お客が料理を楽しむための順番やテンポを考えずに,機械的につくって,機械的に運んでくるのだ。これじゃまるで料理マシーンと皿下げマシーンだよ。

などと考えていたら,先日,台湾の知人から「日本の飲食店は,融通が効かなくて機械的!」という話をきいた。この方の友人たちが,日本旅行の折,街のおそばやさんにグループで入って,「この温かいおそばを肉ぬきで」「このセット下さい。但し小皿の揚げ物は他のものに変えて」といった注文をしたのだが,店主は「できません」の一点張りだったとのこと。

「台湾ならなんの問題もなくできることなのに!」と批判する知人の気持ちも分かるが,「肉ぬきのカレー蕎麦(←という注文だったかどうかは知らないが)」といった注文を口々にされて,呆然と立ち尽くしたそば屋の店主の気持ちもよーく分かる。

しかし台湾では,こういう時こそ,「お客様は神様」なのだ。宴会のメンバーのなかに一人だけベジタリアンがいることを事前に伝えておけば,小皿に別盛りにした食事を,宴会の進行にあわせて適宜提供する。フードコートの飲食店のセットメニューでさえ,組み替えがきくことが多い。お客が食べたいと言うものを柔軟に提供できてこそ,飲食店としてのメンツが立ち,自然と繁盛もするもの,と考えられているようだ。

これは,接客文化の問題ではなく,飲食店オーナーのマインドの違いによるものだが,日本の店が,一部の顧客に融通をきかせて他の客へのサービスとの整合性がとれなくなることをいやがるのに対して,台湾では「来たお客を逃してなるものか」と考える傾向が強い。そのため,従業員の対応というレベルでは日本が,オーナーの臨機応変さという点では台湾のほうが,より柔軟になる。

「お客と売り手」という役割間関係に徹し,すべての顧客に平等に一定レベルのサービスを提供する日本と,お客を手荒に扱ったかと思えば,少々無理な注文にもどんどん答えようとする台湾と。どちらがより洗練された接客文化かと問われれば,圧倒的に日本なのだが,どこから何が飛び出してくるか分からない台湾の接客文化にも,不思議な迫力と底力がある。


台北を代表する繁華街のひとつ・西門町にて


2013年5月21日火曜日

県営観光バスで行く金門島の旅

5月3-5日に,金門島を旅してきた。金門は,中国福建省アモイの沖合,わずか数キロの距離に浮かぶ中華民国(台湾)領の島だ。この島は,1940年代末から1950年代にかけて,国共間の激しい戦闘の舞台となり,その後も長らく軍事統制のもとに置かれていた。2000年代に入ると,中国との「小三通」(アモイ・金門間の直接往来等の解禁策)の拠点となり,国共対立の最前線から一転して,両岸交流の最前線へと衣替えすることとなった。

台湾の友人たちに金門島のイメージを聞いてみたら,「兵役で行くところ」「東南アジアで成功した企業家を生んだ華僑のふるさと」「古い閩南(福建省南部)式の建築がよく残っている」といった答えがかえってきた。中華民国福建省(*金門島と馬祖列島のみから成る)への好奇心もあり,連休を利用して来台した連れ合いとともに行ってみることにした。

1日目は台北・松山空港から9:25発の復興航空のプロペラ機に乗り,約70分で金門へ。空港から直に観光に出るつもりだったのだが,荷物を置きにいったん宿に行くことにした。結果的にこれが大正解だった。

今回,私たちが泊ったのは,島の西南部にある珠山集落の「漫漫民宿」。金門では,行政(国家公園)の主導下で,古くから残る閩南式の建物を保存・修復して民宿にする動きが広がっており,すでに60軒以上の古民家民宿がオープンしているという。私たちの宿も,100年以上の歴史を刻んだ建物だ。

タクシーで珠山集落に着いたとたん,そのたたずまいの美しさに息をのんだ。ため池を囲むように,柔らかな色合いの煉瓦造りの建物が,優雅な曲線を描いた低い屋根を並べている。台湾のどこでも見たことのない,シンプルで均整のとれた風景だ。


ため池を抱くように広がる珠山集落

何棟もの「古厝」から成る漫漫民宿
民宿の共有スペース。1泊目はこの空間を独占した。

 宿のマネジャー・黄さんが,さっそく部屋に案内してくれ,観光プランの相談にものってくれた。当初の私たちの予定は,2日を金門観光に,1日を対岸のアモイへの日帰り観光にあてるというものだった。これを聞いた黄さんが「週末のアモイは混雑していて勧められない。金門島をゆっくり楽しむほうがいい」と言って勧めてくれたのが,「県営観光バス」の利用だった。

島内には,観光バスが4路線走っており,それぞれ,複数の観光地を4時間弱で回れるようになっているという。まずは試しに乗ってみよう,ということになり,13:30金城ターミナル発のB線「古寧頭戦場線」に乗ってみたら,これが予想外に面白かった。これは,4路線のなかで最も「戦跡めぐり」色の濃いハードボイルド系のコースで, ①「金城民防坑道」の体験歩行(金門の市街地には,戦闘時の避難用に地下トンネルが張り巡らされている。そのトンネルを歩く),②和平記念園区(古寧戦史館,中国を間近に望む北山海岸の見学),③慈湖トーチカの見学,という内容だったが,盛りだくさんで面白かった。

というわけで,すっかり味をしめた私たちは,「1日目午後=B線,2日目午前=C線,同午後=D線,3日目午前= A線」と,観光バスの全路線を制覇することとなった。

このバスに乗って回ります。
この県営観光バスは,日本語のガイドブックやネット上ではあまり紹介されていないようだが,金門旅行を考える人には,ぜひお勧めしたいと思う。案内は中国語のみだが,ガイドさんは外国人の乗車にもある程度慣れているようで,中国語を解さないドイツ人カップルもツアーを楽しんでいた。ターミナルで,路線ごとのスケジュールが記されたパンフレットが手に入るので,集合地点とバスの出発時刻さえ押えておけば,中国語のできない人でも問題なく一行について回れると思う。

いずれの路線も,金門の観光資源である戦跡見学と伝統建築・集落見学が組み合わされていて,見応えがある。駆け足での見学なので慌ただしく,どこに行っても後ろ髪を引かれる思いで早足で立ち去ることになるが,見所の多い島内を効率的に見て回れるのは間違いない。

移動の足を心配する必要がないのも有り難い。島内の路線バスは本数が少ないし,タクシーを借り上げるのは高くつく。中国語が分かる人なら,バスの中ではガイドさん,博物館等では解説員の話を聞けるのも楽しい(もっとも,戦闘関係,歴史関係の解説の中国語は,私にはチンプンカンブンだったが・・・)。ガイドさんからは,両岸の軍事的緊張の緩和とともに島内の軍人の数が減っており,政府は軍人に変わる金門の収入源の確保策として大学の誘致(複数の台湾の大学が,中国人留学生の獲得を目的に金門にキャンパスを設置することを計画しているらしい)や観光業に力を入れていること,金門の学校には中国で仕事をしている台湾人企業家の子どもが多く通っていること,などを教えてもらった。

驚かされるのが値段の安さだ。2路線に乗れるチケットが200元(700円),2人だと2割引きになるので,4時間近い充実した観光を,80元(300円弱)で楽しめる。見所の多くがきれいに整備され,入場無料であることも含めて,金門県が(そして中華民国政府が),この島の振興策として観光産業に多大な資源を投じていることに驚いた。

見学箇所のうち,つまらないと感じたのはD線の「自行車故事館」(自転車博物館)だけで,あとはどこも興味深かった。そのなかでも特に印象に残ったところを挙げると,まず,A線の水頭集落。金門は,南洋移民をたくさん輩出した「僑郷」。この村には,成功した華僑が故郷に建てた小学校や,美しい洋館が多数ある。華僑の歴史や洋楼の建築様式についての解説も豊富で,勉強になった。

南洋で成功した華僑が故郷に建てた小学校。

手前はミンナン式,奥は洋楼になっている。

洋楼の窓から。屋根が美しい。
観光のもう一つの目玉は,軍事施設・戦跡めぐりだ。なかでも,かつての軍事秘密基地だった翟山坑道のスケールの大きさと神秘的な地下水路が特に印象深かった。

ガイドさんは,中国の若い観光客から「台湾はどこと戦ったの?」と聞かれることもあるという。

しかし,個人的に最も印象に残ったのは,D線の「特約茶室展示館」だった。最初,パンフレットをみた連れ合いと私は,「なんで金門まできて,茶室を見せられるのか」と内心不満だったのだが,現地に着いてみて心底驚いた。特約茶室とは,なんと軍がもうけた慰安所のことだったのだ! 

金門に軍の慰安所「軍中楽園」が設立されたのは1951年。後に「特約茶室」と名を改め,1990年に廃止されるまで続き,金門島だけでも11箇所の特約茶室があったという。この展示館では,「特約茶室」の歴史を紹介しており,実際に使用されていた部屋も見学できる。後で調べてみたところ,「特約茶室」については,金門県政府から二冊の記録が出ているほか,未成年女子が働かされていたこと,女性たちが劣悪な環境に置かれていたことを詳しく論じたウェブサイト等もあった。今ではこざっぱりと整えられた「特約茶室展示館」だけからでは分からない,過酷な歴史を知ることができる。

1989年の「ウェイトレス(慰安婦)」の価格表。職種,職階ごとに大きく異なることが分かる。
かつて使われていた部屋が公開されている。
軍の慰安所についての記録を県政府がまとめ,施設を博物館として開放し,観光バスのルートのなかにいれる---。この展示館の建設や展示内容をめぐってどのような議論や意志決定のプロセスがあったかも興味深いが,何より印象に残ったのは,事実として存在したものを歴史として記録し,人々の記憶にとどめようとする姿勢だ。軍の島・金門の深い影を覆い隠すのではなく,それをも観光資源として位置づけようとするその姿勢(この主語は,中華民国(台湾)ということになろう)に,不思議な感銘を覚えた。帰り際,ガイドさんに「日本にこういう記念館はあるの?」と聞かれ,「いえ,ないです」と答えながら,なんとも複雑な思いが心をよぎった。

3日目は午前に観光バスに乗ったあと,おいしい牡蠣めんと広東粥の昼食を食べ,金門一の繁華街・金城の街をぶらぶら散策した。古い路地がくねくね走る旧市街をあてどなく歩いていると,突如,荒れ果てた洋楼に行き当たった。金城は,歴史の記憶が幾重にも折り重なった魅力的な街だ。


金城の街には古い洋楼が自然に溶け込んでいる。

対岸の中国領の島は,実際にはこの写真よりだいぶ大きく見える。


歴史的には対岸のアモイと極めて密接な関係にありながら,中国の内戦によって大陸とは異なる歴史を步むこととなった金門。こんにちの「台湾」の一部であるが,日本の植民地統治を受けておらず,台湾本島の人々とは異なる歴史を持つ金門の人たち。目と鼻の先に中国大陸を控えるこの島の人たちは,「閩南人」であるけれども,台湾の文脈でいう「本省人」とはまた異なるアイデンティティや歴史認識を育んできたのだろう。

中華民国在台湾が,このような異質な歴史を刻んできた土地をそのなかに抱えていることに驚きつつ,金門を後にした。