2012年7月26日木曜日

迪化街での出会い:そぞろ歩き篇

社会学研究所の友人が,迪化街にもうひとつの仕事場を構えたという。仕事帰りに彼のオフィスに遊びにいき,夕暮れ時の迪化街を案内してもらって,この町の美しさに胸をうたれた。晴れた昼間の街並みも眺めたいと思い,週末に,写真をとりながらゆっくり歩いてみた。

威風堂々とした迪化街の街並み

台北は,西から東に向かって発展してきた町だ。観光やショッピングの最前線も,町の西側から忠孝東路・敦化南北路周辺の「東区」へ,さらには台北101周辺の「信義エリア」へと,東に向かって伸びてきた。

しかし,台北の町の本当のおもしろさは,町の西側にこそあると思う。なかでも迪化街を中心とする大稲埕エリアは,清朝時代から日本統治期を通じて台湾の商業の中心地として栄え,戦後は布問屋の集積地として繁栄したエリアで,日本・台湾・西洋の色合いが複雑に交錯し,レトロな美しい建築と懐かしい生活のにおいが入り交じった大変魅力的な街だ。ここを歩かずして台北の町の魅力は語れまい!

大稲埕歩きのメインイベントは,乾物屋の立ち並ぶ迪化街に沿っての散策である。通りに漂う漢方薬の香りをかぎながら店先に並ぶ茶葉やからすみを眺めるだけでも楽しいのだが,ここでの楽しみは建物見物にある。凝ったファサード,華麗なバロック式装飾,より新しい時代のシンプルな建物の輪郭といった,異なる時代から受け継がれてきた建築様式を見比べながら町を歩くのは実に楽しい。



いずれも現役の商店。
立派なファサード。屋号,家紋といったものは日本統治期に台湾に持ち込まれたという

一階は雨や日射しをよけて歩けるアーケード(「亭仔脚」)になっている


迪化街と直交する「歸綵街」にも乾物屋や食品店が集まっているが,華麗な建物が並ぶ迪化街とは違ってこちらはぐっとくだけた雰囲気だ。

大型扇風機でにんにくを乾かしていた(歸綵街)

迪化街の小さなランドマーク「霞海城隍廟」も必見だ。ここは縁結びで有名なお廟で,夕方や週末には若い男女が熱心にお参りしている姿が見られる。日本の雑誌でも紹介されたらしく,熱心に拝んでいる日本人女性のグループもいた。

縁結びで有名な月下老人がまつられている。


「2011年2月に日本演歌女王・小林幸子が縁結び祈願に来訪」「同年8月に8歳年下の熟男と結婚!」という新聞記事が。


「霞海城隍廟」の隣の「永楽市場」は台湾最大の布専業市場。小さな布問屋や仕立屋がぎっしりと軒を並べており,さながら迷宮のよう。

永楽市場は布のワンダーランド!
 
さて,迪化街には,ゆっくりくつろげる喫茶店やしゃれたお土産を買える場所が少ないのが,観光客の悩みの種だった。しかし,歩き疲れた迷える旅人にぴったりの新しいスポットができた。友人が連れて行ってくれた「永楽市場」の向かいにある「小藝埕」と,「霞海城隍廟」の三軒隣にある「民藝埕」だ。この二つのスペースには,たいへん魅力的な布製品・工芸品・本の小さなお店や,演劇スペース,喫茶店等が入っている。私はいっぺんでこの二つの空間のファンになってしまった。一歩足を踏み入れただけで,お店を営む人の情熱が伝わってくる。それでいて,決して押しつけがましいところのない,ゆったりとした雰囲気の気持ちのいい店が集まっている。

友人の研究スペースがあるのは,なんとこの「民藝埕」の3階である。そして,この「民藝埕」のなかを案内してもらうなかで,私はここを舞台に進行中のおもしろい冒険の舵取りをしている起業家兼社会運動家と出会うことになった。

この出会いについては次回の投稿で書くことにしたい。


友人の研究スペース 民藝研@民藝埕

くつろげる空間でもあり,集中できる空間でもある(@民藝研)

鰻の寝床状の細長い建物のなかでは,「外」と「室内」が緩やかにつながっている。@民藝研。

というわけで,この号は次回につづきます!

2012年7月18日水曜日

緑の空中散歩:猫空ゴンドラ初体験

先日,台北の南の外れにある政治大学に行ったとき,キャンパスから見上げた山の稜線に沿って,たくさんの小さな箱形車両が真っ青な空に吸い込まれるようにすいすいと上っていくのが見えた。「猫空ロープウェイ」だ。日射しを浴びて輝くその姿を見ていたら,矢も盾もたまらず乗りたくなった。


気候が崩れるとすぐに運休になるので,ぜひ天気の安定した日に


2007年に完成した猫空纜車は,台北MRTシステムの一部だ。山麓の「動物園」駅と,山頂の「猫空」駅を約20分で結んでいる。猫空はもともと観光茶園で有名な地区で,台北市内からの近さもあって,週末になると食事とお茶を楽しもうとする人々が押し寄せ,大渋滞が起きることで知られていた。その猫空に,ロープウェイで行けるようになったのだ。

ゴンドラが開通して以来,台湾の友人たちに「猫空纜車に乗った?」と聞かれたことは数知れず。しかし,ここ数年は出張でしか台北に来ていなかったため,まだ一度も乗ったことがなかった。それどころか,ゴンドラの発着駅に隣接した東アジア有数の動物園・台北市立木柵動物園にもまだ一度も足を踏み入れたことがない。そこで,先週末の晴れた休日に,まとめて二つの初体験をしてみることにした。


ゴンドラの車両には「一般車廂」と,床がガラスでできている「水晶車廂」の二種類がある。せっかくの機会なので,今回は人気の「水晶ゴンドラ」をネットで予約した。予約表を打ち出して受付に持っていき,チケットを購入して乗車する仕組みだ。週末はやはり混むようで(*ネット予約する分には費用がかからないので,ひとまず席を押えてしまう人も多いのだろう),金曜の夜に土曜の席を予約しようとしたらすでにかなり埋まっていた。



「故障多発につき (-_-;)」(Wikipedia「猫空ロープウェイ」)毎週月曜はメンテ日。

「木柵動物園」駅を出ると,ゴンドラは山裾に沿って高度を上げていく。最初の停車駅は「動物園内駅」だが,けっこうな距離を移動したように感じるのだから,木柵動物園のスケールの大きさが分かる。

動物園内駅を出ると,ケーブルカーは一気に高度を上げていく。このあたりから,足元が透明な「水晶ゴンドラ」の魅力が存分に味わえる。

足元に広がる緑のじゅうたん




ウォンカーワイの映画『欲望の翼』の最後の幻想的な緑のシーンを思い出す

小さな箱に閉じ込められて高いところに吊り上げられていく感覚はなかなかスリリング。けれども,真下に見下ろす山の緑の美しさには思わず息を呑んだ。目を凝らすと,緑の濃さのなかにも,黄みがかった柔らかい緑から,青みがかった深い緑まで,様々な色合いが広がっていることがよく分かる。谷に沿って,不気味なシダ類が大きな葉っぱを伸ばしているしているとろもあれば,モコモコとした柔らかそうな枝がブロッコリーのように生い茂っている一帯もある。微妙な起伏に沿って,緑のグラデーションが足元に広がっていく。


動物園内駅を出たあたりから急勾配になる
ゴンドラは深い谷を越え,「方向転換駅」を経由し,指南宮駅を通って,終点の猫空駅へと向かった。足元に茶畑が見えてくるともう終点が近い。


これが水晶ゴンドラ@猫空駅


さて,勇んで降り立った猫空駅だが,目を刺すような直射日光が照りつけており,気温はおそらく35度を越えていて,とても歩き回る気にならない。今日の猫空行きはロープウェイを楽しむことが目的と割り切って,駅近くの茶芸館で昼食を食べ,そそくさと下りのケーブルカーに乗った。

下りの「方向転換駅」



帰りは終点の一つ手前の「木柵動物園内」駅で下車して,木柵動物園を見物した。ここも暑く,休日の人混みのなかで大汗をかいたが,丘陵をうまく活かしてつくった園内は緑が豊かで気持ちがよかった。コアラ,パンダといった定番の人気動物も楽しめたが,個人的には,台湾の固有種を紹介する「台湾動物区」や蝶の温室がみごとな「昆虫館」といったマニアックな展示が,人も少なく,ゆっくり楽しめた。

台湾は蝶王国。真っ黒になったバナナに群がる蝶たち。

中国から台湾に送られたパンダ。定番のお昼寝姿。
クロネコヤマトがパンダのために花蓮や台東からおいしい竹を運んでいるそう

動物園なのに,なぜか植物園のような「シダコーナー」があった
帰りは,動物園のすぐ隣の駅からMRT木柵線に乗れば,15分ほどで市内の中心に戻れる。

うーん,やるなぁ,台北MRT。地下鉄を整備して台北に交通革命をもたらしただけではなく,近郊の観光地・猫空にロープウェイを建設し,それを動物園という古くからの資源ともうまく結びつけて,人々にこんな新しい休日の楽しみを提供していたとは。

MRTができるまでは,淡水や猫空といった近郊の観光地に行くにも,混雑したバスに長時間揺られていくか,誰かのバイクの後ろに乗せてもらうしかなく,帰りの渋滞や天気を気にしなければならない不便さがあった。日本人どうしで,「台北って娯楽砂漠だよねぇ」「カラオケボックスが流行るわけだわなー」と台北っ子に大いに同情したものだった。

しかしいつのまにか台北には,こんな手軽で素敵な楽しみが出現していたのだ。そのことを嬉しくも,羨ましくも思った一日だった。


動物園から忠孝復興駅までは15分。忠孝復興交差点のGalaxyIIIの広告,めだってます

2012年6月30日土曜日

本当に,住みやすくなった:台北の交通革命

15年ぶりの台北生活も今日でちょうど3ヶ月。到着直後のワクワク・ドキドキした気持ちは薄らいできたが,観光ビザの上限を超える日数をこの町で過ごしたことで,旅人が触れる表の「顔」だけではない,生活を支える町の骨組みの部分も含めて,台北の今のすがたが少しずつ見えたきたように思う。


この間,私と同じように10数年ぶりに台北で暮すことになった日本人と話をする機会が幾度かあったが,そのたびに「台北は本当に暮しやすくなりましたよね!」という話で意気投合した。そう,台北は「本当に」暮しやすくなったのだ。


緑陰が恋しい季節になった。




15年前に台北に住んでいた時にも,よく台湾の人たちに「台北は暮しやすい町でしょう?」と言われたものだった。私は「ええ,そうですね」と相づちをうちつつ,心の中では「暮しやすいけれど,暮しにくい」とつぶやいたものだった。友人の親切と見知らぬ他人の善意に恵まれて,台北での生活はおおむね快適だった。
けれども,生活をする上では様々な不満とストレスがあった。その最大のストレスの源は交通インフラの悪さにあったと思う。

なぜバスの運転手は,子どもを連れた母親がまだ乗りかけているのに,お年寄りが車道を歩いているのに,平気で発車するのか?なぜ人々は,バスが到着するといっせいに走り出し,人を押しのけて乗車口に殺到するのか?なぜタクシーの運転手は強引な割り込みを繰り返し,私が外国人だと分かると遠回りをしたり,夜間料金ボタンを押したりするのか? バスやタクシーに乗るたびに不愉快な思いをし,好きな人の見たくない一面をむりやり見せられるような苦痛を味わうことが多かった。

あとから振り返れば,1990年代半ばの台北は,まさしく「交通暗黒期」と呼ばれる最も悲惨な状況のさなかにあったのだと思う。交通量は右肩上がりに増え,MRTの工事のために幹線道路は渋滞し,ハンドルを握る人々は殺気立っていた。交通事故を目にすることも多かった。


MRT忠孝復興駅にて。


15年を経て,台北の交通事情は革命的に改善され,今や東京よりも便利になった。最大の変化はいうまでもなくMRTの開通だ。地下鉄と地上交通システムの組み合わせによって,元からコンパクトで機能的な台北の町が効率的なネットワークとして組織化されたことによって,利便性が飛躍的に向上した。

思うに,MRTの開通は,1970年代以降の急速な経済成長のなかで蕾を膨らませつつあった台北の都市文化の開花を抑えつけていた最後のボトルネックを解き放ったのだろう。この交通革命は,驚くべき勢いで人々の行動パターンを変え,消費生活を変えていくこととなったのだ。 

毎日の通勤にMRTを使うなかで驚かされるのは,台北市民のMRTの乗車マナーの良さだ。整列乗車はお手のもの。駆け込み乗車をする人も少ない。席の譲り合いという点では,明らかに東京よりモラルが高い。お年寄りや妊婦が乗車してくると,譲り合いの輪のようなものが生まれて,席を必要とする人がちゃんと座れるように皆が気を回し合う。15年前のバスの中では見かけなかった光景だが,いつ渋滞に巻き込まれるか分からないバスとは違い,MRTでは「到着駅まであと何分」と予測できるので,安心して席を譲れる心の余裕が生まれたのだと思う。

(でも,バスの乗車習慣の名残からか,乗車すると入り口で立ち止まって中につめてくれないのは困るなぁ。降車客の多い駅では,ドア付近の乗客は踏ん張らないで,いったんホームに降りたほうがありがたいんだけれどなぁ。)


最新のMRT路線図。まだまだ発展中,秋には新たな開通・延伸が予定されている ☆


台北の車体広告は総じてカラフル。最近は「まるごとGalaxy III」地下鉄をみかけます

都市交通というのはネットワークだからして,その一部で劇的な変化が起きると,それがあちこちに波及して全体が急激に変わっていく。

まず,MRTと競合することとなったバスの世界が変わった。車体が上下に跳ねる乗り心地の悪さは相変わらずだが,また日本ほどの安全運転は期待できないが,運転手のマナーがぐんと向上した。マイクで次の停車場を告げ,降車客には「謝謝」と言う。無理な幅寄せをしたり,バス停が近づくと走っている途中でドアを開けてしまうような運転手も減った。乗客のほうも,MRTの影響からなのか,運転手のマナーが変わったことの効果なのか,以前のように乗車口に向かってむやみに走ることをせず,周りに配慮しながら乗車するようになった。バスにGPSが付いて,一部のバス停では電光掲示板に「あと何分で○○番のバスが到着します」という案内が流れるようになったのにも感激。スマホユーザーなら,アプリを使ってバス停への到着時間を調べることができる。

タクシーも変わった。もう,遠回りや深夜料金ボタンを気にする必要もほとんどない。かつては日本からお客さんが来ても,一人でバスやタクシーに乗せるのは不安なので,ホテルに迎えに行き,ホテルまで送り届けていた。今では,安心して一人で行動してもらえる。



車体もきれいになり,運転手のマナーも向上した


交通革命は,消費文化の開花も引き起こした。毎日のように雨が降る台北で,泥はねをよけながら長時間バスを待ったり,送り迎えをしてくれるボーイフレンドのオートバイの後ろにまたがったりしなくてもよくなったことで,女性がおしゃれや化粧を楽しむようになった。MRTの開通とともに,地下街が誕生し,若者で賑わう店が集まるようになった。

交通インフラの改善が,人々の物質的な生活水準を引き上げるだけではなく,人々の行動にゆとりをもたらし,秩序と配慮のある空間を創り出し,それを共有する人たちのあいだに目にみえない連帯感と誇りを生み出すものであることを,私は15年ぶりに台北に住んでみてはじめて知った。都市のハードウェアはソフトを規定し,変えていく力をもっている。頭では分かっていても,実際に目にするとその力の大きさに驚かされる。

あの頃,「台湾の人は列に並ばない」「知り合いには親切でも,見知らぬ他人には不親切だ」と言っていた人たちに(白状すれば,あの頃は私もかなりそう思っていた・・・)今の台北のこの様子をぜひ見てもらいたい。

今の私は,「台北は住みやすいでしょ?」と尋ねられたら,「はい」と心の底から答えることができる。台北は,本当に住みやすくなった!


MRT南港駅の構内アート。人気絵本画家ジミーの「不気味かわいい」作品。


2012年6月16日土曜日

cafe philoのこと:政治,政治家,政治参加

一ヶ月ほど前のある晩,行きつけのコーヒーショップで,「鶏もも肉の香草焼き定食」を食べていたら,入り口から制服をきた女子高生たちがドヤドヤと入ってきて,地下のサロンスペースに降りていった。むむ!あの特徴的な深緑色のブラウスをきた女子高生たちは,台湾随一の名門高・台北一女の生徒たちに違いない。しかし,なにゆえ,夜の7時にこんなところに現われたのだろう?


cafe philoの入り口付近


慕哲珈琲(Cafe Philo)というこのコーヒーショップのオーナーは,野党・民主進歩党の鄭麗君・立法委員夫妻である。ある時,社会運動に深く関わっている友人と話をしていて,「よく行くコーヒーショップで,おもしろい文化イベントをやっている」という話をしたところ,その友人がオーナーと旧知の間柄であり,その店の経営にも間接的に関わっていることが判明した。それ以来,いっそう足繁くCafe Philoに通うようになった。


鄭麗君さんは,哲学の勉強のために留学したパリで,フランスのカフェ文化と出会い,人々が公共的な話題について語り合う場を台湾にもつくりたいという思いから,この店を開いたという。実際,この店には,台湾大学近辺の喫茶店にも共通する文学と哲学と政治の香りがある。壁にはグラムシやカミュの名言が記された大きな布が飾られ,レジの周りには,各種の文化,政治イベントのちらしが置かれている。



紹興北街・忠孝東路口からほど近い。

とはいっても,この店にとっつきにくい雰囲気はみじんもない。開放的なつくりの,居心地のいいカフェで,誰でものんびりくつろげる。客のほとんどは,近所のオフィスで働く人々や住人たちだ。
特徴があるのは,女子高生たちが降りていった地下のサロンスペースのほうだ。ここでは毎週金曜日に「哲学の金曜日」という哲学イベント(?!)が行われているほか,各種の討論会や新書発表会等の催しが頻繁に行われている。


星期五というのは金曜日のこと



そして今日からは,鄭麗君議員事務所が主催する連続座談会 「国会の大きな声,小さな声:けれどもあなたの声が足りない(國會大小聲:就缺你的聲音)」が始まり,その第一弾として,近年の台湾で大きな議論を呼んでいる義務教育の12年制をめぐる座談会が行われるのだという。パネル参加者は,鄭議員のほか,教育関係のNGOの役員たち,反・12年国民教育学生連盟のメンバーで建国國中(高校)の生徒の洪さん,台北一女の生徒の蔡さん。



店の前のポスター。いつも思うのだが台湾の各種イベントのポスターはよくできている。



国会議員を含む3人の大人と,2人の高校生が,教育改革について議論する!これはおもしろい,行くしかない! と勇み立ったのだが,そもそも今日ここで夕食をとることにしたのは,せっぱつまった仕事がまったく終わっていないからである。ここで2時間半も寄り道をしていいはずはない。その日はすごすごと引き上げた。

翌週のトピックは「独身公害?愛情公害?人生の選択と多元的なジェンダー」。これまたなんとしても聞きたいテーマだったが,仕事の泥沼がさらにグツグツ煮立っていたため,泣く泣くパス。

というわけで,三度目の正直が実現したのが,先週木曜日のことである。この日の討論テーマは「命は平等不平等? 動物の権利と動物保護を語る」。正直,私としては4回の討論会のなかでいちばん関心の薄いトピックだが,行ける時に行かないと機会を逃すと思い,参加した。ただ,事情により,2時間半のイベントのうち初めの1時間半しか参加することができなかった。見聞録としてははなはだ不十分なものだが,会場に身を置くことで感じたものは少なくなかった。

この日,集まったのは20-30人ほど。入場無料なのに,ケーキとキッシュ,コーヒーと紅茶がふんだんに用意してある。

4人のパネラー(真ん中は司会者,左端が鄭議員)。



パネラーは,鄭議員と動物虐待防止,野良犬・野良猫保護活動等をしているNGOのメンバーら。活動に関わるようになった経緯や,活動のなかで直面している問題,政治に望むこと等をめぐって議論が繰り広げられた。後からこの日の記録をフェースブックで見たが,私が退出した後にはフロアとの活発な意見交換が行われたようだ。このような小さな場で,おそらく集票にはほとんどつながらないであろう動物の権利というイシューをめぐり,「政治や行政にできること」について,政治家と社会運動家,一般市民が議論を繰り広げている光景には感じるところが多かった。

正直,今の台湾が直面する政治・社会問題の数々に比べて,動物の権利というテーマはどれほど重要なものなのかと懐疑的な気持ちで参加したのだが,真摯な使命感を持って活動をしている運動家たちの話は,胸に迫るものがあった。不要な動物実験,人間の都合で消費され捨てられる犬や猫,苦しくない安楽死をさせるのは費用がかさむため,全く安楽ではない「安楽死」をさせられる動物たち,虐待やネグレクトを受ける動物たちの悲惨な現実。当事者(当事犬猫?)が声をあげられない苦しみについて想像力を働かせ,人々の意識と行政や政治を変革しようと行動する姿に,敬意を覚えた。

また具体的な問題提起として,台湾の動物保護行政の主管組織が農業委員会畜牧処動物保護科であること,動物を経済資源として扱う畜牧処の下で,ごく限られた人数で動物保護行政を行っていること自体が大きな限界であることが指摘された。


報告のようす。

動物の権利について運動をしている人たちはみな,「人間の権利だって満足に守られていない世の中なのに,何が動物の権利だ」という嘲笑を受けるという。ともすれば,私も同じようなことを言いかねないと思う。

しかし,広く共有されていない問題についてこそ,直接話を聞き,実態を知ることで新しい視点を得ることができるものなのかもしれない。少なくとも私は,この座談会のあと,これまで脳天気な目で見ていた野良犬に対して複雑な思いと関心を抱くようになったし,中央研究院の動物実験センターの横を通るたびに,そのなかで何が行われているのか気になるようになった。


さて,連続座談会の最終回は「都市の記憶:再開発か忘却か? 都市再開発と文化資産の保存を語る」。実はこれは今の台北では大変にホットなトピックで,今回のブログでもこの座談会の様子を中心に「國會大小聲」のことを書くつもりだった。フェースブック上でこの会への参加を表明した人は,前々日の段階で200人強。
早くいって場所をとらなきゃ。でも,外国人である私が,現実を変革できる選挙権を持つ台湾の人々の場所を奪ってはいけないよなあ・・・でも盛り上がるだろうからやっぱり行きたいなぁ・・・と迷っていた。


団結をアピールする民進党議員たち(鄭議員のフェースブックページよりDL)。


が,残念ながらそんな迷いはひとまず不要になった。立法院での「添加物入りアメリカ産牛肉輸入解禁」問題で,民進党をはじめとする野党が立法院の議場を占拠すべく120時間動員をかけ,鄭議員も議場に泊まり込みをするため,cafe philoでの集まりも延期になってしまったのである。


ニュースを通じて泊まり込みの光景をみていると,なんだか大学生の合宿か学園祭のようだ。最終日には,とある民進党の議員が,同僚たち全員の寝姿を激撮したということで,その画像がメディアで公開されていた。鄭議員も,しっかり寝顔を撮られていた(-_-;)。

cafe philoで繰り広げられる密度の濃いコミュニケーションも,立法院での肉弾戦や議場への泊まり込みも,いずれも政治という怪物的な営みの切り離せない一面なのだろう。


夜の部(段宜康議員)。


昼の部 (鄭議員のフェースブックページより)。

2012年6月6日水曜日

自由広場にて:23年目の「六四」

いったいいつ頃からなのだろう,私にとって6月4日が「気がついたら過ぎていた」普通の日になってしまったのは。1989年の6月はあんなに悲しく苦しかったのに。

6月の緑:台湾大学法学院


私は,天安門広場で命を奪われた学生たちと同じ世代だ。同じ年頃の中国の学生たちが,無残に殺され,生き延びるために国を離れていく姿に,涙を流したあの時代の日本の若者の一人だ。

だが,六四の衝撃は極めて大きかったけれども,それは私にとってはあくまでも「よその国」で起きた不幸な悲劇でしかなかった。あの頃の私は,友人たちとの小さな世界と,まもなく足を踏み入れることになる「社会」への期待と不安で頭がいっぱいだった。

もし中国に生まれていたら,あの夜,私は天安門広場に立っていたかもしれない。そう考えたことは幾度もあるが,それは実際には起こらなかった「もしも」の話でしかなかった。そして,いつしかあれから5年,10年が経ち,今年は23年目になるという。もう,あの年のあの夜,私がどこで何をしていたのか,天安門広場で起きたできごとをどうやって知ったのかを思い出すこともできない。





6月4日の夜7時から,天安門事件二十三周年集会が中正紀念堂の自由広場で行われると聞いて,出かけてみた。

台北の六四集会はささやかなものだった。台湾の集会につきものの派手なパフォーマンスはない。自由広場の入り口に,「台湾人権促進会」「華人民主書院」(「台湾青年反共救国団」のもう「青年」ではない方々の姿も)といったグループがテントを張ってグッズやパンフレットの販売をしており,その前に組み立てられたステージで,演説や演奏が代わる代わる行われる。小雨のなか,集会にやってきた人は300-400人ほどだろうか。参加者の大部分は若者で,特に大学生の姿が多い。香港の学生たちも少なくないようだ。あちこちから広東語が聞こえてくる。



会場前方のスクリーン


台湾のこの手の集会の常で,19時に始まった集会は,音楽演奏といった出し物をはさみながら2時間以上も続いた。私は集会前半に30分ほど立ち見をして,いったん会場を離れ,終了まぎわにもう一度,30分ほど立ち見をした。ややタイミングが悪く,二度とも,演説の時間帯よりも,その幕間の音楽演奏のほうを多く聞くこととなった。




1990年代半ばの台北滞在時,自分と同じ20代後半の台湾の友人と天安門事件の話をして,台湾のアイデンティティ,民主主義,自由といった価値に極めて強いコミットメントを持つ彼が,6.4の話になると不思議に冷淡だったことを思い出す。私は驚いて,「私たちと変わらない世代の,似た境遇の人たちの悲劇なのに!」となじるように訊ねたが,彼は「中国はよその国だからね」と苦笑いして多くを語らなかった。

今になって,1989年の台湾ではメディアを通じて「祖国の若者の苦難」「同胞の悲劇」として天安門事件が伝えられたこと,台湾アイデンティティを模索してきた彼らの世代が,六四との距離をはかりかねていたであろうことが,おぼろげながらも理解できる。

彼にとっての六四の記憶は,押しつけられた「祖国・中国」と自分を引き離そうとする時に皮膚に突き刺さった棘のようなものだったのかもしれない。今の私にとっての六四は,たまたま豊かで自由な社会の側に生まれおち,バブルの時代に何不自由ない学生生活を送ることができた自分と,未来を永遠に奪われた中国の若者との運命のめぐりあわせを考えるときに感じずにはいられない後ろめたい思いの古いかさぶたのようなものだ。


学生たちのバンド演奏

今日,この広場に集まった人たちのなかに,彼や私のような40代の姿はほとんどない。ここにいる若者たちの大半は,天安門事件が起きたあとに生まれた世代なのだ。

会場で聞いた学生たちの宣言や,主催団体のホームページ,手渡されたパンフレット等からは,主催者である学生たちが,台湾の主権と「(台湾の)本土価値」を足場として,普遍的な価値としての自由・民主・人権に関心を寄せる立場から,23年前のこの事件に思いを馳せていることが伝わってくる。

   
          「統一か独立かといった政治立場にかかわらず,台湾人は自由,民主,人権という価値を
           ともに信じ,追求している。未来の台湾と中国の政治経済関係がいかなるものとなろ
          うとも,台湾人はみな中国の自由,民主と人権の人権に強い関心を抱かねばならない」

            「私は台湾人であり,台湾は私の国であり祖国である(中略)民主主義と自由こそが
            台湾人が頭をあげ胸を張り,世界から尊重されるよりどころなのであり,台湾人が誇り
             に思う大切な資産であり,台湾人が信じる価値であり生活のありかただ。」

(六四特刊 二十三週年
[香港教育学院会編輯委員會,台灣學生促進中国民主化工作會]より。)

台湾の主権と共有された価値観を空気のようにたっぷりと吸った新しい世代が育ち,台湾という社会との関わりのなかで六四について思いを馳せている。小雨のなか,小さな蝋燭を手に演説や音楽に耳を傾ける若者たちの姿に,あの年のあの夜からの時の流れを思った。


陽明山のカラーの花



2012年5月18日金曜日

「新生一號出口」にて:あるドキュメンタリー映画のこと

ドキュメンタリー映画を見ることの喜びはいろいろあるが,答えの出ない問いを投げかけられて,ポーンと外に放り出されたような気分を味わいながら帰途につくとき,ああ,今日はおもしろい映画をみたなーとしみじみ思う。昨晩は久しぶりにそんな気分に包まれて,こんがらがった頭を冷やしがてら,ぶらぶら歩いて家に帰ってきた。

行きつけの喫茶店で「新生一號出口 記録映画上映・座談」シリーズのちらしを手に入れたのは先週のこと。会場は「台湾の秋葉原」として知られる電脳街・八徳路の電器量販店の上にある『倉庫芸文空間』である。MRT忠孝新生駅の一號出口から徒歩2分」の場所が会場なのでこんな名前がつけられているが,ダブルミーニングのネーミングであろうことは,このしおりのデザインからも伝わってくる。



5/10~6/22にかけて,10作品を連続上映。


↓ この怪しい雰囲気が,よーしドキュメンタリー映画をみるぞ,という高揚感を醸し出してくれる。毎週木ないし金曜の19時開演。入場料は150元(約400円)。事前に電話受付をすると100元に割り引きしてくれるのが,気前いい。



車の振動なのか,上映中に建物が揺れる(気のせいかな??)のがちょっと怖い。



今日の作品は「一個人之島嶼的理想生活(ある人の島での理想の生活)」(監督:張永明・陳栄顕,2010年,83分)。観客は30人弱だろうか,20-30歳台の若者の姿が多い。

戒厳令下の台湾で,政治犯の収容所として人々に怖れられていた台湾の東の洋上に浮かぶ孤島・緑島の「新生キャンプ」に15年もの長きにわたって閉じ込められ,自由を奪われ,社会から隔絶された環境に放り込まれた経験を回想するある老人の語りを,カメラは延々と映し出す。

白色テロの時代を扱った作品のなかで,この物語が特異なのは,緑島に囚われた政治犯のなかから,写真撮影という特技を持つがゆえに,収容所の宣伝用写真のカメラマンとして引き立てられ,他の収容者たちとは異なる特権と一定の自由を与えられた人物に焦点をあて,その記憶を描き出していることだ。


上映会HP(http://www.wretch.cc/user/newlife001)より。


主人公が語る緑島の記憶は,複雑で,ねじれていて,見る者の一方的な解釈を容易には寄せ付けない。日本から専門書を取り寄せ,収容所のなかで撮影の腕を磨いたこと。家族を通じて楽譜やカセットテープを取り寄せ,歌を歌ったり,楽器をかなでたりした夕べの思い出。胸を締めつける郷愁のなかで耳を傾け目をこらした潮騒の音と満天の星。管理者と収容者が一体になって夢中で取り組んだという食事改善活動や,思想教育の授業中に試験問題を教えてくれた教師らのユーモラスな思い出。「煉獄・緑島」というイメージとは微妙に異なる不思議ないろどりに満ちた記憶が,とつとつと語られていく。

だが,それが主人公の長年にわたる苦しみの投影であることもまた明らかだ。収容所から帰還したあと,街でばったりでくわした親戚に「人違いだ」と避けられ,深い心の傷を受けたこと。世間の目をさけ,名前を変えてすごした日々のこと。収容所で自ら命を絶った人たちの姿を撮影させられた時の強烈な恐怖。当局側に取り立てられ,他の収容者たちに対して優越感を感じていたことをふりかえる時の胸のうずき。老人はその苦しみをも淡々と語っていく。

現在の主人公は,様々な資料を駆使して,今は取り壊されてなくなってしまった収容所の空間構造を再現しようと,図面を復元したり,緑島の克明な風景画を描いたりして日々を過ごしている。彼の緑島の空間への強いこだわりを駆り立てているのはどのような感情なのだろう?そもそも,彼にとって緑島の記憶とはなんなのだろう? 映画はそんな問いに答えを出すことはしない。

張永明監督(左),上映会企画者の林木材さん(右)。

ドキュメンタリー映画の上映会の楽しみは,上映後のトークにあると思う。私は山形国際ドキュメンタリー映画祭でそのとりこになった。

それじたいが独立した命をもつ映画は,見る者に委ねられるべきもの。作品ができあがった瞬間からその外側に立つことになる制作者が,作品の内側について語るのは不適切だ,という考え方もあるだろう。しかし私は,ドキュメンタリー映画上映会のおもしろさは,作り手と観客が交流し,観客どうしのあいだにもインタラクションが生まれるそのライブ感にもあると思う。

昨晩も,約1時間にわたる監督との活発なQ&Aが行われたが,そのやりとりから様々な刺激を受けた。印象的だったのは,監督が主人公と向き合いながら抱いた「この人はいったい何を言おうとしているのだろう」という問いに答えを出し切れず,その戸惑いを観客と分かち合おうとしている姿だった。ルポタージュやテレビのドキュメンタリー番組だったらおそらく解釈を示すであろう問いにあえて答えを出そうとせず,開かれた問いを見る者になげかけること。そしてその問いをめぐって,こんな小さな空間で,集まった人たちがそれぞれの考えを述べ合うこと。これぞ,ドキュメンタリー映画の醍醐味だ。

質疑応答の途中で,この映画のなんとも逆説的なタイトルにこめられた意味について監督に聞きたいなあと思いついたのだが,頭のなかで一生懸命,中国語の作文をしているうちにトークが終了してしまった。でも,今日のような場で,あの映画を共有した人たちに向かって話すのなら,たとえ途中で言葉につまっても,私の言いたいことが監督と他の観客に伝えられたような気がする・・・。

そんな気持ちを抱かされてくれるいっときの親密な閉じた空間を後に,「倉庫」の階段を下りて外に出れば,八徳路の電気街のネオンがやけにまばゆいのだった。

2012年5月11日金曜日

中央研究院の日々: その1 地理・環境篇

台北に赴任してはや6週間。市内で用事がある日以外は,受け入れ先である中央研究院社会学研究所の研究室に通う毎日である。調査が軌道にのれば,研究室の外での活動が増えていくことになるだろうが(ぜひそうありたい・・・),今しばらくは日本から持ってきた仕事と,新しい研究テーマに向けた準備(正確にいえば「準備の準備」)のため,オフィスにこもる日が続きそうだ。

中央研究院は,民国期の南京で設立され,台湾移転後,1950年代半ばから本格的な学術活動を再開した総統府直属の学術組織である。台湾ではたいへん権威のある学術機関だ。台北市東部の南港の広大なキャンパスには,物理,数学,遺伝子研究の研究所から歴史,経済学,民族学,社会学の研究所まで,合計30もの研究所・センターが点在している。


数理大道の椰子並木



とんがり葉っぱに気をつけて!



15年前には,ひどく渋滞するバスに延々と乗るほか市の中心部からの交通手段がなく,地の果てのように遠く感じられた中央研究院であるが,MRTができて飛躍的に便利になった。朝は,MRTで板南線南港駅まで行ってから5分ほどバスに乗り,さらに10分ほど歩いて研究所へ。帰りは,研究所の友人と南港駅までタクシーに相乗りして,MRTで帰宅する。

中央研究院を訪れる人の大多数は正門からキャンパスに入るか,南側の門からまっすぐに延びる椰子並木を歩くことになるだろうが,社会学研究所,政治学研究所(準備処),台湾史研究所等の入る「人文社会科学館」をめざすのなら,「中央研究院」の一つ手前の「中研新村」バス停で下車し,キャンパスの北側の門から入るルートがお勧めだ。

研究院路70巷を入って,「松園牛肉麺」(←ここの牛肉麺はスープがたいへん美味,ぜひお試しを!)の前を通り,正面にこんもりした林が見えてきたら左に曲がってキャンパスに入る。

ここを左に



キャンパス内を流れる四分渓

この流れにはたくさんの呉郭魚(ティラピア)が。台北のデパ地下で「いずみだい」という日本語シールが貼られて売られているのはこの魚だそう。

この小さな流れに沿って5分ほど歩き,最初の橋を渡れば,人文社会科学館の威風堂々たるビルが見えてくる。




敷地のいちばん奥にそびえたつ人文社会科学館

手前に見えるのは小さなお廟。ここだけは研究院の敷地ではないらしく,朝から地元の人たちが集まってのんびり世間話をしている。米国の一流大学帰りのスタイリッシュなPh.Dたちが抽象的な思弁の世界にたゆたう研究室の窓から,お廟の赤いぼんぼりと長椅子でくつろぐお年寄りの姿が見渡せるのがいい。

新装開店した「哲思軒cafe sinica」。改まったランチを楽しみたいときに。


人文館の裏手には,こんもりとした小さな山がある。中国語で「靠山」(山の近く)という言葉は,「後ろ盾,パトロン」という意味である。台風の季節には,傾斜地に近い建物ゆえの怖さを感じることもあるのかもしれないが,穏やかなこの季節に,山にもたれかかるようにして立つこの建物のなかにいると,まさしく緑の手に後ろから抱きかかえられているような安らぎをおぼえる。小山のふもとには,地元の農家の小さな畑があり,農作業をする人の姿が見える。

人文館の窓から



4月の第一週,この窓から初めて下の畑を見下ろしたとき,野菜畑の上を舞う蝶の群れが目に飛び込んできて,おもわず息を呑んだ。「てふてふ」という文字そのままに,山の斜面を吹き上げる風にのり,ひらひらと飛び交う,白い蝶,黄色い蝶。

外国からやってきた私たちは,「台湾には春も秋もない。暑い季節と暑くない季節しかない」と,気軽に言うけれども,柔らかな日射しのなかに無数の蝶の羽がきらめくこの風景が,春のものでなくてなんだろう?

ビルの正面側には,南港山系の山がそびえたつ。5月に入って,蝶の群れが姿を消すとともに,激しい夕立が降ることが多くなってきた。さーっと雨が通るたびに,木々の葉っぱがいっせいに裏返り,山肌がにわかに白くざわめく。
山襞がいくえにも重なり合い,稜線が空を複雑なかたちにきりとる南港の空を眺めていると,15年前の私には分からなかった台北の山々の美しさが心に沁みてくる。