2012年5月18日金曜日

「新生一號出口」にて:あるドキュメンタリー映画のこと

ドキュメンタリー映画を見ることの喜びはいろいろあるが,答えの出ない問いを投げかけられて,ポーンと外に放り出されたような気分を味わいながら帰途につくとき,ああ,今日はおもしろい映画をみたなーとしみじみ思う。昨晩は久しぶりにそんな気分に包まれて,こんがらがった頭を冷やしがてら,ぶらぶら歩いて家に帰ってきた。

行きつけの喫茶店で「新生一號出口 記録映画上映・座談」シリーズのちらしを手に入れたのは先週のこと。会場は「台湾の秋葉原」として知られる電脳街・八徳路の電器量販店の上にある『倉庫芸文空間』である。MRT忠孝新生駅の一號出口から徒歩2分」の場所が会場なのでこんな名前がつけられているが,ダブルミーニングのネーミングであろうことは,このしおりのデザインからも伝わってくる。



5/10~6/22にかけて,10作品を連続上映。


↓ この怪しい雰囲気が,よーしドキュメンタリー映画をみるぞ,という高揚感を醸し出してくれる。毎週木ないし金曜の19時開演。入場料は150元(約400円)。事前に電話受付をすると100元に割り引きしてくれるのが,気前いい。



車の振動なのか,上映中に建物が揺れる(気のせいかな??)のがちょっと怖い。



今日の作品は「一個人之島嶼的理想生活(ある人の島での理想の生活)」(監督:張永明・陳栄顕,2010年,83分)。観客は30人弱だろうか,20-30歳台の若者の姿が多い。

戒厳令下の台湾で,政治犯の収容所として人々に怖れられていた台湾の東の洋上に浮かぶ孤島・緑島の「新生キャンプ」に15年もの長きにわたって閉じ込められ,自由を奪われ,社会から隔絶された環境に放り込まれた経験を回想するある老人の語りを,カメラは延々と映し出す。

白色テロの時代を扱った作品のなかで,この物語が特異なのは,緑島に囚われた政治犯のなかから,写真撮影という特技を持つがゆえに,収容所の宣伝用写真のカメラマンとして引き立てられ,他の収容者たちとは異なる特権と一定の自由を与えられた人物に焦点をあて,その記憶を描き出していることだ。


上映会HP(http://www.wretch.cc/user/newlife001)より。


主人公が語る緑島の記憶は,複雑で,ねじれていて,見る者の一方的な解釈を容易には寄せ付けない。日本から専門書を取り寄せ,収容所のなかで撮影の腕を磨いたこと。家族を通じて楽譜やカセットテープを取り寄せ,歌を歌ったり,楽器をかなでたりした夕べの思い出。胸を締めつける郷愁のなかで耳を傾け目をこらした潮騒の音と満天の星。管理者と収容者が一体になって夢中で取り組んだという食事改善活動や,思想教育の授業中に試験問題を教えてくれた教師らのユーモラスな思い出。「煉獄・緑島」というイメージとは微妙に異なる不思議ないろどりに満ちた記憶が,とつとつと語られていく。

だが,それが主人公の長年にわたる苦しみの投影であることもまた明らかだ。収容所から帰還したあと,街でばったりでくわした親戚に「人違いだ」と避けられ,深い心の傷を受けたこと。世間の目をさけ,名前を変えてすごした日々のこと。収容所で自ら命を絶った人たちの姿を撮影させられた時の強烈な恐怖。当局側に取り立てられ,他の収容者たちに対して優越感を感じていたことをふりかえる時の胸のうずき。老人はその苦しみをも淡々と語っていく。

現在の主人公は,様々な資料を駆使して,今は取り壊されてなくなってしまった収容所の空間構造を再現しようと,図面を復元したり,緑島の克明な風景画を描いたりして日々を過ごしている。彼の緑島の空間への強いこだわりを駆り立てているのはどのような感情なのだろう?そもそも,彼にとって緑島の記憶とはなんなのだろう? 映画はそんな問いに答えを出すことはしない。

張永明監督(左),上映会企画者の林木材さん(右)。

ドキュメンタリー映画の上映会の楽しみは,上映後のトークにあると思う。私は山形国際ドキュメンタリー映画祭でそのとりこになった。

それじたいが独立した命をもつ映画は,見る者に委ねられるべきもの。作品ができあがった瞬間からその外側に立つことになる制作者が,作品の内側について語るのは不適切だ,という考え方もあるだろう。しかし私は,ドキュメンタリー映画上映会のおもしろさは,作り手と観客が交流し,観客どうしのあいだにもインタラクションが生まれるそのライブ感にもあると思う。

昨晩も,約1時間にわたる監督との活発なQ&Aが行われたが,そのやりとりから様々な刺激を受けた。印象的だったのは,監督が主人公と向き合いながら抱いた「この人はいったい何を言おうとしているのだろう」という問いに答えを出し切れず,その戸惑いを観客と分かち合おうとしている姿だった。ルポタージュやテレビのドキュメンタリー番組だったらおそらく解釈を示すであろう問いにあえて答えを出そうとせず,開かれた問いを見る者になげかけること。そしてその問いをめぐって,こんな小さな空間で,集まった人たちがそれぞれの考えを述べ合うこと。これぞ,ドキュメンタリー映画の醍醐味だ。

質疑応答の途中で,この映画のなんとも逆説的なタイトルにこめられた意味について監督に聞きたいなあと思いついたのだが,頭のなかで一生懸命,中国語の作文をしているうちにトークが終了してしまった。でも,今日のような場で,あの映画を共有した人たちに向かって話すのなら,たとえ途中で言葉につまっても,私の言いたいことが監督と他の観客に伝えられたような気がする・・・。

そんな気持ちを抱かされてくれるいっときの親密な閉じた空間を後に,「倉庫」の階段を下りて外に出れば,八徳路の電気街のネオンがやけにまばゆいのだった。

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