6月の緑:台湾大学法学院 |
私は,天安門広場で命を奪われた学生たちと同じ世代だ。同じ年頃の中国の学生たちが,無残に殺され,生き延びるために国を離れていく姿に,涙を流したあの時代の日本の若者の一人だ。
だが,六四の衝撃は極めて大きかったけれども,それは私にとってはあくまでも「よその国」で起きた不幸な悲劇でしかなかった。あの頃の私は,友人たちとの小さな世界と,まもなく足を踏み入れることになる「社会」への期待と不安で頭がいっぱいだった。
もし中国に生まれていたら,あの夜,私は天安門広場に立っていたかもしれない。そう考えたことは幾度もあるが,それは実際には起こらなかった「もしも」の話でしかなかった。そして,いつしかあれから5年,10年が経ち,今年は23年目になるという。もう,あの年のあの夜,私がどこで何をしていたのか,天安門広場で起きたできごとをどうやって知ったのかを思い出すこともできない。
6月4日の夜7時から,天安門事件二十三周年集会が中正紀念堂の自由広場で行われると聞いて,出かけてみた。
台北の六四集会はささやかなものだった。台湾の集会につきものの派手なパフォーマンスはない。自由広場の入り口に,「台湾人権促進会」「華人民主書院」(「台湾青年反共救国団」のもう「青年」ではない方々の姿も)といったグループがテントを張ってグッズやパンフレットの販売をしており,その前に組み立てられたステージで,演説や演奏が代わる代わる行われる。小雨のなか,集会にやってきた人は300-400人ほどだろうか。参加者の大部分は若者で,特に大学生の姿が多い。香港の学生たちも少なくないようだ。あちこちから広東語が聞こえてくる。
会場前方のスクリーン |
台湾のこの手の集会の常で,19時に始まった集会は,音楽演奏といった出し物をはさみながら2時間以上も続いた。私は集会前半に30分ほど立ち見をして,いったん会場を離れ,終了まぎわにもう一度,30分ほど立ち見をした。ややタイミングが悪く,二度とも,演説の時間帯よりも,その幕間の音楽演奏のほうを多く聞くこととなった。
今になって,1989年の台湾ではメディアを通じて「祖国の若者の苦難」「同胞の悲劇」として天安門事件が伝えられたこと,台湾アイデンティティを模索してきた彼らの世代が,六四との距離をはかりかねていたであろうことが,おぼろげながらも理解できる。
彼にとっての六四の記憶は,押しつけられた「祖国・中国」と自分を引き離そうとする時に皮膚に突き刺さった棘のようなものだったのかもしれない。今の私にとっての六四は,たまたま豊かで自由な社会の側に生まれおち,バブルの時代に何不自由ない学生生活を送ることができた自分と,未来を永遠に奪われた中国の若者との運命のめぐりあわせを考えるときに感じずにはいられない後ろめたい思いの古いかさぶたのようなものだ。
学生たちのバンド演奏 |
今日,この広場に集まった人たちのなかに,彼や私のような40代の姿はほとんどない。ここにいる若者たちの大半は,天安門事件が起きたあとに生まれた世代なのだ。
会場で聞いた学生たちの宣言や,主催団体のホームページ,手渡されたパンフレット等からは,主催者である学生たちが,台湾の主権と「(台湾の)本土価値」を足場として,普遍的な価値としての自由・民主・人権に関心を寄せる立場から,23年前のこの事件に思いを馳せていることが伝わってくる。
「統一か独立かといった政治立場にかかわらず,台湾人は自由,民主,人権という価値を
ともに信じ,追求している。未来の台湾と中国の政治経済関係がいかなるものとなろ
うとも,台湾人はみな中国の自由,民主と人権の人権に強い関心を抱かねばならない」
「私は台湾人であり,台湾は私の国であり祖国である(中略)民主主義と自由こそが
台湾人が頭をあげ胸を張り,世界から尊重されるよりどころなのであり,台湾人が誇り
に思う大切な資産であり,台湾人が信じる価値であり生活のありかただ。」
に思う大切な資産であり,台湾人が信じる価値であり生活のありかただ。」
(六四特刊 二十三週年
[香港教育学院会編輯委員會,台灣學生促進中国民主化工作會]より。)
陽明山のカラーの花 |
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