2012年4月23日月曜日

スターバックスの恋人たち

スターバックスで隣の席に若いゲイのカップルが座った。恋人の試験勉強につきあって,もう一人は静かに雑誌をめくっている。ときおり見つめ合い,ほんの一瞬,手を絡め合ったり膝をつつきあったりしては,またそれぞれの読み物に目をおとす。二人のあいだに流れる甘く濃い感情が隣の席にいる私のところまでふわーっと伝わってきて,なんだかこちらまで幸せな気持ちに満たされる。

そういえば昨日も,忠孝東路の交差点で,男性どうしのカップルが手をつないで歩いているのを見かけた。

台北の町は「星巴克珈琲(シンバークー・カーフェー)」だらけ

台湾はおそらく,アジアのなかで最も同性愛者に対する理解の深い社会だろう。私が台湾にきてからの三週間のあいだにも,内政部が冠婚葬祭の手引きのなかで,訃聞(*遺族が出す葬儀の告知文。「夫」「護喪妻」といった定型化された表現を用いて故人の親族が名を連ねるため,訃聞のなかで同性のパートナーが表に出ることは難しかった)のなかで,「伴侶」という新たな表現を用いることで,同性のパートナーが故人との関係を表すことを提案したというニュースや,婚姻届の受理を求めて裁判を起こしたゲイのカップルに対して,二人の真摯な愛情に心うたれた裁判官が「あなた方がいつまでも幸せでありますように」と述べたことなどが新聞で報じられていた。

与党・野党の政治的立場の違いを問わず,また主要紙もその政治カラーの違いを越えて,総じてゲイやレズビアンのアイデンティティを尊重しようとする姿勢が強いし,彼ら・彼女らの運動に関する報道も多い。



台湾大学法学院にて

数年前に,台湾のゲイ・アクティビストでドキュメンタリー映画作家のミッキー・チェンが東大のオムニバス講義で自作を語るというので,もぐりに行ったことがある。そのとき彼は,大教室を埋めた100人近い学生たちに,「身の回りに同性愛者の友人がいる人はいますか?」と尋ねたが,手をあげた学生は(たしか)一人もいなかった。そのとき,ミッキーはこういう趣旨のことを言った。「台湾の大学で同じ質問をすれば,大部分の人が手をあげますよ。あなたに同性愛者の知り合いがいないとしたら,それはあなたの周りに同性愛者がいないからではなくて,その人たちがそのことを話せない雰囲気があるからなのです。」

ああ,その通りだ,と思った。そして私も,すべての人が異性愛者であることを前提とする社会の雰囲気をつくりだしている側のひとりなんだ,と思った。



4月の台北は街路樹の花が美しい


伝統的な家族規範の強い台湾で,同性愛者たちが声をあげ,不十分ではあっても,ここまで社会の理解の輪を広げるまでには大変な困難があったに違いない。当事者たちの粘り強い取り組みの成果だろう。

同時にこれは,たとえその主張やライフスタイルを理解したり積極的に支持したりすることはできなくとも,自分とは違うアイデンティティや指向性をもつ他者がいることを受け入れ,その人たちが居心地よく生きていける社会をつくることに共通の利益をみいだす台湾社会の寛容さの現われでもあると思う。この点で台湾は,日本よりはるかに成熟した社会だ。

そしてこの寛容さは,価値理念の啓蒙を通じて創り出されたものというよりも,異なる歴史観や文化をもつ多様なエスニック・グループがそれぞれのアイデンティティを激しくぶつけあい,政治的な対立を経験しながら,台湾という共同体をともに生きるなかで,人々が自然に身につけた「異なる他者」と共存していくうえでの生活の知恵に支えられているようにも思う。


斎東街にて

私の隣に座っているこの若い恋人たちのように,日本の同性愛カップルたちが,ごく自然に人前で恋する気持ちを現わし,甘い時間を楽しめるようになる日は,はたしてやってくるのだろうか?

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