2013年2月18日月曜日

分析すること,されること

中央研究院社会学研究所では,月に1-2度,「金曜セミナー(周五論壇)」という研究会が開かれる。研究所内外の研究者が最新の研究成果を報告する場で,社会学研究所のウェブサイトのほか,複数の学会のHPでも告知されるため,大学の教員や大学院生も参加する。私はこのセミナーをいつも楽しみにしている。

報告を聞くのも楽しいが,その後の質疑応答がおもしろい。台湾の学者は質問の名手ぞろい。彼・彼女らのコメントや質問を聞いているだけで,その報告のどこが脆弱なのか,視点を変えたり材料を足したりすると何が見えてきそうなのかが浮かび上がってくる。質問下手な私にとってはまたとない学びの場だ。


中央研究院(数理大道側入り口より)


フランス人の社会学者Paul さんの報告を聞いたのも,金曜セミナーでのことだった。日本の水俣病と,台湾の二つの公害事件の集団訴訟のプロセスを比較したもので,訴訟の過程での被害者の内的体験,加害者と被害者の相互作用,訴訟への被害者の参与に焦点をあてた興味深い報告だった。

研究報告を聞いて「興味深い」と感じ,好奇心をそそられるのは,自分が話し手と同じく「分析する」側から対象を見ているからである。ところが,質疑応答のあいだに,自分がいつの間にか「分析される」側に立っている-というよりも,分析される側に立たされていると感じていることに気がついた。

そのきっかけは,日本人の歴史的な「国(おかみ)」観が天皇制の歴史と深く結びついているというポールさんの指摘である。これに,聴衆が「フムフム」という表情で聞き入っている。その様子をみたとたん「あれ,マズくないか?」「私,日本人として反論すべきではないのか?」という感情が生まれ,セミナー室に座っている自分が,聞き手の視点から,分析される側にすーっと移動したようにかんじた。

ポールさんの発言を聞いた瞬間,私の心の中では「まじ?」→「出た」→「まてまて,『出た』なんて思ってはいけない」という声が順繰りに響いた。

まず,反射的に湧いてきた感情は「まじ?」という違和感である。台湾と比べたときに,日本の人々と国家機構・官僚の関係が垂直的であり,前者にとっての後者の威信が高いことは,事実だろう。しかしそれを,「天皇制」といきなり結びつけるのは,ちょっと乱暴に過ぎないか? 強固に統合されたスーパー国民国家・日本における「国」と人々の関係は,明治以来の中央集権的な国家機構の形成過程や,司法システム・官僚システムの(曲がりなりの)機能性やそれがある時期まで獲得してきた信認,中央のパワーエリートと地方(特に,水俣のような小さな漁村)に生きる人々のあいだの社会的な資源の格差といった様々な要素が絡み合ってできあがっているものだと思う。むろん,明治以来の国家形成が天皇制と強く結びついてきた点で,日本を理解するひとつの鍵が天皇制にあるという認識は妥当だと思う。ただ,現代日本の社会に生きる一個人の直感として,日本人の「国」「政府」に対する姿勢を天皇制と直接的に結びつける視点は,あまりに安易であるように思われ,強い違和感を感じる。

ここから即座に浮かんできた第二の感想が,「出た」というものである。「天皇制という要因を持ってくれば西洋の研究者には分かりやすいし面白いんだろうな」「日本はやはり特殊な社会に見えるんだろうな」という感想である。

だが,この「まじ?」→「出た」という脊髄反射的感想が,外国人研究者による日本分析への私の偏見を反映したものであることもまた事実である。そして,私自身が外国研究をなりわいとする身でありながら,外国人による日本分析に対して即座に「出た」という感情を抱いてしまったことを,私は恥じずにはいられない。

ポールさんの観察は彼のフィールドでの経験を基礎としているものだ。水俣病の患者さんたちと直接話したことがない私が,ただ「私も日本人である」というだけで,彼の観察に反論できるわけではない。

それに,「私を含む多くの日本人がそうである(そうではない)」という反論じたい,意味をなすものではない。研究する者は常に,分析対象のもつ多様性と向き合うことからスタートしなければならない。しかし,研究がある段階にいたれば,(モノグラフの執筆を別として)必ず,分析対象をひとくくりにしてそれについて語ることが求められる。だからこそ,分析対象の範囲の決定という問題が重要になる。その時に,分析対象を理解する鍵となる要因やロジックが,100個の観察値や回答数の平均値のなかに見いだされるとは限らない。時に,その鍵は,100の回答のなかの1個か2個の回答のなかに,現われるものだ。そこから導かれた説明のロジックは,「私はそうは思わない」という大多数の分析対象者に強烈な違和感をもたらすものとなる。

私がポールさんの日本社会への認識を「正しくない」と批判するなら,それは,「日本人である私が違和感を感じるから」という理由によるものであってはならない。彼がフィールドで見たもの,聞いたもののなかから,分析上の「鍵」を抽出するうえでとった手順の妥当性や,彼の直観がどれほど豊富なフィールド体験に裏付けられたものであるのか,ステレオタイプ的な日本認識への批判を経たものであるかを問いかけることからはじめねばならない。また,日本人の国家観を天皇制と絡める視点が,結果的に検証不可能な(あるいは検証を拒否する)テーゼとなってしまっている可能性-私にはそう思われるのだ-を批判的に検討しなければならない。そのためには,おそらく,「検証可能性」とは何か,という議論から始めなければならないだろう。

しかし悲しいかな,私の語学力では,そんな問題を提起することなど到底できないーー。たとえ途中で立往生しても,思いきって発言をする度胸だけでも持たないと,在外研究に来させてもらっている意味がないんだぞ,と自分に言い聞かせながら,スゴスゴとセミナー室を後にしたのであった。


裏の小山からキャンパスを見下ろす

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