2012年9月29日土曜日

郭雪湖ふたたび:「南街殷賑」の視線について


前回の投稿では,郭雪湖の絵画と出会ってから,迪化街でご家族にお会いできることになった経緯について書いた。

9月1日(土)のお昼に民藝埕に集まったのは,郭雪湖夫人で,ご自身も才能あふれる画家であった林阿琴さん(97歳),二人の娘さん(郭香美さん,郭珠美さん)と息子さん(郭松年さん)。ホスト側は,民藝埕のオーナーで,郭雪湖の代表作「南街殷賑」の迪化街への里帰り展覧という夢に向けて活動をしている周奕成さんと,周さんの仲間の美術関係者やデザイナーたち。特別ゲストとして,周さんがこの絵とめぐりあうきっかけをつくった民藝埕の大家さんもいらした。大家さんは「南街殷賑」の大ファンなのだという。
 
郭さんご一家を囲む会の会場,民藝埕2Fの茶芸館「南街得意」
 
ご家族を囲んでのひとときは,実に楽しかった。お子さん方は,日本で学んだ経験があり,美しい日本語をお話しになる。息子さんは,京都大学で数学を専攻していた学生時代,休日になるたび,お父上のお供をして上野の美術館めぐりをした思い出を語って下さった。娘さんは,お父上が,生涯の師・郷原古統に対して抱いていた深い尊敬の思いや,国画論争が画風にもたらした変化について話して下さった。アメリカ在住のご家族たち-特にたいへんご高齢の郭夫人に,「南街殷賑」のなかに描きこまれている建物のなかでお話をうかがえるだなんて,信じられない幸せなことだと思う。


郭雪湖夫人(前列右),二人の娘さんと息子さん
 

そんな夢のような時間のことを早く文章にしようと思いながら,三週間が過ぎてしまった。9月半ばに大きな仕事と一時帰国の予定が入って多忙だったことも一因だが,それだけが理由ではない。郭さん一家とお会いしたあと,迪化街を歩きながら芽生えた「南街殷賑」への疑問が日増しに膨らみ,この絵の魅力をどう理解したらよいのか分からなくなってしまったのだ。

 改めて,「南街殷賑」と向き合ってみよう。この絵は,実に不思議なエキゾチズムに満ちていると思う。この絵が現実の迪化街を写したものではなく,資料を参照しながら想像力を膨らませて描いた作品であることは前回書いたとおりだ。

まったくの素人解釈ではあるが,前回の記事で書いたように,この絵には三つの要素がある。日本の植民者の手になる威風堂々たる洋風建築の表すモダンさと,霞海城隍廟にお参りする人たちのにぎわいが表す台湾の土着的な色彩と,看板や意匠の数々が表すエキゾチックな彩りの豊かさだ。この3つの要素のそれぞれ―モダンさ,ローカルさ,そして「蕃産内地みやげ」「蓬莱名産」「南國商會」「新高バナナキャラメル」といった看板や,壁に描かれた先住民族の伝統的な意匠にみられるエキゾチズム――には,自らを観光の対象として見る視点,いわばよそ者の視線――あるいはよそ者が台湾に見いだしたいと願う風景への視線――が強く投影されているように思う。誤解をおそれずにいうなら,この絵は,台湾をエキゾチックな南国として見る日本人の視線を内在させているのではないだろうか?
 

郭雪湖「南街殷賑」(1930年)

迪化街の街並みは実際には2階建てだが,郭雪湖はそれを3F建てにして描いた

それでは,私がこの絵から受けるそのような印象が間違っていないとするならば,そのようなよそ者=「北からやってきたよそ者」の視線は,どのような経路を経て,郭雪湖の絵画的な想像力と重ね合わされたのだろうか?台湾の風景を描きつづけた師・郷原古統の影響が,弟子である郭雪湖の台湾の風景への視線に現われているのだろうか? 

そんな疑問を胸に9月半ばに日本に一時帰国したら,ちょっと不思議な出会いが待ち受けていた。連れ合いが森美根子著『台湾を描いた画家たち』(産経新聞出版,2010年)という本を買って,私の机のうえに置いてくれていたのである。日本統治期の台湾美術史についてほとんど何も知らない私にとって,非常に参考になる本だった。

今回の参考文献

作者の森美根子さんによると,日本統治時代の台湾の画家たちは台湾の風景を主題にした作品を多数描いているが,これは「台展」(*台湾総督府の外郭団体主催の展覧会)等の展覧会の審査にあたった日本人画家たち(*1)が「臺灣色」豊かな風景画を受賞作品に取り上げたからであり,そのため台湾人画家の関心事は「ローカル・カラー」に向けられたのだという(p210)。さらにこの本では,顔娟英氏の論考(『風景心境──台灣近代美術文獻導讀』》上・下冊,雄獅,2001年)をひいて,そのような「台灣色」の重視が,台湾の特色を帝国の植民地体制の中に定着させることを目的としていたこと,「台展」が植民地政府の治績宣揚のための「飾り窓」であり,多くの台湾人画家たちがこの飾り窓に向かってしのぎを削っていたこと,を指摘している。郭雪湖は,第一回の台展で陳進・林玉山とともに衝撃のデビューを果たした「台展三少年」の一人で,それ以後,台展の常連として活躍した画家であり,「南街殷賑」も1930年の台展賞を獲った作品であった。

そうか,そういうことだったのか──。上のような解釈がどの程度,「南街殷賑」にあてはまるのは分からない。けれども,展覧会の審査という装置が,台湾人画家による「臺灣色」豊かな風景画の創作への熱意をかきたてたということを知ったうえで,この絵ともう一度向き合ってみると,この絵のエキゾチムの謎が解けてくるように思う。

この絵の鮮やかな彩りの背後には評価者=植民者と,評価される者=被統治者のあいだでの,,「台湾のローカル・カラー」を定義づける政治的な資源の不平等な配分があった。そのことを知った以上,この絵を単純に「台湾人画家が描いた台湾色豊かな絵」としてだけとらえるのは,無邪気すぎるだろう。

しかし,この絵には,そういった一種の紋切り型のとらえ方を軽々と飛び越える生命力がみなぎっている。そもそも,絵であれ,映画であれ,小説であれ,作家は作品の受け手との相互作用のなかで,作品を作っていくものだ。そして人は,他人から「見られる」ことを通じて自己表現を磨いていくものだ。評価される側に立つ創作者は,評価する者がつくりだす枠組みに縛られ,それを受け入れたり反発したりしながら,枠組みの外縁を少しずつ押し広げていく。


改めて,画集『四季・彩妍 郭雪湖』のなかで,特別に折りたたむかっこうで納められた「南街殷賑」を眺めてみると,この絵の持つパワーに胸をうたれる。ここには,若き日の郭雪湖の画家としての力量と想像力と野心がみなぎっている。迪化街のモダンさとコスモポリタン的な賑わいへの誇りがこめられている。

「南街殷賑」は,北からやってきた権力をもつよそ者たちが台湾に見いだしたいと願った「ローカル・カラー」と,よそ者が握る評価の枠組みのもと,自らの絵筆で自分の故郷の豊かな彩りを描き出そうとした画家のあいだで生じた強烈な化学反応のなかから生まれた作品なのだと思う
 

 (*1)台展の審査委員には内地の中央画壇から著名な画家が招かれていたという。そのなかではじめての台湾人審査委員になったのが廖継春であった(森[2010],p.120)。


2012年9月3日月曜日

迪化街での出会いはつづく:画家・郭雪湖のこと


その画家との出会いは,偶然だった。友人と一緒に圓山に遊びに行き,涼みがてら,ふらりと立ち寄った台北市立美術館で,彼の作品と出会ったのだ。

郭雪湖(1908-2012)--。日本統治下の台湾画壇で頭角を現わし,戦後も長きにわたって活躍した著名な台湾人画家だという。しかし,美術にうとく,台湾の絵画史はおろか日本の画家についてもよく知らない私は,初めて聞く名前だった。


郭雪湖「圓山附近」:この再現性の低さでは,作者に申し訳ないのですが,やはり画像があったほうがいいので。


郭雪湖「新霽」:本当に美しい絵です。ぜひ実物を見に美術館にお運びください。

美術館の二階,区切られた空間になっている展示スペースの右手には,「圓山附近」(1928)と「新霽」(1931)という二枚の作品が飾られていた。いずれも,手前に畑の風景,その背後に小さな森,その上にくれなずむ空を配置した作品だ。この二枚の絵と向きあった瞬間に,見えない手が絵のなかからグイと伸びてきて,心臓をつかまれたような衝撃を受けた。

私は,絵画の系譜や手法にまるで詳しくないので,郭雪湖の絵が「うまい」のかどうかもよく分からない。「素朴派」と呼ばれる画家たちを思い起こさせるやや素人じみた作風のようにも感じる。しかし,この二枚の絵と向き合うと,画家の心をとらえたもの,画家が持てる力のすべてを注ぎ込んで描き出そうとしたものが,伝わってくる。対象物への無我な没入と,題材を大胆に再構成し題材に構図を与えようとする強烈な表現欲が,渾然一体となって絵のなかから溢れだしてくるのを感じる。
二枚の絵は,台湾の緑の複雑な美しさを見事にとらえている。黄みがかった緑,黒みがかった緑,油光りするような肉厚の緑に,ふわふわと広がった広葉樹の優しい緑。色と色のふしぎな重なり合いを,郭雪湖の筆は,「圓山附近」では繊細に, 「新霽」では大胆に描き出す。それは,絵筆を握る人が,「描きだせますように,伝えられますように」という祈りをこめて愚直に一筆一筆を重ねていった先に現われた作品のように思われる。

 

郭雪湖「南街殷賑」(以上3点はいずれもネット上からDLした画像)

もう一枚,展示スペースの中央に,強い生命力を放つ絵が飾られていた。「南街殷賑」(1930)だ。郭雪湖が生まれ育った迪化街の「霞海城隍廟」の祭りのにぎわいを描いた彩り豊かな絵だ。縦長の画面の下方には,通行人たちの姿が細かく描かれて,街の賑わいが強調されている。左右には,迪化街のモダンな洋風建築がそびえている。目をひくのが,カラフルな看板の数々だ。「蕃産内地みやげ」「蓬莱名産 竹細工」「新高バナナキャラメル」といった文字に,凝った図柄や色鮮やかな意匠が施されていて,なんともエキゾチックだ。空を切り取るファサードが強調するモダンさ,画面中央に配置された看板の南国情緒,右下に小さく配置されたお廟の土着的なにおいが入り交じったなんとも魅力的な絵である。

後で解説を読み,この絵には,作者の想像力が奔放に取り込まれていることを知った。実際には二階建ての迪化街の街並みは,三階建てに「建て増し」されている。壁面に描かれた先住民の伝統的な意匠や看板のデザインは,資料や商業名鑑を参考にして描いたものだという。郭雪湖が,大稲埕への愛情をこめてつくりあげた万華鏡のような渾身の一作である。

迪化街の実際の街並みは二階建て+ファサード

けれども,この長命の画家が,後半生に描いた作品には,この三枚の作品に充ちていた強烈な躍動感と緊張感が感じられない。表現への強烈な欲望というつきものが落ちてしまったような物足りなさを感じる。この画風の変化は,一体なんなのだろう?

数日後,台湾史研究者の友人にこの話をしたら,彼も郭雪湖の初期の作品が大好きだという。そして,彼の作風の変化を理解する鍵である「国画論争」について教えてくれ,これを読むといいよと言って,数冊の本を貸してくれた。

1950年代に起きた「国画論争」は,不幸な,だが台湾の歴史の必然でもあったであろう,戦後台湾美術史を揺るがせたイデオロギー論争である。

日本の植民地統治下で,官営の展覧会を軸に組織されていた台湾の美術界は,戦後,台湾に移転してきた国民党の支配下で,台湾省全省美術展覧会(省展)として,再び上から組織化されることとなった。そして,日本統治下の展覧会の「東洋画」の部と「西洋画」の部は,省展の「国画部」と「西洋画部」となり,かつて「東洋画」の部で活躍した郭雪湖や陳進は,「国画部」の審査委員となった。

しかし1950年代初頭になると,外省人の美術家たちが,膠絵具を用いて創作する本省人画家たちの作品は「日本画」であり,「国画(この場合の「国」は当然中国である)」ではないとして,東洋画の伝統をひく画家たちを強く攻撃するようになる。東洋画出身の画家たちの描く作品を「正しくないもの」として排撃したこの「国画論争」は,多くの本省人画家たちに深刻な打撃を与え,外省人画家たちの画壇での主導権を固めることとなった。郭雪湖と陳進に関する文献の一部*を読む限り,言語面・政治資源面で圧倒的に不利であった本省人画家たちには有効な反論はできなかったようだ。「論争」というより一方的な攻撃であったのではなかろうか。画家たちのなかには,創作意欲を失った者もいれば,作風の改造を試みた者もいたというが,一様に,政治的な力によって自らの作品を否定され,攻撃されたことに,深い苦しみを味わったことであろう。

この時,郭雪湖は40代半ば。画集を見ていくと,郭雪湖の緻密な画風は1940年代以降,漸進的に変わっていったように思われるが,「国画論争」が彼に大きな打撃を与え,その作風に変化を引き起こしたことはほぼ間違いないだろう。その後,郭雪湖は1960年代半ばには活動拠点を日本に移し,1978年にはカリフォルニアに移住して,2012年に米国で104年の生涯を閉じた。

台北市立美術館。MRT圓山駅から徒歩5分。


郭雪湖の生涯を知り,その人生に刻み込まれた台湾の歴史に思いを馳せていたそのわずか数日後に,今度は迪化街の民藝埕の会議室で,額装された「南街殷賑」の複製が置かれているのを見かけた。そして,前々回のブログ記事で紹介した周奕成さんがこの絵を迪化街に「里帰り」させたいという計画を練っていることを知って,さらに驚いた。「南街殷賑」は,今では台北市美術館の目玉作品の一つともなっている。それを館外に借り出すのは容易なことではないだろう。しかし,この絵を迪化街に迎えることができたら,この町を新たな本土文化の発信の拠点にしたいという周さんたちの活動の大きな弾みになる。何より,この絵に満ちあふれている画家のこの町への誇りと愛情を思えば,天国の郭雪湖さんも喜ばれることだろう。
   
そしてなんと,おととい,周さんがSNSで,アメリカから帰国中の郭雪湖夫人,娘さん,息子さんたちが,周さんの「名画の里帰り」運動のアイディアを耳にし,民藝埕を訪問するので,関心がある人は同席してもよいというニュースを知らせてくれた。絵のことをよく知りもしない私がノコノコと出かけていっていいものだろうか?と迷ったのだが,郭雪湖の画集を取り出して眺めたら,彼の作品と人生への強い関心がわき上がってきて,行かずにはいられない気持ちになった。

というわけで, 民藝埕での郭家の方々との出会いと,このあと迪化街を歩き回りながら考えた郭雪湖の「南街殷賑」についてのしろうと考察については,次号で書きます。(この号続く)

*参考文献:
寥瑾瑗『四季・彩妍 郭雪湖』雄獅美術,2001年。
田麗卿『閨秀時代 陳進』雄獅美術,1994年。