2013年5月31日金曜日

日台接客考


先週日曜の日経新聞「文化」欄(2013.5.26付 28面)で,角田光代さんの「接客今昔」というエッセーを読んだ。

「飲食店や洋服店での接客には,流行がある。バブル期には横柄な態度がはやり,バブル崩壊とともに機械のようなマニュアル対応が,やがて必要以上に丁寧な接客が広がった。最近は『友だち接客』とも呼ぶべき新しい波が現われているようだ」という内容だ。ちょうど,この10数年の台湾の接客カルチャーの変化や,日台の接客観の違いについてボンヤリ考えていたところだったので,面白く読んだ。

「圧縮型の産業発展」を遂げてきた台湾のサービス産業では,日本で順を追って現われた複数の接客カルチャーが同時に出現しているように思う。「必要以上に丁寧な接客」が現われる気配は感じられないが,「横柄型」「機械型」「友だち型」には日々お目にかかる。

こんなおしゃれな洋菓子店も現われた(台中・宮原眼科洋菓子店)

日本のチェーン店も続々進出(統一阪急百貨店)

台湾の「横柄型」は,バブル期日本のような演出がかったものとは違って,もっと単純に横柄だ。「接客が面倒」という気持ちを隠さないだけなのかもしれない。この10年で,台湾の(特に台北の)消費文化は随分洗練されたものとなったが,おつりを投げて返す売り子や,露骨に不機嫌な対応をする店主は,まだ少なくない。

「友達型」には,モダン型と伝統型がある。角田さんが書いていたような,接客の一環として親しく話しかけてくるスターバックスの店員はモダン型で,台湾でも着実に増えつつある。これに対して,「伝統型」は,接客する側が,販売員としての「公」の顔をするりと脱いで,いきなり「私」として接してくるタイプの接客だ。遅めの時間にスーパーで生鮮食料品を買たら,レジの女性に「これから料理するの?今から始めたら9時近くになるよ,疲れるから食べて帰ればいいのに」と言われる。コンビニでハーゲンダッツのアイスを買ったら,「これ高いですよね,本当に値段に見合うほどおいしいですか?」と聞かれる。同じくコンビニでビールを買ったら「あなたがお酒買うの,初めて見た」と言われる。(←以上,いずれも最近の私の体験。)

最たるものは,タクシー運転手だ。「結婚しているか?→彼氏はいるか?→なぜ彼氏と早く結婚しないか?(20-30代向け),「子どもは何人いるのか?→なぜいないのか?orなぜ一人だけなのか?」(30台後半以降向け)等,日本では友人・親戚どうしでも聞かないor聞けない質問が矢のように降ってくることがある。「うるさぁーい!」と叫びそうになることもあるが,こういう時には「運転手さんは?」と聞けばいいのだと学んでから気が楽になった。

相手のプライバシーの尊重を基本とする日本の接客とは違って,台湾では私的な「相手への興味,関心」を示すことが,親しみの表現方法のひとつになっているように感じる。このような友達型接客は,内心はどうであれ建前として,買い手を一段高いところに「お客様」として祭り上げる標準的な日本型接客の発想とはまるで違うものだ。

こんな伝統的な市場もしっかり健在。

台湾の「機械型」として私が真っ先に思い浮かべるのは,「秒速の食器下げ」だ。台湾のレストランでは,使い終わった(ようにみえる)食器をすばやく下げるのが重要なサービスだという通念があるようで,話が盛り上がって食事の手をちょっと休めると,食べかけのお皿を速攻で下げにくる店員さんが必ずいる。それがあまりに続くと,「早く食べて,早く出て行けというサインか」と疑いたくもなる。もう少し,客の食事のテンポを観察して,臨機応変な接客をできないものか。だいたい,かなりの高級レストランでも,最初にいきなりスープやビーフン炒めを出してくるところが多い。厨房もフロアも,お客が料理を楽しむための順番やテンポを考えずに,機械的につくって,機械的に運んでくるのだ。これじゃまるで料理マシーンと皿下げマシーンだよ。

などと考えていたら,先日,台湾の知人から「日本の飲食店は,融通が効かなくて機械的!」という話をきいた。この方の友人たちが,日本旅行の折,街のおそばやさんにグループで入って,「この温かいおそばを肉ぬきで」「このセット下さい。但し小皿の揚げ物は他のものに変えて」といった注文をしたのだが,店主は「できません」の一点張りだったとのこと。

「台湾ならなんの問題もなくできることなのに!」と批判する知人の気持ちも分かるが,「肉ぬきのカレー蕎麦(←という注文だったかどうかは知らないが)」といった注文を口々にされて,呆然と立ち尽くしたそば屋の店主の気持ちもよーく分かる。

しかし台湾では,こういう時こそ,「お客様は神様」なのだ。宴会のメンバーのなかに一人だけベジタリアンがいることを事前に伝えておけば,小皿に別盛りにした食事を,宴会の進行にあわせて適宜提供する。フードコートの飲食店のセットメニューでさえ,組み替えがきくことが多い。お客が食べたいと言うものを柔軟に提供できてこそ,飲食店としてのメンツが立ち,自然と繁盛もするもの,と考えられているようだ。

これは,接客文化の問題ではなく,飲食店オーナーのマインドの違いによるものだが,日本の店が,一部の顧客に融通をきかせて他の客へのサービスとの整合性がとれなくなることをいやがるのに対して,台湾では「来たお客を逃してなるものか」と考える傾向が強い。そのため,従業員の対応というレベルでは日本が,オーナーの臨機応変さという点では台湾のほうが,より柔軟になる。

「お客と売り手」という役割間関係に徹し,すべての顧客に平等に一定レベルのサービスを提供する日本と,お客を手荒に扱ったかと思えば,少々無理な注文にもどんどん答えようとする台湾と。どちらがより洗練された接客文化かと問われれば,圧倒的に日本なのだが,どこから何が飛び出してくるか分からない台湾の接客文化にも,不思議な迫力と底力がある。


台北を代表する繁華街のひとつ・西門町にて


2013年5月21日火曜日

県営観光バスで行く金門島の旅

5月3-5日に,金門島を旅してきた。金門は,中国福建省アモイの沖合,わずか数キロの距離に浮かぶ中華民国(台湾)領の島だ。この島は,1940年代末から1950年代にかけて,国共間の激しい戦闘の舞台となり,その後も長らく軍事統制のもとに置かれていた。2000年代に入ると,中国との「小三通」(アモイ・金門間の直接往来等の解禁策)の拠点となり,国共対立の最前線から一転して,両岸交流の最前線へと衣替えすることとなった。

台湾の友人たちに金門島のイメージを聞いてみたら,「兵役で行くところ」「東南アジアで成功した企業家を生んだ華僑のふるさと」「古い閩南(福建省南部)式の建築がよく残っている」といった答えがかえってきた。中華民国福建省(*金門島と馬祖列島のみから成る)への好奇心もあり,連休を利用して来台した連れ合いとともに行ってみることにした。

1日目は台北・松山空港から9:25発の復興航空のプロペラ機に乗り,約70分で金門へ。空港から直に観光に出るつもりだったのだが,荷物を置きにいったん宿に行くことにした。結果的にこれが大正解だった。

今回,私たちが泊ったのは,島の西南部にある珠山集落の「漫漫民宿」。金門では,行政(国家公園)の主導下で,古くから残る閩南式の建物を保存・修復して民宿にする動きが広がっており,すでに60軒以上の古民家民宿がオープンしているという。私たちの宿も,100年以上の歴史を刻んだ建物だ。

タクシーで珠山集落に着いたとたん,そのたたずまいの美しさに息をのんだ。ため池を囲むように,柔らかな色合いの煉瓦造りの建物が,優雅な曲線を描いた低い屋根を並べている。台湾のどこでも見たことのない,シンプルで均整のとれた風景だ。


ため池を抱くように広がる珠山集落

何棟もの「古厝」から成る漫漫民宿
民宿の共有スペース。1泊目はこの空間を独占した。

 宿のマネジャー・黄さんが,さっそく部屋に案内してくれ,観光プランの相談にものってくれた。当初の私たちの予定は,2日を金門観光に,1日を対岸のアモイへの日帰り観光にあてるというものだった。これを聞いた黄さんが「週末のアモイは混雑していて勧められない。金門島をゆっくり楽しむほうがいい」と言って勧めてくれたのが,「県営観光バス」の利用だった。

島内には,観光バスが4路線走っており,それぞれ,複数の観光地を4時間弱で回れるようになっているという。まずは試しに乗ってみよう,ということになり,13:30金城ターミナル発のB線「古寧頭戦場線」に乗ってみたら,これが予想外に面白かった。これは,4路線のなかで最も「戦跡めぐり」色の濃いハードボイルド系のコースで, ①「金城民防坑道」の体験歩行(金門の市街地には,戦闘時の避難用に地下トンネルが張り巡らされている。そのトンネルを歩く),②和平記念園区(古寧戦史館,中国を間近に望む北山海岸の見学),③慈湖トーチカの見学,という内容だったが,盛りだくさんで面白かった。

というわけで,すっかり味をしめた私たちは,「1日目午後=B線,2日目午前=C線,同午後=D線,3日目午前= A線」と,観光バスの全路線を制覇することとなった。

このバスに乗って回ります。
この県営観光バスは,日本語のガイドブックやネット上ではあまり紹介されていないようだが,金門旅行を考える人には,ぜひお勧めしたいと思う。案内は中国語のみだが,ガイドさんは外国人の乗車にもある程度慣れているようで,中国語を解さないドイツ人カップルもツアーを楽しんでいた。ターミナルで,路線ごとのスケジュールが記されたパンフレットが手に入るので,集合地点とバスの出発時刻さえ押えておけば,中国語のできない人でも問題なく一行について回れると思う。

いずれの路線も,金門の観光資源である戦跡見学と伝統建築・集落見学が組み合わされていて,見応えがある。駆け足での見学なので慌ただしく,どこに行っても後ろ髪を引かれる思いで早足で立ち去ることになるが,見所の多い島内を効率的に見て回れるのは間違いない。

移動の足を心配する必要がないのも有り難い。島内の路線バスは本数が少ないし,タクシーを借り上げるのは高くつく。中国語が分かる人なら,バスの中ではガイドさん,博物館等では解説員の話を聞けるのも楽しい(もっとも,戦闘関係,歴史関係の解説の中国語は,私にはチンプンカンブンだったが・・・)。ガイドさんからは,両岸の軍事的緊張の緩和とともに島内の軍人の数が減っており,政府は軍人に変わる金門の収入源の確保策として大学の誘致(複数の台湾の大学が,中国人留学生の獲得を目的に金門にキャンパスを設置することを計画しているらしい)や観光業に力を入れていること,金門の学校には中国で仕事をしている台湾人企業家の子どもが多く通っていること,などを教えてもらった。

驚かされるのが値段の安さだ。2路線に乗れるチケットが200元(700円),2人だと2割引きになるので,4時間近い充実した観光を,80元(300円弱)で楽しめる。見所の多くがきれいに整備され,入場無料であることも含めて,金門県が(そして中華民国政府が),この島の振興策として観光産業に多大な資源を投じていることに驚いた。

見学箇所のうち,つまらないと感じたのはD線の「自行車故事館」(自転車博物館)だけで,あとはどこも興味深かった。そのなかでも特に印象に残ったところを挙げると,まず,A線の水頭集落。金門は,南洋移民をたくさん輩出した「僑郷」。この村には,成功した華僑が故郷に建てた小学校や,美しい洋館が多数ある。華僑の歴史や洋楼の建築様式についての解説も豊富で,勉強になった。

南洋で成功した華僑が故郷に建てた小学校。

手前はミンナン式,奥は洋楼になっている。

洋楼の窓から。屋根が美しい。
観光のもう一つの目玉は,軍事施設・戦跡めぐりだ。なかでも,かつての軍事秘密基地だった翟山坑道のスケールの大きさと神秘的な地下水路が特に印象深かった。

ガイドさんは,中国の若い観光客から「台湾はどこと戦ったの?」と聞かれることもあるという。

しかし,個人的に最も印象に残ったのは,D線の「特約茶室展示館」だった。最初,パンフレットをみた連れ合いと私は,「なんで金門まできて,茶室を見せられるのか」と内心不満だったのだが,現地に着いてみて心底驚いた。特約茶室とは,なんと軍がもうけた慰安所のことだったのだ! 

金門に軍の慰安所「軍中楽園」が設立されたのは1951年。後に「特約茶室」と名を改め,1990年に廃止されるまで続き,金門島だけでも11箇所の特約茶室があったという。この展示館では,「特約茶室」の歴史を紹介しており,実際に使用されていた部屋も見学できる。後で調べてみたところ,「特約茶室」については,金門県政府から二冊の記録が出ているほか,未成年女子が働かされていたこと,女性たちが劣悪な環境に置かれていたことを詳しく論じたウェブサイト等もあった。今ではこざっぱりと整えられた「特約茶室展示館」だけからでは分からない,過酷な歴史を知ることができる。

1989年の「ウェイトレス(慰安婦)」の価格表。職種,職階ごとに大きく異なることが分かる。
かつて使われていた部屋が公開されている。
軍の慰安所についての記録を県政府がまとめ,施設を博物館として開放し,観光バスのルートのなかにいれる---。この展示館の建設や展示内容をめぐってどのような議論や意志決定のプロセスがあったかも興味深いが,何より印象に残ったのは,事実として存在したものを歴史として記録し,人々の記憶にとどめようとする姿勢だ。軍の島・金門の深い影を覆い隠すのではなく,それをも観光資源として位置づけようとするその姿勢(この主語は,中華民国(台湾)ということになろう)に,不思議な感銘を覚えた。帰り際,ガイドさんに「日本にこういう記念館はあるの?」と聞かれ,「いえ,ないです」と答えながら,なんとも複雑な思いが心をよぎった。

3日目は午前に観光バスに乗ったあと,おいしい牡蠣めんと広東粥の昼食を食べ,金門一の繁華街・金城の街をぶらぶら散策した。古い路地がくねくね走る旧市街をあてどなく歩いていると,突如,荒れ果てた洋楼に行き当たった。金城は,歴史の記憶が幾重にも折り重なった魅力的な街だ。


金城の街には古い洋楼が自然に溶け込んでいる。

対岸の中国領の島は,実際にはこの写真よりだいぶ大きく見える。


歴史的には対岸のアモイと極めて密接な関係にありながら,中国の内戦によって大陸とは異なる歴史を步むこととなった金門。こんにちの「台湾」の一部であるが,日本の植民地統治を受けておらず,台湾本島の人々とは異なる歴史を持つ金門の人たち。目と鼻の先に中国大陸を控えるこの島の人たちは,「閩南人」であるけれども,台湾の文脈でいう「本省人」とはまた異なるアイデンティティや歴史認識を育んできたのだろう。

中華民国在台湾が,このような異質な歴史を刻んできた土地をそのなかに抱えていることに驚きつつ,金門を後にした。