2012年12月21日金曜日

「英雄」を求める技術システム


台北の冬は,雨の季節だ。繰り返し近づいてくる低気圧に覆われるたび,冷たい雨が降り注ぐ。15年前の滞在経験から冬の陰鬱さは覚悟していたけれども,今月に入って降り続いた長雨にはかなり参った。


雨にぬれて輝く巨大な葉っぱ。木柵・政治大学にて。

心にかびが生えそうな気分になっていたので,今日は久しぶりの快晴になったことが本当に嬉しく,お昼に中央研究院のキャンパスのなかをぐるぐる歩き回った。

南港山脈の美しい稜線を眺めながら,福島の山々のことを思った。そして,読み終えたばかりの『死の淵を見た男:吉田昌郎と福島第一原発の五百日』(門田隆将著,PHP研究所,2012年)のことを考えた。


PHP研究所 HPより。



題名の通り,この本は,過酷な事故に見舞われた福島第一原発の現場の人々の3.11直後からの数ヶ月にわたるドキュメンタリーである。副題には吉田所長の名前が挙げられているが,吉田氏というカリスマ的な人物だけに光をあてているわけではない。紙幅の多くは,原子炉建屋に突入した作業員,放水による冷却作業に携わった自衛隊員,協力企業の人々といったあの壮絶な現場で働いた人々の生の声の紹介に割かれている。

これは,「福島フィフティーズ」を含む,幾百人もの無名の英雄たちの物語だ。けれども,英雄とは何なのだろう?私たちは彼らの勇気と責任感を,遠くからあがめ,称えるだけでよいのだろうか?

福島第一原子力発電所(2012/3/12朝日新聞ウェブより)
 


昨晩,Cafe Philo(慕哲珈琲)で「社会は英雄を必要とするか?」という座談会が開かれた。学生運動や社会運動が盛んな台湾では,これまで,幾人もの社会運動や政治運動を象徴するヒーローが生まれてきた。

席上,あるパネリストが「英雄とは社会的なプロセスである。英雄は社会が必要とし,生み出し,その地位に押し上げ,しばしばそこから引きずり下ろす存在だ」と発言した。ああ,その通りだ,と思った。

吉田所長を含め,3.11後の福島第一原発の現場で命がけで働いた人々は,英雄になることを選んだわけではない。彼らは英雄になるほかなかったのだと思う。彼らという英雄を必要としたのは,原子力発電という,いったん重大な事故を起こしたら瞬く間に国家レベルの危機を引き起こし,人々の故郷を破壊してしまう巨大で残酷な技術システムだったのではないか?


Cafe Philoでの討論会のようす。
あの日まで,ごく普通のサラリーマンであり,ありふれた夫・息子・父であった人々が,大規模余震や再度の津波の襲来の可能性があるなか,線量計が振り切れるほど汚染され,すべての計器が止まった原子炉建屋に突入し,バルブを開き,メーターを確認し,冷却に向けた作業を行い,最悪の危機をその一歩手前で食い止める--。あの事故現場で命がけで働いた人々の勇気と責任感には本当に心打たれる。

しかし,この人たちの勇気と責任感は,原発という技術システムとそれを支える企業システムが,プラントの第一線を預かる人々に求めた英雄的な強さの現れでもある。そしてその巨大な技術システムは,本質において,戦争と非常によく似た構造を持つものであるように思われる。

この本で描き出されている福島第一原発の現場の姿には,疲労困憊した人々が所狭しと身を横たえていた免震棟の風景が「戦場のようであった」という比喩を越えて,戦争における国家と個人の関係によく似た残酷な構図が重なる。人々が「国が滅びるか,自らが滅びるか」の二者択一を迫られる点で,そして危険へのコミットメントを求める装置として「東電社員であること」「年長者であること」「管理職であること」といった位階システムが人々の行動を強くしばる点で,過酷事故下の原発の現場は,戦争の現場と極めてよく似た場であったのだと思う。


この本には勇気ある人々の物語がたくさん出てくるが,私がいちばん心を打たれたのは,事故直後の免震棟の中で作業員の世話やロジスティックスに奔走した佐藤眞理さんの言葉だ。3.11の後,極限の緊張状態に置かれ,「いろんなものが麻痺していた」という彼女が本当に泣いたのは,8月頃のことだという。

"私たちは,いろいろ復旧で誰もいない町の中を通って行くんですよ。本当に牛とかが死んでいたり,キツネとかが出てきたり・・・・骨と皮だけになってね。(略)あれ,あの尻尾,キツネだよね,って言いながら,持ってたあんぱんをあげたんです,それを見てたら,あんまり痩せて,哀れで。私,その時,もう本当に突然,バーっと涙が出てきたんですよ。人間だけじゃなく,動物まで,こんな目に遭っているということが,この土地一帯をこんなことにしちゃったって。そういう生き物が苦しんでいるのを見た時に,地元の人が事故で受けた被害の大きさがより胸に迫ってきて,本当に泣けました。"(一部略,pp.310-311)
戦場の極限状態から解き離れたときに佐藤さんを襲った悲しみと挫折の深さ,そして彼女を打ちのめした福島の山河の荒廃に,涙が出た。



冷たい雨の中でも花が咲き乱れる台北の冬。木柵にて。


改めて思う。原子力発電という技術システムは,いったん事故を起こしたときには,国と故郷を根こそぎ破壊し,その破滅の程度を少しでも小さくするために,その現場で働く人々に自らの肉体を犠牲にすることを迫るシステムなのだ。私たちは,他の方法でもつくりだせる電気というものを得るのに,どうしてそのような技術システムに頼り続けねばならないのだろう?

2012年12月13日木曜日

「子どもを生む花嫁さん募集します」


古新聞を整理していたら,こんなスゴい花嫁募集広告をみつけた。聯合報の一面右上,題字の真下に,赤字で婚婚婚婚婚婚・・・・と描かれた囲み枠があり,こう書いてある。
「結婚相手募集:①ある男性が「結婚し,子どもを生む」女性を必要としています。21-39歳,未婚のすらりとした美しい女性。②健康であること。③身長157センチ以上,ウェスト26インチ以下。色白,容貌端麗。④籍貫(父方の出身地)および学歴は不問(博士でも可),⑤(略)。⑥働いている人でも失業中の人でも構いません。」
続いて青文字で
「お医者さんによると,40-50歳(更年期)の女性は月経がなく,子どもを生むことができません。従って私は39歳以下の女性をめとって『子どもを生んでもらいます』」
 
とある。

聯合報 2012年10月27日 1面掲載。



こんな花嫁さんを募集しているご本人はというと,
「当人の条件①10数個の不動産,高級車を所有。貯蓄あり,安定した生活。②職業,結婚写真専門フォトグラファー,写真コンテストで7度の入賞歴あり。③身長170センチ,70キロ。健康,ハンサム,気品あり。(略)⑤道理をわきまえ,温厚で善良(他)。⑥本省人,63歳過ぎ(見た感じは40ちょっと),離婚歴有り,一人暮らし。」
だそうだ。




12月に入って雨の日が続く。それでも街角の緑はこの濃さ。



うーん,何ともえげつない衝撃的な募集広告ではあるが,ここまで堂々とされると,なんだかあっぱれ,という気になってくる。

しかし,「63歳過ぎだが見た感じは40歳ちょっと」という自己申告も,女性に「157センチ以上,ウェスト26インチ以下」を求める指定の細かさも,すべてが大変気になる記事なのだが,最も気になるのは,この男性が子どもを得ることを目的に女性を募集するという『借り腹宣言』をすることの意味だ。

「40-50歳の女性は月経がなく,子どもを生むことができません」という青字の説明が間違いであるように,39歳以下の女性ならば必ず妊娠すると決めつけるのも間違いだ。この男性は,めでたく39歳以下の女性と結婚しても,子どもを授からない場合には,結婚を解消するつもりなのだろうか? 望み通りに子どもが生まれたとして,妻と離婚することになったばあいに,母親に子どもの親権を持たせる可能性や,母と子どもの関係継続を認め尊重する考えを少しでも持ち合わせているだろうか?

妊娠・出産という身体機能を利用するために女性を「必要としています」というこの広告には--奇妙なおかしみとともに--心がざわざわと波立つものを感じずにはいられない。


杭州南路にて。


でも,このお金持ちでハンサムだという結婚写真専門フォトグラファーの彼も,願いをかなえてくれる女性を探し求め,結婚するまでのプロセスで,人と人とが一緒に生きていくということについて思い悩んだり,新たな境地にいたったりするかもしれないなー。いやしかし,この募集広告を見る限り,それを期待するのはムリそうだなー。

などとお節介きわまりない妄想にふけっていたら,ふと,タクシー運転手のCさんの悲しそうな顔が浮かんできた。

先日,いつものタクシー会社に電話をして迎えに来てもらったタクシーに乗り込んだら,二月ほど前に乗ったCさんの車だったのだ。

前回は,台北市郊外のあるメーカーまでの長い道すがら,Cさんと,20歳年下のベトナム人の奥さんの話を長々と聞いた。写真を見せてもらった奥さんは,華やかな南国美人。「どうしても孫の顔を見たい」というお母さんの願いで,ベトナムへのお見合いツアーに参加し,結婚して10年。二人の娘が生まれたが,奥さんは数年前から家を出てベトナム人の男性と暮らし始め,たまに帰ってくるだけだという話だった。

密室のなかでの一期一会(そうではなかったのだが!)ゆえか,Cさんは饒舌だった。「そろそろ離婚するほかないかと思うけれど,別れたくない」「でも,あっちがもう,うちのお袋のこともオレのこともイヤだというからね。姑嫁関係がとにかく最悪だから」と言う。お母さんとは別居できないの?と聞いたら,子どもたちの世話をするのがCさんのお母さんである以上,妻をとるか母をとるかと迫られたら,母をとるしかないという。

数ヶ月を経て,Cさんの車にまた乗ることがあろうとは思わなかった。さっそく「奥さんとはどうしました?」と聞いたところ,その後正式に離婚したという。「まぁ子どもが二人できたからいいんだけれどね」「多分,あっちはあの男と結婚するんだろうけれど,詳しく知りたくないね」。「人生は思い通りにいかないもんだねぇ。」

子どもを生んでもらうために探し,一緒になった奥さんへの未練を語りつづけるCさんの姿に,それぞれの思惑から国境を越えて結婚することとなった男女が,長い月日をともに重ねるなかで育んだのであろう不思議なえにしを思った。