この間,私と同じように10数年ぶりに台北で暮すことになった日本人と話をする機会が幾度かあったが,そのたびに「台北は本当に暮しやすくなりましたよね!」という話で意気投合した。そう,台北は「本当に」暮しやすくなったのだ。
緑陰が恋しい季節になった。 |
15年前に台北に住んでいた時にも,よく台湾の人たちに「台北は暮しやすい町でしょう?」と言われたものだった。私は「ええ,そうですね」と相づちをうちつつ,心の中では「暮しやすいけれど,暮しにくい」とつぶやいたものだった。友人の親切と見知らぬ他人の善意に恵まれて,台北での生活はおおむね快適だった。
けれども,生活をする上では様々な不満とストレスがあった。その最大のストレスの源は交通インフラの悪さにあったと思う。
なぜバスの運転手は,子どもを連れた母親がまだ乗りかけているのに,お年寄りが車道を歩いているのに,平気で発車するのか?なぜ人々は,バスが到着するといっせいに走り出し,人を押しのけて乗車口に殺到するのか?なぜタクシーの運転手は強引な割り込みを繰り返し,私が外国人だと分かると遠回りをしたり,夜間料金ボタンを押したりするのか? バスやタクシーに乗るたびに不愉快な思いをし,好きな人の見たくない一面をむりやり見せられるような苦痛を味わうことが多かった。
あとから振り返れば,1990年代半ばの台北は,まさしく「交通暗黒期」と呼ばれる最も悲惨な状況のさなかにあったのだと思う。交通量は右肩上がりに増え,MRTの工事のために幹線道路は渋滞し,ハンドルを握る人々は殺気立っていた。交通事故を目にすることも多かった。
MRT忠孝復興駅にて。 |
15年を経て,台北の交通事情は革命的に改善され,今や東京よりも便利になった。最大の変化はいうまでもなくMRTの開通だ。地下鉄と地上交通システムの組み合わせによって,元からコンパクトで機能的な台北の町が効率的なネットワークとして組織化されたことによって,利便性が飛躍的に向上した。
思うに,MRTの開通は,1970年代以降の急速な経済成長のなかで蕾を膨らませつつあった台北の都市文化の開花を抑えつけていた最後のボトルネックを解き放ったのだろう。この交通革命は,驚くべき勢いで人々の行動パターンを変え,消費生活を変えていくこととなったのだ。
毎日の通勤にMRTを使うなかで驚かされるのは,台北市民のMRTの乗車マナーの良さだ。整列乗車はお手のもの。駆け込み乗車をする人も少ない。席の譲り合いという点では,明らかに東京よりモラルが高い。お年寄りや妊婦が乗車してくると,譲り合いの輪のようなものが生まれて,席を必要とする人がちゃんと座れるように皆が気を回し合う。15年前のバスの中では見かけなかった光景だが,いつ渋滞に巻き込まれるか分からないバスとは違い,MRTでは「到着駅まであと何分」と予測できるので,安心して席を譲れる心の余裕が生まれたのだと思う。
(でも,バスの乗車習慣の名残からか,乗車すると入り口で立ち止まって中につめてくれないのは困るなぁ。降車客の多い駅では,ドア付近の乗客は踏ん張らないで,いったんホームに降りたほうがありがたいんだけれどなぁ。)
最新のMRT路線図。まだまだ発展中,秋には新たな開通・延伸が予定されている ☆ |
台北の車体広告は総じてカラフル。最近は「まるごとGalaxy III」地下鉄をみかけます |
都市交通というのはネットワークだからして,その一部で劇的な変化が起きると,それがあちこちに波及して全体が急激に変わっていく。
まず,MRTと競合することとなったバスの世界が変わった。車体が上下に跳ねる乗り心地の悪さは相変わらずだが,また日本ほどの安全運転は期待できないが,運転手のマナーがぐんと向上した。マイクで次の停車場を告げ,降車客には「謝謝」と言う。無理な幅寄せをしたり,バス停が近づくと走っている途中でドアを開けてしまうような運転手も減った。乗客のほうも,MRTの影響からなのか,運転手のマナーが変わったことの効果なのか,以前のように乗車口に向かってむやみに走ることをせず,周りに配慮しながら乗車するようになった。バスにGPSが付いて,一部のバス停では電光掲示板に「あと何分で○○番のバスが到着します」という案内が流れるようになったのにも感激。スマホユーザーなら,アプリを使ってバス停への到着時間を調べることができる。
タクシーも変わった。もう,遠回りや深夜料金ボタンを気にする必要もほとんどない。かつては日本からお客さんが来ても,一人でバスやタクシーに乗せるのは不安なので,ホテルに迎えに行き,ホテルまで送り届けていた。今では,安心して一人で行動してもらえる。
車体もきれいになり,運転手のマナーも向上した |
交通革命は,消費文化の開花も引き起こした。毎日のように雨が降る台北で,泥はねをよけながら長時間バスを待ったり,送り迎えをしてくれるボーイフレンドのオートバイの後ろにまたがったりしなくてもよくなったことで,女性がおしゃれや化粧を楽しむようになった。MRTの開通とともに,地下街が誕生し,若者で賑わう店が集まるようになった。
交通インフラの改善が,人々の物質的な生活水準を引き上げるだけではなく,人々の行動にゆとりをもたらし,秩序と配慮のある空間を創り出し,それを共有する人たちのあいだに目にみえない連帯感と誇りを生み出すものであることを,私は15年ぶりに台北に住んでみてはじめて知った。都市のハードウェアはソフトを規定し,変えていく力をもっている。頭では分かっていても,実際に目にするとその力の大きさに驚かされる。
あの頃,「台湾の人は列に並ばない」「知り合いには親切でも,見知らぬ他人には不親切だ」と言っていた人たちに(白状すれば,あの頃は私もかなりそう思っていた・・・)今の台北のこの様子をぜひ見てもらいたい。
今の私は,「台北は住みやすいでしょ?」と尋ねられたら,「はい」と心の底から答えることができる。台北は,本当に住みやすくなった!
MRT南港駅の構内アート。人気絵本画家ジミーの「不気味かわいい」作品。 |