2012年6月30日土曜日

本当に,住みやすくなった:台北の交通革命

15年ぶりの台北生活も今日でちょうど3ヶ月。到着直後のワクワク・ドキドキした気持ちは薄らいできたが,観光ビザの上限を超える日数をこの町で過ごしたことで,旅人が触れる表の「顔」だけではない,生活を支える町の骨組みの部分も含めて,台北の今のすがたが少しずつ見えたきたように思う。


この間,私と同じように10数年ぶりに台北で暮すことになった日本人と話をする機会が幾度かあったが,そのたびに「台北は本当に暮しやすくなりましたよね!」という話で意気投合した。そう,台北は「本当に」暮しやすくなったのだ。


緑陰が恋しい季節になった。




15年前に台北に住んでいた時にも,よく台湾の人たちに「台北は暮しやすい町でしょう?」と言われたものだった。私は「ええ,そうですね」と相づちをうちつつ,心の中では「暮しやすいけれど,暮しにくい」とつぶやいたものだった。友人の親切と見知らぬ他人の善意に恵まれて,台北での生活はおおむね快適だった。
けれども,生活をする上では様々な不満とストレスがあった。その最大のストレスの源は交通インフラの悪さにあったと思う。

なぜバスの運転手は,子どもを連れた母親がまだ乗りかけているのに,お年寄りが車道を歩いているのに,平気で発車するのか?なぜ人々は,バスが到着するといっせいに走り出し,人を押しのけて乗車口に殺到するのか?なぜタクシーの運転手は強引な割り込みを繰り返し,私が外国人だと分かると遠回りをしたり,夜間料金ボタンを押したりするのか? バスやタクシーに乗るたびに不愉快な思いをし,好きな人の見たくない一面をむりやり見せられるような苦痛を味わうことが多かった。

あとから振り返れば,1990年代半ばの台北は,まさしく「交通暗黒期」と呼ばれる最も悲惨な状況のさなかにあったのだと思う。交通量は右肩上がりに増え,MRTの工事のために幹線道路は渋滞し,ハンドルを握る人々は殺気立っていた。交通事故を目にすることも多かった。


MRT忠孝復興駅にて。


15年を経て,台北の交通事情は革命的に改善され,今や東京よりも便利になった。最大の変化はいうまでもなくMRTの開通だ。地下鉄と地上交通システムの組み合わせによって,元からコンパクトで機能的な台北の町が効率的なネットワークとして組織化されたことによって,利便性が飛躍的に向上した。

思うに,MRTの開通は,1970年代以降の急速な経済成長のなかで蕾を膨らませつつあった台北の都市文化の開花を抑えつけていた最後のボトルネックを解き放ったのだろう。この交通革命は,驚くべき勢いで人々の行動パターンを変え,消費生活を変えていくこととなったのだ。 

毎日の通勤にMRTを使うなかで驚かされるのは,台北市民のMRTの乗車マナーの良さだ。整列乗車はお手のもの。駆け込み乗車をする人も少ない。席の譲り合いという点では,明らかに東京よりモラルが高い。お年寄りや妊婦が乗車してくると,譲り合いの輪のようなものが生まれて,席を必要とする人がちゃんと座れるように皆が気を回し合う。15年前のバスの中では見かけなかった光景だが,いつ渋滞に巻き込まれるか分からないバスとは違い,MRTでは「到着駅まであと何分」と予測できるので,安心して席を譲れる心の余裕が生まれたのだと思う。

(でも,バスの乗車習慣の名残からか,乗車すると入り口で立ち止まって中につめてくれないのは困るなぁ。降車客の多い駅では,ドア付近の乗客は踏ん張らないで,いったんホームに降りたほうがありがたいんだけれどなぁ。)


最新のMRT路線図。まだまだ発展中,秋には新たな開通・延伸が予定されている ☆


台北の車体広告は総じてカラフル。最近は「まるごとGalaxy III」地下鉄をみかけます

都市交通というのはネットワークだからして,その一部で劇的な変化が起きると,それがあちこちに波及して全体が急激に変わっていく。

まず,MRTと競合することとなったバスの世界が変わった。車体が上下に跳ねる乗り心地の悪さは相変わらずだが,また日本ほどの安全運転は期待できないが,運転手のマナーがぐんと向上した。マイクで次の停車場を告げ,降車客には「謝謝」と言う。無理な幅寄せをしたり,バス停が近づくと走っている途中でドアを開けてしまうような運転手も減った。乗客のほうも,MRTの影響からなのか,運転手のマナーが変わったことの効果なのか,以前のように乗車口に向かってむやみに走ることをせず,周りに配慮しながら乗車するようになった。バスにGPSが付いて,一部のバス停では電光掲示板に「あと何分で○○番のバスが到着します」という案内が流れるようになったのにも感激。スマホユーザーなら,アプリを使ってバス停への到着時間を調べることができる。

タクシーも変わった。もう,遠回りや深夜料金ボタンを気にする必要もほとんどない。かつては日本からお客さんが来ても,一人でバスやタクシーに乗せるのは不安なので,ホテルに迎えに行き,ホテルまで送り届けていた。今では,安心して一人で行動してもらえる。



車体もきれいになり,運転手のマナーも向上した


交通革命は,消費文化の開花も引き起こした。毎日のように雨が降る台北で,泥はねをよけながら長時間バスを待ったり,送り迎えをしてくれるボーイフレンドのオートバイの後ろにまたがったりしなくてもよくなったことで,女性がおしゃれや化粧を楽しむようになった。MRTの開通とともに,地下街が誕生し,若者で賑わう店が集まるようになった。

交通インフラの改善が,人々の物質的な生活水準を引き上げるだけではなく,人々の行動にゆとりをもたらし,秩序と配慮のある空間を創り出し,それを共有する人たちのあいだに目にみえない連帯感と誇りを生み出すものであることを,私は15年ぶりに台北に住んでみてはじめて知った。都市のハードウェアはソフトを規定し,変えていく力をもっている。頭では分かっていても,実際に目にするとその力の大きさに驚かされる。

あの頃,「台湾の人は列に並ばない」「知り合いには親切でも,見知らぬ他人には不親切だ」と言っていた人たちに(白状すれば,あの頃は私もかなりそう思っていた・・・)今の台北のこの様子をぜひ見てもらいたい。

今の私は,「台北は住みやすいでしょ?」と尋ねられたら,「はい」と心の底から答えることができる。台北は,本当に住みやすくなった!


MRT南港駅の構内アート。人気絵本画家ジミーの「不気味かわいい」作品。


2012年6月16日土曜日

cafe philoのこと:政治,政治家,政治参加

一ヶ月ほど前のある晩,行きつけのコーヒーショップで,「鶏もも肉の香草焼き定食」を食べていたら,入り口から制服をきた女子高生たちがドヤドヤと入ってきて,地下のサロンスペースに降りていった。むむ!あの特徴的な深緑色のブラウスをきた女子高生たちは,台湾随一の名門高・台北一女の生徒たちに違いない。しかし,なにゆえ,夜の7時にこんなところに現われたのだろう?


cafe philoの入り口付近


慕哲珈琲(Cafe Philo)というこのコーヒーショップのオーナーは,野党・民主進歩党の鄭麗君・立法委員夫妻である。ある時,社会運動に深く関わっている友人と話をしていて,「よく行くコーヒーショップで,おもしろい文化イベントをやっている」という話をしたところ,その友人がオーナーと旧知の間柄であり,その店の経営にも間接的に関わっていることが判明した。それ以来,いっそう足繁くCafe Philoに通うようになった。


鄭麗君さんは,哲学の勉強のために留学したパリで,フランスのカフェ文化と出会い,人々が公共的な話題について語り合う場を台湾にもつくりたいという思いから,この店を開いたという。実際,この店には,台湾大学近辺の喫茶店にも共通する文学と哲学と政治の香りがある。壁にはグラムシやカミュの名言が記された大きな布が飾られ,レジの周りには,各種の文化,政治イベントのちらしが置かれている。



紹興北街・忠孝東路口からほど近い。

とはいっても,この店にとっつきにくい雰囲気はみじんもない。開放的なつくりの,居心地のいいカフェで,誰でものんびりくつろげる。客のほとんどは,近所のオフィスで働く人々や住人たちだ。
特徴があるのは,女子高生たちが降りていった地下のサロンスペースのほうだ。ここでは毎週金曜日に「哲学の金曜日」という哲学イベント(?!)が行われているほか,各種の討論会や新書発表会等の催しが頻繁に行われている。


星期五というのは金曜日のこと



そして今日からは,鄭麗君議員事務所が主催する連続座談会 「国会の大きな声,小さな声:けれどもあなたの声が足りない(國會大小聲:就缺你的聲音)」が始まり,その第一弾として,近年の台湾で大きな議論を呼んでいる義務教育の12年制をめぐる座談会が行われるのだという。パネル参加者は,鄭議員のほか,教育関係のNGOの役員たち,反・12年国民教育学生連盟のメンバーで建国國中(高校)の生徒の洪さん,台北一女の生徒の蔡さん。



店の前のポスター。いつも思うのだが台湾の各種イベントのポスターはよくできている。



国会議員を含む3人の大人と,2人の高校生が,教育改革について議論する!これはおもしろい,行くしかない! と勇み立ったのだが,そもそも今日ここで夕食をとることにしたのは,せっぱつまった仕事がまったく終わっていないからである。ここで2時間半も寄り道をしていいはずはない。その日はすごすごと引き上げた。

翌週のトピックは「独身公害?愛情公害?人生の選択と多元的なジェンダー」。これまたなんとしても聞きたいテーマだったが,仕事の泥沼がさらにグツグツ煮立っていたため,泣く泣くパス。

というわけで,三度目の正直が実現したのが,先週木曜日のことである。この日の討論テーマは「命は平等不平等? 動物の権利と動物保護を語る」。正直,私としては4回の討論会のなかでいちばん関心の薄いトピックだが,行ける時に行かないと機会を逃すと思い,参加した。ただ,事情により,2時間半のイベントのうち初めの1時間半しか参加することができなかった。見聞録としてははなはだ不十分なものだが,会場に身を置くことで感じたものは少なくなかった。

この日,集まったのは20-30人ほど。入場無料なのに,ケーキとキッシュ,コーヒーと紅茶がふんだんに用意してある。

4人のパネラー(真ん中は司会者,左端が鄭議員)。



パネラーは,鄭議員と動物虐待防止,野良犬・野良猫保護活動等をしているNGOのメンバーら。活動に関わるようになった経緯や,活動のなかで直面している問題,政治に望むこと等をめぐって議論が繰り広げられた。後からこの日の記録をフェースブックで見たが,私が退出した後にはフロアとの活発な意見交換が行われたようだ。このような小さな場で,おそらく集票にはほとんどつながらないであろう動物の権利というイシューをめぐり,「政治や行政にできること」について,政治家と社会運動家,一般市民が議論を繰り広げている光景には感じるところが多かった。

正直,今の台湾が直面する政治・社会問題の数々に比べて,動物の権利というテーマはどれほど重要なものなのかと懐疑的な気持ちで参加したのだが,真摯な使命感を持って活動をしている運動家たちの話は,胸に迫るものがあった。不要な動物実験,人間の都合で消費され捨てられる犬や猫,苦しくない安楽死をさせるのは費用がかさむため,全く安楽ではない「安楽死」をさせられる動物たち,虐待やネグレクトを受ける動物たちの悲惨な現実。当事者(当事犬猫?)が声をあげられない苦しみについて想像力を働かせ,人々の意識と行政や政治を変革しようと行動する姿に,敬意を覚えた。

また具体的な問題提起として,台湾の動物保護行政の主管組織が農業委員会畜牧処動物保護科であること,動物を経済資源として扱う畜牧処の下で,ごく限られた人数で動物保護行政を行っていること自体が大きな限界であることが指摘された。


報告のようす。

動物の権利について運動をしている人たちはみな,「人間の権利だって満足に守られていない世の中なのに,何が動物の権利だ」という嘲笑を受けるという。ともすれば,私も同じようなことを言いかねないと思う。

しかし,広く共有されていない問題についてこそ,直接話を聞き,実態を知ることで新しい視点を得ることができるものなのかもしれない。少なくとも私は,この座談会のあと,これまで脳天気な目で見ていた野良犬に対して複雑な思いと関心を抱くようになったし,中央研究院の動物実験センターの横を通るたびに,そのなかで何が行われているのか気になるようになった。


さて,連続座談会の最終回は「都市の記憶:再開発か忘却か? 都市再開発と文化資産の保存を語る」。実はこれは今の台北では大変にホットなトピックで,今回のブログでもこの座談会の様子を中心に「國會大小聲」のことを書くつもりだった。フェースブック上でこの会への参加を表明した人は,前々日の段階で200人強。
早くいって場所をとらなきゃ。でも,外国人である私が,現実を変革できる選挙権を持つ台湾の人々の場所を奪ってはいけないよなあ・・・でも盛り上がるだろうからやっぱり行きたいなぁ・・・と迷っていた。


団結をアピールする民進党議員たち(鄭議員のフェースブックページよりDL)。


が,残念ながらそんな迷いはひとまず不要になった。立法院での「添加物入りアメリカ産牛肉輸入解禁」問題で,民進党をはじめとする野党が立法院の議場を占拠すべく120時間動員をかけ,鄭議員も議場に泊まり込みをするため,cafe philoでの集まりも延期になってしまったのである。


ニュースを通じて泊まり込みの光景をみていると,なんだか大学生の合宿か学園祭のようだ。最終日には,とある民進党の議員が,同僚たち全員の寝姿を激撮したということで,その画像がメディアで公開されていた。鄭議員も,しっかり寝顔を撮られていた(-_-;)。

cafe philoで繰り広げられる密度の濃いコミュニケーションも,立法院での肉弾戦や議場への泊まり込みも,いずれも政治という怪物的な営みの切り離せない一面なのだろう。


夜の部(段宜康議員)。


昼の部 (鄭議員のフェースブックページより)。

2012年6月6日水曜日

自由広場にて:23年目の「六四」

いったいいつ頃からなのだろう,私にとって6月4日が「気がついたら過ぎていた」普通の日になってしまったのは。1989年の6月はあんなに悲しく苦しかったのに。

6月の緑:台湾大学法学院


私は,天安門広場で命を奪われた学生たちと同じ世代だ。同じ年頃の中国の学生たちが,無残に殺され,生き延びるために国を離れていく姿に,涙を流したあの時代の日本の若者の一人だ。

だが,六四の衝撃は極めて大きかったけれども,それは私にとってはあくまでも「よその国」で起きた不幸な悲劇でしかなかった。あの頃の私は,友人たちとの小さな世界と,まもなく足を踏み入れることになる「社会」への期待と不安で頭がいっぱいだった。

もし中国に生まれていたら,あの夜,私は天安門広場に立っていたかもしれない。そう考えたことは幾度もあるが,それは実際には起こらなかった「もしも」の話でしかなかった。そして,いつしかあれから5年,10年が経ち,今年は23年目になるという。もう,あの年のあの夜,私がどこで何をしていたのか,天安門広場で起きたできごとをどうやって知ったのかを思い出すこともできない。





6月4日の夜7時から,天安門事件二十三周年集会が中正紀念堂の自由広場で行われると聞いて,出かけてみた。

台北の六四集会はささやかなものだった。台湾の集会につきものの派手なパフォーマンスはない。自由広場の入り口に,「台湾人権促進会」「華人民主書院」(「台湾青年反共救国団」のもう「青年」ではない方々の姿も)といったグループがテントを張ってグッズやパンフレットの販売をしており,その前に組み立てられたステージで,演説や演奏が代わる代わる行われる。小雨のなか,集会にやってきた人は300-400人ほどだろうか。参加者の大部分は若者で,特に大学生の姿が多い。香港の学生たちも少なくないようだ。あちこちから広東語が聞こえてくる。



会場前方のスクリーン


台湾のこの手の集会の常で,19時に始まった集会は,音楽演奏といった出し物をはさみながら2時間以上も続いた。私は集会前半に30分ほど立ち見をして,いったん会場を離れ,終了まぎわにもう一度,30分ほど立ち見をした。ややタイミングが悪く,二度とも,演説の時間帯よりも,その幕間の音楽演奏のほうを多く聞くこととなった。




1990年代半ばの台北滞在時,自分と同じ20代後半の台湾の友人と天安門事件の話をして,台湾のアイデンティティ,民主主義,自由といった価値に極めて強いコミットメントを持つ彼が,6.4の話になると不思議に冷淡だったことを思い出す。私は驚いて,「私たちと変わらない世代の,似た境遇の人たちの悲劇なのに!」となじるように訊ねたが,彼は「中国はよその国だからね」と苦笑いして多くを語らなかった。

今になって,1989年の台湾ではメディアを通じて「祖国の若者の苦難」「同胞の悲劇」として天安門事件が伝えられたこと,台湾アイデンティティを模索してきた彼らの世代が,六四との距離をはかりかねていたであろうことが,おぼろげながらも理解できる。

彼にとっての六四の記憶は,押しつけられた「祖国・中国」と自分を引き離そうとする時に皮膚に突き刺さった棘のようなものだったのかもしれない。今の私にとっての六四は,たまたま豊かで自由な社会の側に生まれおち,バブルの時代に何不自由ない学生生活を送ることができた自分と,未来を永遠に奪われた中国の若者との運命のめぐりあわせを考えるときに感じずにはいられない後ろめたい思いの古いかさぶたのようなものだ。


学生たちのバンド演奏

今日,この広場に集まった人たちのなかに,彼や私のような40代の姿はほとんどない。ここにいる若者たちの大半は,天安門事件が起きたあとに生まれた世代なのだ。

会場で聞いた学生たちの宣言や,主催団体のホームページ,手渡されたパンフレット等からは,主催者である学生たちが,台湾の主権と「(台湾の)本土価値」を足場として,普遍的な価値としての自由・民主・人権に関心を寄せる立場から,23年前のこの事件に思いを馳せていることが伝わってくる。

   
          「統一か独立かといった政治立場にかかわらず,台湾人は自由,民主,人権という価値を
           ともに信じ,追求している。未来の台湾と中国の政治経済関係がいかなるものとなろ
          うとも,台湾人はみな中国の自由,民主と人権の人権に強い関心を抱かねばならない」

            「私は台湾人であり,台湾は私の国であり祖国である(中略)民主主義と自由こそが
            台湾人が頭をあげ胸を張り,世界から尊重されるよりどころなのであり,台湾人が誇り
             に思う大切な資産であり,台湾人が信じる価値であり生活のありかただ。」

(六四特刊 二十三週年
[香港教育学院会編輯委員會,台灣學生促進中国民主化工作會]より。)

台湾の主権と共有された価値観を空気のようにたっぷりと吸った新しい世代が育ち,台湾という社会との関わりのなかで六四について思いを馳せている。小雨のなか,小さな蝋燭を手に演説や音楽に耳を傾ける若者たちの姿に,あの年のあの夜からの時の流れを思った。


陽明山のカラーの花