2013年7月21日日曜日

今さら読む,『風と共に去りぬ』

『風と共に去りぬ』全5巻を読了した。40代半ばになるまで読まずにきたのだから,これから先も読むことはないだろうと思っていた小説だ。

『風と共に去りぬ』といえば,ガールズ向け小説の代表格。しかも,映画(実は未見なのだけれども)が有名なので,この小説の粗筋は,だいたい知っている。それにこの本は,良くできた娯楽小説だけれども,小説としての奥行きや広がりには乏しいという評判だ。そんな本を,今さらよむのもなぁ・・・。

などと思っていたのに,読むことにしたのは,この本が私にとって「いまさら」である最大の理由-これが私の母の青春時代の愛読書であるという理由からだ。母は今でも,高校時代に従姉妹や同級生たちとともに夢中になってこの本を読んだ思い出をよく語る。ふと「この小説の何が,母の,そしてあの時代の日本人女性の心をそんなに掴んだのだろう?」という興味が湧いて,読んでみることにした。

『風と共に去りぬ』は確かに,読み始めたらとまらない小説だった。南北戦争を舞台に,スカーレット,アシュレー,バトラー,メラニーの間の三角関係と,同性間の奇妙な友情の物語がスリリングに展開されていく。緩急をつけた構成が巧みだし,著者の物語への情熱が全編にみなぎっている。何より,気品ある美青年のアシュレと,究極の色男バトラーから思いを寄せられるヒロインという設定が,10代女子の”妄想”をしっかり満たす強力な筋書きだ。細部までしっかり描かれた歴史小説であることにも驚いた。

原作は1936年出版。新潮文庫版は,大久保康雄・竹内道之助訳[1977]。

読み進めながら,「この小説の何が,1950-60年代の日本人女性の心を掴んだのだろう?」と考えた。まず,これはすでに広く指摘されている点だろうが,女性の視点から,南北戦争による徹底した破壊とそこからの再生を描いたことが,同じような時代を生きることとなった戦後日本の女性たちの心性とマッチしたのだろう。

著者は,レット・バトラーの口を借りて,戦争についてこう語る:「戦争には,ただ一つの理由しか絶対にありません。それは金だ。戦争はすべて,じつは金の奪い合いなんです」(第二巻pp.50-51)。これだけ冷徹に戦争の本質を見極めていたバトラーも,結局は不思議な愛国心に駆られて戦場に向かうのだが,スカーレットはその利己的な性格ゆえに,抽象的な大義にはまるで心を動かされず,最後まで戦争への突き放した視線を失わない。そんな彼女の目から描かれる戦争の荒廃と,戦後の価値観の転倒は,敗戦と復興の時代に生きた日本人たちの経験とシンクロするものだったのではないか。

スカーレット・オハラのキャラクター設定も,実に興味深い。私がヴィヴィアン・リーの姿から連想していたスカーレットのイメージは,「勝ち気で情熱的で高貴な女性が,歴史に翻弄されながら,気高く生き抜いていく」というものだった。

ところが,小説中のスカーレットは,少しも気高くなんかない(ついでにいうと,映画と違って,特別な美人でもない)。むしろ,やたらと虚栄心が強く,徹底して自己中心的な性格だ。目先の利益の計算には長けているが,物事への洞察力や,他人の高潔さ・誠実さを理解する能力は欠けている。しかも,品が悪くてすぐに怒鳴りちらす。行き当たりばったりに,愛のない結婚を繰り返し,生まれてくる子どものことも,邪魔だとしか思わない。打算から妹の恋人を奪い,製材所を経営するという「性別のない」ふるまいをしたうえ,にっくき「北部人(ヤンキー)」にとりいって,南部人の怒りと軽蔑をかう。

だが,スカーレットのこの「食えない」性格-それは,戦争によって生きる気力を失った家族とタラを守るために彼女がまとった鎧でもあるが-こそが,この物語が世代を超えて多くの女性の心をつかんできた鍵なのだろう。読み手は誰でも,彼女のなかに自分の愚かさや欲深さを見いだすからだ。

周りとの摩擦を恐れないあつかましさ,手段を選ばない欲の皮の突っ張り具合。読み手をはらはら・いらいらさせることで,超長編を一気に読み進めさせてしまうこの最強キャラクターは,それまでの女性向けの小説には見られなかった一種の革新的なヒロインだったのではないか?

このようにこの小説は,ヒロインの破壊的なキャラクターと型破りなふるまいを描いており,また驚くほど保守的だった南部の性別規範に挑戦する女の物語でもある。しかし他方で,著者の黒人観といい,物語の帰着先といい,この物語を支える世界観の骨組みは,随分と保守的で,偏見に満ちていて,底が浅いものだとも思う。

やや古い感じもあるけれど,良書です。
特に,黒人の登場人物の描き方や,奴隷制をめぐる描写には,ミッチェル自身の強烈な偏見-彼女はそれを自分の「偏見」だとは思っていなかっただろう-が現われている。この点については,青木富貴子『「風と共に去りぬ」のアメリカ 南部と人種問題』(岩波新書,1996年)が丁寧に論じているので,詳しくは書かない。けれども,この物語にのって,白人支配者に都合の良い「ハッピーな奴隷」「愚かな黒人」観が,戦後日本の女性を含む世界中の若い読者の間に運ばれていったという事実を思うと,ため息が出てしまう。

「ミッチェルの小説は,悪意に満ちたステレオタイプの奴隷を描き,人種差別小説と呼んでもおかしくないほどのものです。・・・しかし,白人でも,黒人でも,日本人でも,あらゆる人種の人たちがこの小説を読んで,たまらまく面白いと思い,自分自身を白人の主人公になぞらえて物語を読み進める・・・・そして,明日は明日の風が吹くとスカーレットのように思うのでです」(青木前掲書中のある黒人政治家の発言,p.95)。
ああ,まったくその通りだ。

シニカルな異端児だったレット・バトラーも,年と共に,愛娘ボニーのために,軽蔑していた南部の名士にとりいるありふれた父親になり,最後は,あれほど嫌っていたはずの故郷へと帰っていく。そしてスカーレットも,母なるタラの大地に向かう。この帰結もまた,メロドラマの帰着先としては実にありふれたものだ。

文学を,国境と時代を超えて互いに影響を与え合う作品どうしのネットワークとしてとらえるなら,『風と共に去りぬ』は,その営みの体系から外れた作品だろう。たしかにこの小説には,優れた小説の登場を新たに啓発するような広がりや深さがない。その系譜をひくのは,せいぜい「ハーレクインもの」とよばれるちょっとエッチな少女向けロマンスのような無数の消費型小説と,あまたの映画,ドラマ,マンガに登場するスカーレット型の高慢なヒロインの造形ということになろう。

けれども,この小説が,1936年の出版以来,80年近く,世界中で読まれてきた(手元の新潮文庫は第62刷!)のは,スカーレット・オハラの異常なまでに旺盛な生命力が,さまざまな混乱や苦しみに直面する人々を励まし,周りからの嘲笑をはねのけて生きる彼女の姿が,多くの女性を力づけてきたからだ。そう考えると,『風と共に去りぬ』は,実に偉大な大衆小説である。

7月半ばに台風7号が台北を直撃。風の威力はすごい・・・

2013年7月7日日曜日

変わりゆく「世界の工場」

11日間の中国出張を終えて,昨夕,台北に戻った。私の中国行きは基本的には台湾系企業を回る旅なので,台湾系企業の二大集積地である広東省南部と上海周辺に足をのばすパターンになる。今回もまず,香港経由でシンセンに向かった。

1990年代半ば,シンセンから東莞,広州へと続くエリアを初めて訪れたときに受けた衝撃は,今でも忘れられない。中国ぢゅうのブルドーザーを集めていっせいに地面を掘り返したのかと思うばかりの無秩序な土地造成,果てしなく続く工場群,宿舎の窓に吊るされた色とりどりの作業服。夜の高速道路を走ると,闇のなかに24時間稼動の工場の灯が無数に浮かび上がり,巨大な不夜城がどこまでも連なっているかのようだった。


台湾系の工場では,昼時に,数千人の従業員が軍隊式に列をつくって食堂に向かう姿や,同じ身長の女性ばかり,視力2.0以上の女性ばかりを集めた生産ラインを組んでいるという企業の話に驚いた。殺伐とした宿舎の室内や,暑い工場のなかで,マスクもせずにスプレー塗装をしている女性作業員たちの姿にも衝撃を受けた。台湾人幹部の案内で工場を見学しながら,「なぜ私は生産ラインのあちら側ではなく,こちら側で,彼女たちを見学しているのだろう?」と問わずにはいられなかった。

一方で,残業が終わったあと,路上に繰り出しておしゃべりをしている女性たちや,腕を組んだカップルの姿は,青春そのものだった。かりに私が四川省の山深い農家の娘に生まれていたら,学校を出たあと,農作業をしながら親の決めた相手と結婚する人生と,同じ年頃の仲間と一緒に沿海部の工場で働くことのどちらを選ぶだろう?とも考えさせられた。


あれから10年以上がたった今でも,中国は「世界の工場」であり,それを支えるのは内陸部からの出稼ぎ労働者たちだ。それでも,今回,東莞や昆山で目にした生産ラインの現場からは,かつて「無制限労働供給的」と形容された中国の労働市場がとっくに様変わりし,企業と労働者が相互に選び合う(*もちろん力関係は圧倒的に後者に不利だけれども)時代が訪れていることがうかがわれた。




出稼ぎ労働者たちの宿舎。窓には洗濯物が干してある。


東莞の台湾系企業にて。以前は女性のみだったというが,今は半数近くが男性。

まず目につく変化が,工場労働者に占める男性比率の上昇と,平均年齢の上昇だ。企業が「管理がしやすい」若い女性労働者を好む傾向には,変わりはない。しかし,若い女性はサービス業に向かうようになっているため,多くの工場が,男性を受け入れ,年齢制限も相当緩めているという。

また,かつてのように全員が宿舎に住みこむ時代も過ぎ,中堅ワーカーを中心に,自由を求めて工場外に部屋を借りて暮らす人が増えたという。かつての労働者らが,給料の多くを実家に送金していたのに対し,最近は給料の多くを自活のために使うようになっているともいう。

超安価なケータイの普及も,出稼ぎ労働者の味方となった。前に台湾企業で聞いた話によると,ケータイの普及とともに,残業の状況(*出稼ぎ労働者は,限られた年限で少しでも多くの収入を得たいと考えるため,残業が少ない企業は敬遠される傾向がある),食堂の食事の質を含む各社の労働条件に関する情報が労働者の間で広く流れるようになり,人気のない企業は人集めにひどく苦労するようになっているという。

その中国製の超安価なケータイ生産を支えているのが,シンセンの華強北市場だ。ここは巨大な電子製品・部品の市場で,携帯電話づくりに必要なあらゆる部品が手に入る。シンセン周辺には,ここで買った部品を組み立てて,超安価なケータイ・スマホを大量につくるメーカーが集積しており,出稼ぎ労働者にこの重要な「装備品」を提供しているのだ。

ケータイの基板,キーボード,各種部品。なんでも売られている華強北市場。
華強北路の表通りは有力ブランドのスマホ売り場に様変わり。怪しい部品市場は裏手に多い模様。

5日目からは,華中地域へ。蘇州一帯,特に昆山市周辺は台湾系企業が多数集積する大工場地帯だが,それでもあちこちに水をたたえた田んぼが広がり,柳の植わった水路が流れている,白壁の民家も,簡素なつくりながら,どことなく豊かさを感じさせる。車窓からのぞくだけだが,民家の家並みをみて,そのなかでの人々の暮らしを勝手に想像するのが楽しい。

杭州では,民家が大きく,色が派手で,あちこちの家に仏舎利状のタワーが載っているのが目をひいた。地元の裕福な人たちの家らしく,タワーは避雷針とテレビ用を兼ねているらしい。また,家ごとに棟の高さを競っているらしい。早い時期から私営企業が発展したこの地域らしい,エネルギッシュな光景だ。


杭州の大きくて派手な民家。

ドーム状のタワーを載せている家が多い。
上海では,静安寺近くのホテルに泊まった。この周辺には,1910-30年代に建てられたヨーロッパ式のアパートがたくさん残っており,現在でも住宅として使われている。最終日,仕事から戻ってから日没まで1時間ほどあったので,散歩に出てみた。

華中路に沿って広がる1920年代の英国式アパート群。

私は中国の住宅制度をよく知らないのだが,いずれも,アパート群のある敷地の一角に国有企業があること,住民の平均年齢が高く,庶民的な雰囲気であることから推し量るに,これらの住居は,中華人民共和国成立後は,国有企業の住宅として人々に分配され,のちに私有化されたものではないだろうか?

路地ではお年寄りが夕涼みし,近所の人たちが立ち話をしていた。高層ビルの谷間に,こんな生活感あふれる空間が広がっていようとは思いも寄らなかった。
愚園路から一歩入る。



華中路の住宅の一角は公的セクター。



最終日は,上海浦東ー台北桃園空港線に乗り,「両岸直行便」を初体験。かなり前に予約したのに,両都市の中心部の空港を結ぶ上海虹橋-台北松山空港線は取れなかった。二階建ての大型ジェット機は,ほぼ満席状態だった。両地を行き来する人の多さがうかがわれる。

11日間の中国出張は,学ぶことが多く,刺激的で,楽しくもあったが,桃園空港に着いて台湾風のまるっこい発音の中国語を耳にしたら,ホッと緊張がほどけた。台北に住んで1年ちょっと。3ヶ月後には私はもうここを去る。でも今このときだけは,私にとって台北は,帰る場所なのだなぁ。


2013年5月31日金曜日

日台接客考


先週日曜の日経新聞「文化」欄(2013.5.26付 28面)で,角田光代さんの「接客今昔」というエッセーを読んだ。

「飲食店や洋服店での接客には,流行がある。バブル期には横柄な態度がはやり,バブル崩壊とともに機械のようなマニュアル対応が,やがて必要以上に丁寧な接客が広がった。最近は『友だち接客』とも呼ぶべき新しい波が現われているようだ」という内容だ。ちょうど,この10数年の台湾の接客カルチャーの変化や,日台の接客観の違いについてボンヤリ考えていたところだったので,面白く読んだ。

「圧縮型の産業発展」を遂げてきた台湾のサービス産業では,日本で順を追って現われた複数の接客カルチャーが同時に出現しているように思う。「必要以上に丁寧な接客」が現われる気配は感じられないが,「横柄型」「機械型」「友だち型」には日々お目にかかる。

こんなおしゃれな洋菓子店も現われた(台中・宮原眼科洋菓子店)

日本のチェーン店も続々進出(統一阪急百貨店)

台湾の「横柄型」は,バブル期日本のような演出がかったものとは違って,もっと単純に横柄だ。「接客が面倒」という気持ちを隠さないだけなのかもしれない。この10年で,台湾の(特に台北の)消費文化は随分洗練されたものとなったが,おつりを投げて返す売り子や,露骨に不機嫌な対応をする店主は,まだ少なくない。

「友達型」には,モダン型と伝統型がある。角田さんが書いていたような,接客の一環として親しく話しかけてくるスターバックスの店員はモダン型で,台湾でも着実に増えつつある。これに対して,「伝統型」は,接客する側が,販売員としての「公」の顔をするりと脱いで,いきなり「私」として接してくるタイプの接客だ。遅めの時間にスーパーで生鮮食料品を買たら,レジの女性に「これから料理するの?今から始めたら9時近くになるよ,疲れるから食べて帰ればいいのに」と言われる。コンビニでハーゲンダッツのアイスを買ったら,「これ高いですよね,本当に値段に見合うほどおいしいですか?」と聞かれる。同じくコンビニでビールを買ったら「あなたがお酒買うの,初めて見た」と言われる。(←以上,いずれも最近の私の体験。)

最たるものは,タクシー運転手だ。「結婚しているか?→彼氏はいるか?→なぜ彼氏と早く結婚しないか?(20-30代向け),「子どもは何人いるのか?→なぜいないのか?orなぜ一人だけなのか?」(30台後半以降向け)等,日本では友人・親戚どうしでも聞かないor聞けない質問が矢のように降ってくることがある。「うるさぁーい!」と叫びそうになることもあるが,こういう時には「運転手さんは?」と聞けばいいのだと学んでから気が楽になった。

相手のプライバシーの尊重を基本とする日本の接客とは違って,台湾では私的な「相手への興味,関心」を示すことが,親しみの表現方法のひとつになっているように感じる。このような友達型接客は,内心はどうであれ建前として,買い手を一段高いところに「お客様」として祭り上げる標準的な日本型接客の発想とはまるで違うものだ。

こんな伝統的な市場もしっかり健在。

台湾の「機械型」として私が真っ先に思い浮かべるのは,「秒速の食器下げ」だ。台湾のレストランでは,使い終わった(ようにみえる)食器をすばやく下げるのが重要なサービスだという通念があるようで,話が盛り上がって食事の手をちょっと休めると,食べかけのお皿を速攻で下げにくる店員さんが必ずいる。それがあまりに続くと,「早く食べて,早く出て行けというサインか」と疑いたくもなる。もう少し,客の食事のテンポを観察して,臨機応変な接客をできないものか。だいたい,かなりの高級レストランでも,最初にいきなりスープやビーフン炒めを出してくるところが多い。厨房もフロアも,お客が料理を楽しむための順番やテンポを考えずに,機械的につくって,機械的に運んでくるのだ。これじゃまるで料理マシーンと皿下げマシーンだよ。

などと考えていたら,先日,台湾の知人から「日本の飲食店は,融通が効かなくて機械的!」という話をきいた。この方の友人たちが,日本旅行の折,街のおそばやさんにグループで入って,「この温かいおそばを肉ぬきで」「このセット下さい。但し小皿の揚げ物は他のものに変えて」といった注文をしたのだが,店主は「できません」の一点張りだったとのこと。

「台湾ならなんの問題もなくできることなのに!」と批判する知人の気持ちも分かるが,「肉ぬきのカレー蕎麦(←という注文だったかどうかは知らないが)」といった注文を口々にされて,呆然と立ち尽くしたそば屋の店主の気持ちもよーく分かる。

しかし台湾では,こういう時こそ,「お客様は神様」なのだ。宴会のメンバーのなかに一人だけベジタリアンがいることを事前に伝えておけば,小皿に別盛りにした食事を,宴会の進行にあわせて適宜提供する。フードコートの飲食店のセットメニューでさえ,組み替えがきくことが多い。お客が食べたいと言うものを柔軟に提供できてこそ,飲食店としてのメンツが立ち,自然と繁盛もするもの,と考えられているようだ。

これは,接客文化の問題ではなく,飲食店オーナーのマインドの違いによるものだが,日本の店が,一部の顧客に融通をきかせて他の客へのサービスとの整合性がとれなくなることをいやがるのに対して,台湾では「来たお客を逃してなるものか」と考える傾向が強い。そのため,従業員の対応というレベルでは日本が,オーナーの臨機応変さという点では台湾のほうが,より柔軟になる。

「お客と売り手」という役割間関係に徹し,すべての顧客に平等に一定レベルのサービスを提供する日本と,お客を手荒に扱ったかと思えば,少々無理な注文にもどんどん答えようとする台湾と。どちらがより洗練された接客文化かと問われれば,圧倒的に日本なのだが,どこから何が飛び出してくるか分からない台湾の接客文化にも,不思議な迫力と底力がある。


台北を代表する繁華街のひとつ・西門町にて


2013年5月21日火曜日

県営観光バスで行く金門島の旅

5月3-5日に,金門島を旅してきた。金門は,中国福建省アモイの沖合,わずか数キロの距離に浮かぶ中華民国(台湾)領の島だ。この島は,1940年代末から1950年代にかけて,国共間の激しい戦闘の舞台となり,その後も長らく軍事統制のもとに置かれていた。2000年代に入ると,中国との「小三通」(アモイ・金門間の直接往来等の解禁策)の拠点となり,国共対立の最前線から一転して,両岸交流の最前線へと衣替えすることとなった。

台湾の友人たちに金門島のイメージを聞いてみたら,「兵役で行くところ」「東南アジアで成功した企業家を生んだ華僑のふるさと」「古い閩南(福建省南部)式の建築がよく残っている」といった答えがかえってきた。中華民国福建省(*金門島と馬祖列島のみから成る)への好奇心もあり,連休を利用して来台した連れ合いとともに行ってみることにした。

1日目は台北・松山空港から9:25発の復興航空のプロペラ機に乗り,約70分で金門へ。空港から直に観光に出るつもりだったのだが,荷物を置きにいったん宿に行くことにした。結果的にこれが大正解だった。

今回,私たちが泊ったのは,島の西南部にある珠山集落の「漫漫民宿」。金門では,行政(国家公園)の主導下で,古くから残る閩南式の建物を保存・修復して民宿にする動きが広がっており,すでに60軒以上の古民家民宿がオープンしているという。私たちの宿も,100年以上の歴史を刻んだ建物だ。

タクシーで珠山集落に着いたとたん,そのたたずまいの美しさに息をのんだ。ため池を囲むように,柔らかな色合いの煉瓦造りの建物が,優雅な曲線を描いた低い屋根を並べている。台湾のどこでも見たことのない,シンプルで均整のとれた風景だ。


ため池を抱くように広がる珠山集落

何棟もの「古厝」から成る漫漫民宿
民宿の共有スペース。1泊目はこの空間を独占した。

 宿のマネジャー・黄さんが,さっそく部屋に案内してくれ,観光プランの相談にものってくれた。当初の私たちの予定は,2日を金門観光に,1日を対岸のアモイへの日帰り観光にあてるというものだった。これを聞いた黄さんが「週末のアモイは混雑していて勧められない。金門島をゆっくり楽しむほうがいい」と言って勧めてくれたのが,「県営観光バス」の利用だった。

島内には,観光バスが4路線走っており,それぞれ,複数の観光地を4時間弱で回れるようになっているという。まずは試しに乗ってみよう,ということになり,13:30金城ターミナル発のB線「古寧頭戦場線」に乗ってみたら,これが予想外に面白かった。これは,4路線のなかで最も「戦跡めぐり」色の濃いハードボイルド系のコースで, ①「金城民防坑道」の体験歩行(金門の市街地には,戦闘時の避難用に地下トンネルが張り巡らされている。そのトンネルを歩く),②和平記念園区(古寧戦史館,中国を間近に望む北山海岸の見学),③慈湖トーチカの見学,という内容だったが,盛りだくさんで面白かった。

というわけで,すっかり味をしめた私たちは,「1日目午後=B線,2日目午前=C線,同午後=D線,3日目午前= A線」と,観光バスの全路線を制覇することとなった。

このバスに乗って回ります。
この県営観光バスは,日本語のガイドブックやネット上ではあまり紹介されていないようだが,金門旅行を考える人には,ぜひお勧めしたいと思う。案内は中国語のみだが,ガイドさんは外国人の乗車にもある程度慣れているようで,中国語を解さないドイツ人カップルもツアーを楽しんでいた。ターミナルで,路線ごとのスケジュールが記されたパンフレットが手に入るので,集合地点とバスの出発時刻さえ押えておけば,中国語のできない人でも問題なく一行について回れると思う。

いずれの路線も,金門の観光資源である戦跡見学と伝統建築・集落見学が組み合わされていて,見応えがある。駆け足での見学なので慌ただしく,どこに行っても後ろ髪を引かれる思いで早足で立ち去ることになるが,見所の多い島内を効率的に見て回れるのは間違いない。

移動の足を心配する必要がないのも有り難い。島内の路線バスは本数が少ないし,タクシーを借り上げるのは高くつく。中国語が分かる人なら,バスの中ではガイドさん,博物館等では解説員の話を聞けるのも楽しい(もっとも,戦闘関係,歴史関係の解説の中国語は,私にはチンプンカンブンだったが・・・)。ガイドさんからは,両岸の軍事的緊張の緩和とともに島内の軍人の数が減っており,政府は軍人に変わる金門の収入源の確保策として大学の誘致(複数の台湾の大学が,中国人留学生の獲得を目的に金門にキャンパスを設置することを計画しているらしい)や観光業に力を入れていること,金門の学校には中国で仕事をしている台湾人企業家の子どもが多く通っていること,などを教えてもらった。

驚かされるのが値段の安さだ。2路線に乗れるチケットが200元(700円),2人だと2割引きになるので,4時間近い充実した観光を,80元(300円弱)で楽しめる。見所の多くがきれいに整備され,入場無料であることも含めて,金門県が(そして中華民国政府が),この島の振興策として観光産業に多大な資源を投じていることに驚いた。

見学箇所のうち,つまらないと感じたのはD線の「自行車故事館」(自転車博物館)だけで,あとはどこも興味深かった。そのなかでも特に印象に残ったところを挙げると,まず,A線の水頭集落。金門は,南洋移民をたくさん輩出した「僑郷」。この村には,成功した華僑が故郷に建てた小学校や,美しい洋館が多数ある。華僑の歴史や洋楼の建築様式についての解説も豊富で,勉強になった。

南洋で成功した華僑が故郷に建てた小学校。

手前はミンナン式,奥は洋楼になっている。

洋楼の窓から。屋根が美しい。
観光のもう一つの目玉は,軍事施設・戦跡めぐりだ。なかでも,かつての軍事秘密基地だった翟山坑道のスケールの大きさと神秘的な地下水路が特に印象深かった。

ガイドさんは,中国の若い観光客から「台湾はどこと戦ったの?」と聞かれることもあるという。

しかし,個人的に最も印象に残ったのは,D線の「特約茶室展示館」だった。最初,パンフレットをみた連れ合いと私は,「なんで金門まできて,茶室を見せられるのか」と内心不満だったのだが,現地に着いてみて心底驚いた。特約茶室とは,なんと軍がもうけた慰安所のことだったのだ! 

金門に軍の慰安所「軍中楽園」が設立されたのは1951年。後に「特約茶室」と名を改め,1990年に廃止されるまで続き,金門島だけでも11箇所の特約茶室があったという。この展示館では,「特約茶室」の歴史を紹介しており,実際に使用されていた部屋も見学できる。後で調べてみたところ,「特約茶室」については,金門県政府から二冊の記録が出ているほか,未成年女子が働かされていたこと,女性たちが劣悪な環境に置かれていたことを詳しく論じたウェブサイト等もあった。今ではこざっぱりと整えられた「特約茶室展示館」だけからでは分からない,過酷な歴史を知ることができる。

1989年の「ウェイトレス(慰安婦)」の価格表。職種,職階ごとに大きく異なることが分かる。
かつて使われていた部屋が公開されている。
軍の慰安所についての記録を県政府がまとめ,施設を博物館として開放し,観光バスのルートのなかにいれる---。この展示館の建設や展示内容をめぐってどのような議論や意志決定のプロセスがあったかも興味深いが,何より印象に残ったのは,事実として存在したものを歴史として記録し,人々の記憶にとどめようとする姿勢だ。軍の島・金門の深い影を覆い隠すのではなく,それをも観光資源として位置づけようとするその姿勢(この主語は,中華民国(台湾)ということになろう)に,不思議な感銘を覚えた。帰り際,ガイドさんに「日本にこういう記念館はあるの?」と聞かれ,「いえ,ないです」と答えながら,なんとも複雑な思いが心をよぎった。

3日目は午前に観光バスに乗ったあと,おいしい牡蠣めんと広東粥の昼食を食べ,金門一の繁華街・金城の街をぶらぶら散策した。古い路地がくねくね走る旧市街をあてどなく歩いていると,突如,荒れ果てた洋楼に行き当たった。金城は,歴史の記憶が幾重にも折り重なった魅力的な街だ。


金城の街には古い洋楼が自然に溶け込んでいる。

対岸の中国領の島は,実際にはこの写真よりだいぶ大きく見える。


歴史的には対岸のアモイと極めて密接な関係にありながら,中国の内戦によって大陸とは異なる歴史を步むこととなった金門。こんにちの「台湾」の一部であるが,日本の植民地統治を受けておらず,台湾本島の人々とは異なる歴史を持つ金門の人たち。目と鼻の先に中国大陸を控えるこの島の人たちは,「閩南人」であるけれども,台湾の文脈でいう「本省人」とはまた異なるアイデンティティや歴史認識を育んできたのだろう。

中華民国在台湾が,このような異質な歴史を刻んできた土地をそのなかに抱えていることに驚きつつ,金門を後にした。


2013年4月30日火曜日

「台湾大車隊」の業界革新: 台北タクシー 今むかし


タクシー会社の「台湾大車隊」が,昨年末に台湾証券交易所で店頭公開を果たしたそうだ。いやー,大したものだ。でも,この会社なら上場にまでこぎつけても不思議ではない。クロネコヤマトやセブンイレブンが日本のサービス産業のイノベータであるように,「台湾大車隊」は台湾のタクシー業界に新風を吹き込んできたエクセレント・カンパニーなのだ。


典型的な「台湾大車隊」の車両。
台湾大車隊の成立は2005年。同業者に先駆けてGSPを利用した配車システムを確立するとともに,タクシー業界に「品質」概念を導入し,加入車両数を急速に伸ばしてきた。加盟車両数はすでに12,000台を越え,年に1000台以上のベースで増えているそうだ。

私も「台湾大車隊」にはよくお世話になっている。私は日本ではめったにタクシーに乗らないので,正確に比べることはできないのだが,「台湾大車隊」の出現によって,台湾の都市部(特に台北圏)のタクシーの利便性は東京より断然よくなったのではないだろうか。「大車隊」は配車の効率,サービスの質(絶対的なレベルというより業界を革新した度合い)という点で,極めてレベルの高いサービス企業だと思う。

実際,「台湾大車隊」には,東南アジアや中国の事業家から技術提携の申し込みが寄せられているそうだ。ただ,同社は,向こう3年は台湾市場の経営に専念し,幹部と人材を育成したのちに海外市場に展開する方針なのだそう((『財訊』411号,2012年11月8日,p.38)。

このマークが目印。

「台湾大車隊」は,いくつもの点で革新的な存在だ。まず,その名の通り,台湾全土に張り巡らされたタクシーネットワークなので,西部のある程度の規模の都市でならば,同じ番号に電話をすれば,どこからでもタクシーを呼べること(*もっとも車は圧倒的に西海岸の大都市に集中しているそうで,地方都市では駅周辺に集中しているらしい)。

そして,規模を活かして高度なシステム化を行い,高い配車効率を実現していること。配車センターに電話をすると,当方の電話番号に対応した前回利用時の乗車地点の記録が自動音声で読み上げられる。前回とは異なる地点から乗車する場合に限って,オペレーターにつながり,配車を受けるしくみだ。オペレータは配車を完了した瞬間にシステムを離れ,割り当てられたタクシーの番号と,タクシー到着までのおおよその待ち時間は自動音声で流れる。利用者にストレスをかけずに,最小限の人員で配車作業をこなすことに成功している。

そのような「効率」にもまして重要な「台湾大車隊」の売りは,「安心して乗れる」タクシーであることだ。セブンイレブン,クロネコヤマトといったブランドが安定したサービスを約束する印であるように,「台湾大車隊」のブランドも,「安全なタクシー」という品質を約束してくれる。車も新しいものが多く,車内も概して清潔だ。


「最も美しい日本統治期の建物のひとつ」とも言われる,台湾大学付属病院旧館。


今でこそ,台湾のタクシーは,基本的には「安心して乗れる」乗り物となったが(*それでも時たま,不幸な事故が起こるので,観光客はご注意!),私が前回,台北に住んでいた1990年代半ばの状況は違った。特に女性にとって一人でタクシーに乗るのは危険を伴うことだった。1996年には,女性運動のリーダーでもあった立法委員(国会議員)の彭婉如さんが高雄でタクシーに乗ったのを最後に消息を絶ち,遺体で見つかるという衝撃的な事件が起こった。この不幸な事件は今にいたるまで未解決のままなのだが,その衝撃は,台湾のタクシーの安全性を高める取り組みへのきっかけともなった。

私もタクシーでは何度も不愉快な目にあったことがある。こちらが外国人だと分かると,遠回りをされたり,昼間に夜間料金ボタンを押されたり。気の荒い運転手さんも多く,乱暴な運転に冷や冷やさせられることも多かった。

業界内での抗争も激しかった。ライバルグループ間での大規模な乱闘事件がしばしば起きていたし,選挙が近づくと,支持政党の旗を挿したタクシーが選挙カーと一緒に行進したりしていた。乗り合わせたタクシーで,様々なアイデンティティ・価値観をもつ運転手さんの話を聞くのは楽しかったが,長々と演説を聞かされたり,絡まれたりするのには閉口した。

2000年代に入ってそんなタクシー事情が急速に改善したのは,台湾の消費・生活文化の成熟,MRTをはじめとする交通インフラの整備,携帯電話の普及といった様々な変化の複合的な結果だろう。特に携帯電話の普及は,タクシーという密室に閉じ込められる乗客に ”SOS発信器”を持たせる効果を持ち,タクシーを使うリスクを大きく引き下げた。同時に,「台湾大車隊」のような配車システムを軸とする大型グループへの加入を後押しし,業界の組織化の原動力ともなった。

今,台北の街中でタクシーを拾おうとすると,「台湾大車隊」をはじめとする大手の系列グループの存在感の高さに驚かされる。また,タクシー運転手の党派性がぐんと薄まったことも実感する。かつてのように,運転手さんから「なに人か?結婚しているか?夫は何をしているのか?月給と家賃はいくらか?」といった質問を矢継ぎ早に浴びせられることも少なくなった。

それにしても,アクの強い個人事業主の寄り合い所帯で,ケンカと政治の気配が色濃く漂っていたあの無秩序なタクシー運転手の世界で,わずか10年足らずのあいだに「台湾大車隊」のような大企業然としたグループが軸となって急速な組織化が進もうとは,いったい誰が想像しただろう?

私が台湾の経済や企業の勉強を始めた1990年代半ばには,しばしば台湾の企業や企業家の行動を語るさいに,その「中小企業的心性」「属人的な信頼関係への依存」「商業主義的性格」といった文化的な側面を強調する説明が用いられた。あたかも設備投資や組織の大型化・制度化への消極性が永続的な傾向であるかのように語られることも多かった。今になって振り返ると,そのような"心性"や"傾向"が経済環境の変化とともにいかに急速に変わっていくものであるか,その可塑性に驚かされる。

板橋・林家花園にて
というわけで,すっかり景色が変わった台湾タクシー事情に15年の歳月のうつろいを重ね合わせていた今日この頃なのだが,変わったものもあれば,変わらぬものもあるようだ。

先日,日本からの来客といっしょにタクシーに乗る機会が続いたのだが,初めて台湾のタクシーを経験した人たちが,みな一様に「こ,怖かったねぇ,今の運転・・・」と凍っている。「あれ,そう?10年前に比べたらずっと丁寧な運転になったんだけれどな・・・」と答えたものの,改めて考えてみると,確かに,ハンドルを握ったがさいご,決して譲り合わない台湾人のアグレッシブな運転ぶりは,この10数年の間,さほど変わっていないような気がする。

うーん・・・MRTのなかでは席を譲り合い,混んだ電車は1本見合わせる心の余裕を持つ台湾の人たちが,車に乗ったとたんに,わずかな隙間を見つけて割り込み,道を譲ろうとしない短気なドライバーに変身するのは,いったいなぜなんだろう?


2013年4月16日火曜日

魂とカネの通り道: 宝塚台湾公演から「我是歌手」まで

先週,今年の日台交流イベントの目玉事業の1つ・宝塚歌劇団の台湾公演を見に行って,思いがけず,思いっきり感動してしまった。スターたちの輝き,振り付けのすばらしさ,魔法のような衣装替えや舞台転換のわざ。何から何までプロの仕事だ。そして,そのプロ意識が「台湾の人たちに喜んでもらえる舞台をつくる」という強烈な使命感に貫かれていることに胸を打たれた。

芝居は,台湾でおなじみの武侠物を元につくられた新作ミュージカル「怪盗楚留香外傳~花盗人」。最後のレビューには「望春風」「月亮代表我的心」「国境之南」といった台湾の歌曲が巧みに盛り込まれていて,会場を湧かせていた。

台湾の観客の反応もとても熱かった。台湾の常で,おもしろい場面ではドッと笑いが起き,美しいシーンでは歓声が上がる。最後は熱烈な拍手と歓声でのスタンディングオベーション。後日,台湾のヅカファンたちがSNSやブログで「(台湾の観客への)誠意が伝わってきた」「日本で見るのとは違って私たちが主役なんだと感激した」と感動を綴っていて,胸がキュンとした。

宝塚歌劇団台湾公演FBページより。

フィナーレの豪華さ,美しさに会場が沸いた(毎日新聞ウェブニュースから写真を拝借)

私はこれまで,「文化交流」とか「スポーツを通じた国際理解」といったうたい文句を目にするたび,「なんだかなー」と思っていた。いかにも役所やマスコミが好みそうな耳障りのいいお題目だ。けれども,ここしばらくの台湾での経験を通じて,白熱したスポーツの試合や,素敵な映画・音楽が国境を越えて共有されていくプロセスには,確かに人と人をつなげていく力があるのだと思うようになった。

「東京物語」台湾版ポスター。

映画もまた,時代と国境を軽々と越える不思議な力を持っている。宝塚観劇の翌・土曜日には,「華山光點」映画館で上映中の「東京物語」リマスター版を見にいった。アン・リー,ホウ・シャオシェンが小津の大ファンなこともあって,台湾の映画ファンの間で小津の名前はよく知られている。台湾では先週,「東京物語」が興行成績トップテンに入ったそうだが,これは日本のクラシック映画の海外公開ではなかなか達成できない成績なのだそうだ。

私は長らく,小津映画の様式美には普遍性があるけれども,そこで描かれる遠慮とはにかみに満ちた人間関係は,異なる文化に生きる人々には分かりづらいのではないか,と思っていた。率直で遠慮のない家族関係の文化を持つ台湾で,「東京物語」の家族の感情世界はどう受け止められるのだろう?と思いながら見ていたのだが,周りの観客と私の,笑ったり泣いたりする間合いがほぼぴったり合うことに改めて驚きいった。どうしてあの時代の日本人の抑えられた悲しみや喜びの表現が,現代の台湾の若い観客たちに通じるんだろう?映画って本当に不思議なものだ。


"帰途列車"より
優れたドキュメンタリー映画には,それまで見えなかったものを見えるようにする力がある。新北市ドキュメンタリー映画館でみた中国映画「帰途列車 The Last Train Home」もそんな映画だった。 生まれたばかりの子どもを老親に預け,四川省から広州に出稼ぎに出て10数年になるある夫婦の物語だ。子どもに進学をさせたい一心で出稼ぎを続ける親と,一度も両親と暮らしたことのない子どもの気持ちはいつしかすれ違い,娘は親の思いに背くかのように自らも出稼ぎへと向かう・・・。中国の何億人もの出稼ぎ労働者が直面してきたであろう苦しみを静かに描いた優れた作品だった。

この映画のなかで,1年に1度きりの帰郷を待ち望む出稼ぎ労働者たちの心のうちを知ったら,列車に向かってがむしゃらに走り,巨大な袋をむりやり車内に持ち込もうとする人々の姿が,単なる無秩序な群衆の群れには見えなくなる。自分もあのなかにいたら,同じように争って走り,叫び,人の背中を押してでも帰郷列車に乗ろうとするだろうな,と思った。


「我是歌手」に出演した台湾のスター・辛曉琪と「立白洗衣剤」の広告。

最後にもう1つ,国境を越えた文化交流にまつわる話題を。

歌謡曲の世界で,先週末,中国と台湾の国境を越えた一大イベントがあった。中国・湖南テレビの歌番組「我是歌手」の決勝戦があったのだ。「我是歌手」は,プロの歌手にステージ上で歌を競わせ,会場の観客の投票で予選を勝ち抜いていくというコンペ番組(元ネタは韓国の番組らしい)。一流のバックミュージシャン,お金をかけた撮影・編集といった番組自体の質の高さもあって,回を重ねるごとに爆発的に人気が高まった。

台湾の歌手は中国でも人気が高い。決勝戦では,7人のファイナリストのうち4人が台湾人歌手だった。その模様を,ニュースチャネルであるTVBS,東森,中天等が大々的にライブで流したのだが,いかんせんその取り上げ方が異様に大きかった。東森にいたっては4時間にわたってライブ映像をほぼを流しっぱなしだったそうだ。中天もニュースの枠で延々と映像を流していたらしい。

元々,これらのチャネルは親中的な色彩が強く,台湾意識の強い人々の間では不満が強かった。そのため「ニュース番組のなかで,ニュースそっちのけで,中国の番組を延々とライブで流すとは何事か」という批判の声があがり,監督官庁の国家通信放送委員会が「ニュースチャネルとしての妥当性や,中国の番組放映に必要な手続きの遵守状況について調査する」旨を表明する騒ぎにまで発展した(*東森テレビはなんと,湖南テレビから「断りなくライブ中継した」と訴えられる方向との報道も! いったいどうなっているのやら・・・)。

とはいえ,この番組の視聴率は高く,テレビ局としては,一部視聴者からの批判や政府からのお小言を受けても十分におつりのくる結果となったようだ。いや,得をしたのは,中国での知名度と出演料がぐんと上がった4人のファイナリストだ,いやいや本当に得をしたのはこの番組の冠スポンサーとなった中国の洗剤ブランド"立白"だ,といった声もある。さらに,野党・民進党の主席がこの番組をめぐる過熱ぶりに苦言を呈して「中国はこうして台湾のなかに,家のなかに,脳のなかに入り込んでくる」と発言し,賛否を巻き起こしている。歌番組が単なる娯楽の枠のなかにとどまらないところに,中国と台湾の関係の複雑さがある。

関係の深い中天テレビの報道を批判した"自由時報"紙に"中国時報"がかみついた。


村上春樹は「文化の交換は『我々はたとえ話す言葉が違っても,基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ』という認識をもたらす(略)。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ」と書いた(朝日新聞,2012年9月28日)。

まったくその通りだ。と同時に,映画や音楽や出版の世界は,それ自体が独立した産業でもある。国境をこえた文化交流の道筋は,魂の行き来する通り道であると同時に,カネが流れる通り道であり,政治的・文化的な影響力が行き交う道でもある。


2013年3月31日日曜日

社会学の社会的効用? 台湾STS学会,再び


3月23(土)~24(日)日に,台湾大学で,台湾STS(science, technology and society)学会の年次大会が開かれた。私は1日目の「東アジア技術論壇」でパネル報告をしたほか,5つの分科会の議論を傍聴した。STSという学問のおもしろさを実感するとともに,日台のSTSの研究事情の違いの後ろにある社会科学の歴史や,分野構成の違いについても考えさせられるた2日間だった。



STSとは,科学技術と,社会・政治・経済システムとの相互作用に焦点をあてる様々な研究の緩やかな集合体だ。2度の大会に参加して,私はこの学問のエッセンスは「科学を社会科学する」ことにあると理解した。

去年の大会参加記でも述べたが,台湾のSTS研究は,総じて批判的,実証的,実践的な性格を持つ。今回の大会でも,公害紛争や医療技術を事例として,自分の身体や生活空間に対する決定権の「蚊帳の外」に置かれることとなった人々に焦点をあてた研究報告が目についた。具体的な事例をもとに,科学技術の「客観性」の政治的・社会的構築性を論じるというアプローチのものが多い。科学技術の「客観性・科学性」のブラックボックスを開ける作業は,環境アセスメント,疫学調査,医学的因果関係といった専門的な知識によって排除される人々をエンパワーするという実践的な含意も持つ。


会場は初めて存在を知った台大・水源校舎。

校舎のなかにいた黒犬。分科会中にワオーンと遠吠えする。
今回の大会の登録参加者数は350人。台湾の学術界の人口規模を考えると,大変な盛況だ。参加者リストをみると,社会学部(社会学系)の研究者が多い。清華大学,交通大学といった理系の大学や医学部の教養科目系の教員も目につく。台湾のSTS研究の主力は社会学者たちだ。

日本の状況はどうか。2000年と古いデータだが,「日本のSTS教育・研究の現状から研究者の専門分野別データをみると,「科学技術史」53名,「哲学」52名,「経済学」43名,「工学」42名が上位を占める一方,「社会学」という専門分野は選択肢にも挙げられていない。51名も該当者がいる「その他」や,36名も該当者がいる「その他文学」に多数の社会学者が紛れ込んでいるような気がするが,「社会学」は,独立した学問分野として選択肢に入ってすらいないのだ。

ここからは,日本の「科学技術と社会(STS)」研究における社会学者の不在,日本の学問分類のなかでの社会学の不可視性という興味深い現象がみてとれる。


学会ポスター。

今回,台湾に滞在して改めて驚かされたのが,社会学の活況ぶりだ。これはおそらく,台湾の学術界がその強い影響下におかれているアメリカの状況を色濃く反映してもいるのだろう。

実践面でいえば,台湾の社会学部は,社会運動のリーダーやメディア記者の輩出源として社会的なプレゼンスを確立しているようだ。この1年の間にも,台湾では,都市再開発をめぐる紛争(士林の文林苑事件),反メディア寡占運動,反原発運動といった社会運動が起きたが,これらの運動には,多くの社会学部の教員や学生たちが参加している。そして彼ら・彼女らの運動は,再開発をめぐる法制度の見直し,旺中グループのメディア事業拡大の阻止,第4原発をめぐる国民党内の意見対立の発生といった具体的な成果を生み出してきた。

研究面でいえば,「批判的,実証的,実践的」という台湾STS研究の性格は,台湾の社会学の性格そのものだ。台湾の社会学徒たちの研究をみていると,彼ら・彼女らが,「社会の主流の価値観や,当たり前とされる物事を疑う視点」「学問的にも実践的にも意味のある問いを設定することの意義」を大切にしていると感じる。ジェンダーの視点も強い。そして,そのような「社会学的思考/志向」が,上述のような社会運動やメディアでの意見発信を通じて,社会とのあいだに相互作用を持っているように感じる。



「木綿花」の鮮やかな季節がめぐってきた。
海外で生活していると,日々の生活のなかで,社会学的リテラシーを問われる場面に出くわす。私自身,台湾の人から日本人・日本社会の「不思議」について聞かれるたびに,自分が日本の社会や文化を社会科学的にとらえるための基礎的な視点を欠いていることを痛感させられる。

日本の社会学が,台湾の社会学のような活気と国際性を持つのかどうか,私はよく知らない。

しかし,台湾における社会学の社会的効用を見るにつけ,また研究領域の多様化や,分野間での望ましい評価基準・発信形態の違いへの配慮の消失といった近年の趨勢を見るにつけ,日本でも,老舗国立大学で特に顕著な「法・経・文体制」を解体して,社会学や政治学といった法・経・文のサブセクターに位置づけられている研究領域にも独立王国を築いてもらって,それぞれ発展を追及してみてはどうか,という妄想がひろがる。

少なくとも,目新しい名前のついた学際的学部を新設するより,社会学部・文化人類学部・歴史学部といった,東アジアや欧米に交流対象となり運営のモデルともなる学部があるような学部を開設することのほうが,日本の文系の研究・教育の国際化と活性化につながるように思うのだが。

もっとも,ある領域を組織として独立させさえすれば,その分野が自然と活性化するという発想自身が,組織の「社会的埋め込み」を無視した,社会学的リテラシーを欠いた発想なのだろうけれども。


STS学会の懇親会にて。