2013年3月12日火曜日

20万人の「素人」たち: 3.9台湾反原発大行進

いったいどこからこんなに多くの人が集まってきたのだろう? 夕方の中山南路を埋め尽くすデモ参加者の長い長い列に,衝撃を受けた。「我反核」の旗を掲げて行進する学生たち,手作りのプラカードを手に一人で歩く女性,「廃核」ステッカーを服に貼った子ども連れの家族。彼らと一緒に歩いていたら,涙があふれそうになって,慌ててほっぺたの内側を強く噛んだ。


「私は台北芸大生,原発反対!」というゼッケン。

若者比率が高かった
3月8(金)~9(土)は台湾にとって慌ただしい週末となった。8日の夜は,WBCの日本vs台湾戦。延長10回,4対3で日本に逆転勝ちを許す結果となったが,日台双方が激戦を繰り広げた両チームをたたえる一夜となった。

明けて9日。この日は,福島の原発事故から2年となる週末にあわせて,大規模な反原発デモが予定されていた。朝から強い日射しが照りつけ,午後2時に集合場所の総統府前広場に着いた時には,初夏を思わせる暑さだった。

会場周辺にはすでにぎっしりと人が集まっている。若い人が多く,家族連れ・友人どうしといった小さなグループの姿が目につく。デモ隊の出発は14:30の予定だったが,予想を上回る人数が集まったため,時間を繰り上げて出発することになった。翌日の聯合報によれば,最初のグループが出発してから1時間以上が経っても,後方のグループは出発できなかったという。


とにかく暑かった。ひ弱な私は出発時と夕方の限定参加・・・
台湾は,福島の原発事故の衝撃を最も深刻に受け止めた社会の一つだ。その理由の一つは,台北の北東・約40Kmで建設中の第4原子力発電所(「核四」)の存在にある。この原発は計画から30年,着工からもすでに10年が経っているが,紆余曲折があっていまだに完成していない。最近も,建設途中での事故が相次いでおり,専門家や工事関係者から,技術的・構造的な問題の根深さを指摘する声が上がっている。すぐ側を活断層が走っているという調査結果もあるし,度重なる建設中止によって工事の質に大きな影響が出ているという指摘もある。

台湾も日本と同様,地震の多い土地だ。しかも,人口が密集する台北圏の近隣地域ですでに2つの原発が稼働している。それに加えて,技術的な問題の大きい第4原発を無理に稼働するようなことだけは,なんとしても避けなければならない--。福島の原発事故以降,台湾ではそんな声が急速に強まっている。

このような情勢のなかで,先月就任した江宜樺・行政院長が,「第4原発の建設中止の可否」を問う公民投票を実施する旨を表明した。島内4箇所で同時に行われる「3.9反原発大行進」の成否は,今後の反原発運動の行方を占う重要なイベントとして,注目されるものとなった。


cafe philo関係者たちの列。
りんご日報ウェブ版(3/9)より拝借(撮影:田裕華)


私が見る限り,このデモは大成功だったと思う。参加者数は,デモ開始後に,全島で10万人(:主催者発表。警察発表では6.6万人)と発表されたが,その後,22万人へと大きく上方修正された。実際の参加者はその何割引きだろうが(*とはいえ,この手の出入りの自由な長丁場のイベントでは,そもそも人数の数えようがない),主催者の予想を大きく上回る人数がマーチに参加したことは間違いない。デモから2日後に民進党の人たちと話をする機会があったのだが,若者を中心に予想を数倍上回る参加者が自発的に集まったことに,たいへん驚いたと語っていた。

私はこの10年ほど,台湾の政治集会を見学しておらず,最近では,去年5月の第2期・馬政権発足時に野党が組織した大規模デモに足を運んだだけだ。そのためこのデモの熱気や規模を過去の同種のデモと比較して測ることはできない。それでも,このデモには,参加者の数という「量的規模」では測れない「質的」な新しさがあると感じた。

特に印象に残ったのが,若者やカップル・家族連れの多さに象徴される自発性だ。ベビーカーを押している人もいれば,中学・高校生の子どもと親という組み合わせも多数参加している。信義エリアで見かけるようなおしゃれな若い恋人たちや女性もたくさん来ている。動員されてやってきたとは思えない面々だ。また,政党が組織する集会では,鉢巻や旗といったグッズが配られるのだが,この日は自作のものを持ってきた人も多かった。反原発のシンボルの旗を身体に巻き付けている人も多かったが,この旗は人気が高く,品薄状態らしい。

台湾の政治集会の特徴ともいうべき祝祭性にも,政党主導のデモとは違う色合いが感じられた。1995-97年の台北赴任時に見学した選挙集会や,去年の反馬政権デモが,一段高くしつらえた固定舞台での出し物を中心とする企画型・動員型だとすれば,この日のデモは分散型のストリートパフォーマンス系だ。

何より,3.9デモの最大の成功は,台湾の政治を特徴付けてきた激しい政治陣営間対立とは一線を画したかたちで,これだけの規模の街頭行動を実現できた点にあると思う。翌日の新聞のなかではデモの扱いがもっとも小さかった保守系の新聞「聯合報」でも,「素人(一般の人々)の街頭行動に新しいページが刻まれた」という標題のもと,この日のデモでは,これまでの反原発運動とは違って,政治家が表に登場せず,NGO,アート界(映画監督や芸能人たち)と一般大衆がマーチを主導したこと,これによって反原発運動が「青陣営(国民党系)vs緑陣営(民進党系)」の図式を越え,新たな市民運動へと発展したことの意義が強調されていた。私もその通りだと思う。

翌日の各紙は「20万人の参加」を大きく伝えた(facebook中央社サイトより。)

デモにはペット連れでやってくる人も多い。
この日の夜,WBCの対キューバ戦で,中華台北(台湾)チームは,0-14のコールド負けというなんともトホホな結果に終わった。でも,もし「市民社会のパワー・国別対抗戦」とか「デモを盛り上げる創意工夫・世界コンテスト」などが開かれたら,台湾チームは多分ぶっちぎりで優勝するだろう。


2013年2月27日水曜日

「映画の神様,ありがとう」

おとといの昼,友人からfacebookメッセージが届いた。「アン・リーがアカデミー賞最優秀監督賞をとった!」

やったあ~!! 私も朝から,落ち着かない気分だったのだ。アカデミー賞なんて,しょせんはアメリカのお祭り騒ぎ。 "Life of Pi(邦題「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」)」が世界中でこれほど多くの観客を魅了していることに比べたら,賞の行方なんてとるに足らないこと。そう思う一方で,アン・リー監督(李安,Ang Lee)が受賞したら台湾の人たちがどんなに喜ぶかと思うと,「オスカーを彼の手に」と願わずにはいられなかった。そして実際,この日の台湾は歓喜に包まれた1日となった。

日中から夜にかけては,facebookを通じて,友人や台湾の多くの見知らぬ人たちが,「李監督の受賞に,涙が止まらなかった」「李安監督という人を私たちに与えて下さってありがとう」と書いているのを目にした。多くの人が「私たちのアン・リー監督」という表現を使っていることにも感銘を受けた。アン・リーはよく「台湾之光 The light of Taiwan」と形容されるが,金色に輝くオスカーを手にした彼の笑顔は,たしかに台湾を照らし出す春の日射しのようだった。


授賞式でスピーチするリー監督(screencrush.comより)

あいさつを終えたリー監督

どの社会にも,政治的な立場や価値観の違いをこえて,国民から広く敬愛されるスターが現われるものだ。最近の日本でいえば,高橋尚子,浅田真央,松井秀喜といったスポーツ選手たちが,「日本の光」というべき存在だろう。彼/彼女らの姿が人々を惹きつけるのは,その栄光が,挫折と挑戦の繰り返しのうえに獲得されたものだからだ。リー・アンもまた,台湾の人々にとってそのような存在だと思う。

 台湾の人々が彼を尊敬するのは,アカデミー監督賞の受賞(「ブロークバック・マウンテン」「ライフ・オブ・パイ」)やベルリン映画祭の金熊賞(「ウェディング・バンケット」「いつか晴れた日に」),ヴェネツィア映画祭の金獅子賞(「ブロークバック・マウンテン」「」ラスト・コーション)の受賞といった輝かしい経歴のためだけではない。

父親の反対をおしきって映画を学ぶために渡米したものの,30歳になっても映画の仕事が見つからず,夫人が生計をたてていたこと。その夫人が,心配した実家の親が夫にレストランを開業させようと用意した資金支援を断り,映画の道を諦めかけた夫を励まし続けたこと。厳格な教育者だった父親との摩擦と劣等感,負い目(*ライフ・オブ・パイのなかで,沈んでゆく船に向かってパイが叫ぶ "I'm sorry" という絶叫や"the whole of life becomes an act of letting go, but what always hurts the most is not taking a moment to say goodbye"といった台詞には,監督の父への思いが重ねられているという)。そして,失敗作におわった「ハルク」のあと,監督業からの引退を考えて父に相談したところ,おもいがけず,父から「鉄かぶとをかぶって前へ突き進め!」と励まされ,長らく心中にあった「ブロークバック・マウンテン」を撮影することになったこと。そんな紆余曲折にみちた道のりを経て,世界的な成功をおさめた今でも,アン・リー監督は,謙虚さと誠実さを少しも失わない。


楽しくも深い大人のファンタジー映画 ,Life of Pi

リー・アン監督の台湾への変わらぬ愛情も,世界での孤立を強いられている台湾の人々にとって大きな励ましになっていると思う。受賞作の「ライフ・オブ・パイ」も,洋上のシーンからインドの動物園や神秘の島のシーンにいたるまで,ほとんどが台湾で撮影されたものだ。そのため,台湾ではこの映画をMade in Taiwanの作品だと誇りに思っている人が多い。

リー監督は外省人二世で,初期の作品では外省人の家庭を多く描いた。しかし,長年アメリカで活躍しているのに米国籍をとろうとせず,「台湾で撮影できるのか」という反対をおしきって,巨額の投資プロジェクトでもあったこの作品を台湾で撮る決断をした彼に対して,「アン・リーは外省人の子弟だから,台湾語を母語としないから,台湾人ではない」という人はいないだろう。親の出身地にかかわらず,台湾を愛し,ここをふるさとと思う人は台湾人であるということを象徴的に示す存在だ。


けれども,アン・リーが台湾の人々に愛されつづける最大の理由は,なんといっても彼の作品が,映画をみる喜びを存分に味わわせてくれる名作ぞろいであることに尽きるだろう。アン・リーは世界最強のストーリーテラー。深みがありながら親しみやすい上質な娯楽作品を次々と生み出してきた才能と努力には,舌を巻くほかない。しかも彼は,成功に安住せず,家族・恋愛コメディから文芸歴史作品,ファンタジーまで,新しいテーマと作風に挑み続ける果敢な表現者なのだ。

その中からあえて私のベスト・スリーを選ぶなら,「恋人たちの食卓(飲食男女,1994)」「ある晴れた日に(Sense and Sensibility 1995)」「ライフ・オブ・パイ(2012)」だろうか。「推手」「ウエディングバンケット(喜宴)」も捨てがたいし,「ラスト,コーション(色,戒)」も忘れがたいのだけれど・・・。

アン・リーの作品には常に,ユーモアのセンスが溢れている,同時に彼は,狂おしい衝動や感情の爆発といった人間存在の激しさ,危うさも繰り返し描いている。「ラスト,コーション」のクライマックスで命の危険を察知したイーが脱兎のごとく逃げ去るシーンや,「恋人たちの食卓」のまじめ一本槍の長女が突然「発情」してしまう場面には,人間の滑稽さへの皮肉まじりの視線と愛情が感じられる。

実は私は一度だけ,アン・リー監督をみかけたことがある。10年近く前にマカオに旅行に行ったとき,肩から「台南一中」(*李監督の出身高校)と大きく書かれた布鞄を下げている男性がいたので,「あ,台湾人だ」と思いながら顔をみたら,なんとアン・リー監督だったのだ。つれあいと私がびっくりして,思わず「あ,アン・リー監督!」と言いながらお辞儀をしたら,監督もあの穏やかな笑顔でぺこりと頭を下げて下さった。ただそれだけの出会いだったけれども,思い出すたびに温かな気持ちになる記憶だ。

オスカーを手にしたアン・リー監督は,開口一番, ”Thank you, movie god!”と天に向かって呼びかけた。私たちもまた,こんなすてきな映画の魔法使いをこの世の中に,そして台湾につかわしてくださった映画の神さまに感謝しなくてはならない。



facebook "少年Pi"ファンページより。

今ちょっと話題の一枚,
オスカーを手にハンバーガーを食べる李監督。




2013年2月18日月曜日

分析すること,されること

中央研究院社会学研究所では,月に1-2度,「金曜セミナー(周五論壇)」という研究会が開かれる。研究所内外の研究者が最新の研究成果を報告する場で,社会学研究所のウェブサイトのほか,複数の学会のHPでも告知されるため,大学の教員や大学院生も参加する。私はこのセミナーをいつも楽しみにしている。

報告を聞くのも楽しいが,その後の質疑応答がおもしろい。台湾の学者は質問の名手ぞろい。彼・彼女らのコメントや質問を聞いているだけで,その報告のどこが脆弱なのか,視点を変えたり材料を足したりすると何が見えてきそうなのかが浮かび上がってくる。質問下手な私にとってはまたとない学びの場だ。


中央研究院(数理大道側入り口より)


フランス人の社会学者Paul さんの報告を聞いたのも,金曜セミナーでのことだった。日本の水俣病と,台湾の二つの公害事件の集団訴訟のプロセスを比較したもので,訴訟の過程での被害者の内的体験,加害者と被害者の相互作用,訴訟への被害者の参与に焦点をあてた興味深い報告だった。

研究報告を聞いて「興味深い」と感じ,好奇心をそそられるのは,自分が話し手と同じく「分析する」側から対象を見ているからである。ところが,質疑応答のあいだに,自分がいつの間にか「分析される」側に立っている-というよりも,分析される側に立たされていると感じていることに気がついた。

そのきっかけは,日本人の歴史的な「国(おかみ)」観が天皇制の歴史と深く結びついているというポールさんの指摘である。これに,聴衆が「フムフム」という表情で聞き入っている。その様子をみたとたん「あれ,マズくないか?」「私,日本人として反論すべきではないのか?」という感情が生まれ,セミナー室に座っている自分が,聞き手の視点から,分析される側にすーっと移動したようにかんじた。

ポールさんの発言を聞いた瞬間,私の心の中では「まじ?」→「出た」→「まてまて,『出た』なんて思ってはいけない」という声が順繰りに響いた。

まず,反射的に湧いてきた感情は「まじ?」という違和感である。台湾と比べたときに,日本の人々と国家機構・官僚の関係が垂直的であり,前者にとっての後者の威信が高いことは,事実だろう。しかしそれを,「天皇制」といきなり結びつけるのは,ちょっと乱暴に過ぎないか? 強固に統合されたスーパー国民国家・日本における「国」と人々の関係は,明治以来の中央集権的な国家機構の形成過程や,司法システム・官僚システムの(曲がりなりの)機能性やそれがある時期まで獲得してきた信認,中央のパワーエリートと地方(特に,水俣のような小さな漁村)に生きる人々のあいだの社会的な資源の格差といった様々な要素が絡み合ってできあがっているものだと思う。むろん,明治以来の国家形成が天皇制と強く結びついてきた点で,日本を理解するひとつの鍵が天皇制にあるという認識は妥当だと思う。ただ,現代日本の社会に生きる一個人の直感として,日本人の「国」「政府」に対する姿勢を天皇制と直接的に結びつける視点は,あまりに安易であるように思われ,強い違和感を感じる。

ここから即座に浮かんできた第二の感想が,「出た」というものである。「天皇制という要因を持ってくれば西洋の研究者には分かりやすいし面白いんだろうな」「日本はやはり特殊な社会に見えるんだろうな」という感想である。

だが,この「まじ?」→「出た」という脊髄反射的感想が,外国人研究者による日本分析への私の偏見を反映したものであることもまた事実である。そして,私自身が外国研究をなりわいとする身でありながら,外国人による日本分析に対して即座に「出た」という感情を抱いてしまったことを,私は恥じずにはいられない。

ポールさんの観察は彼のフィールドでの経験を基礎としているものだ。水俣病の患者さんたちと直接話したことがない私が,ただ「私も日本人である」というだけで,彼の観察に反論できるわけではない。

それに,「私を含む多くの日本人がそうである(そうではない)」という反論じたい,意味をなすものではない。研究する者は常に,分析対象のもつ多様性と向き合うことからスタートしなければならない。しかし,研究がある段階にいたれば,(モノグラフの執筆を別として)必ず,分析対象をひとくくりにしてそれについて語ることが求められる。だからこそ,分析対象の範囲の決定という問題が重要になる。その時に,分析対象を理解する鍵となる要因やロジックが,100個の観察値や回答数の平均値のなかに見いだされるとは限らない。時に,その鍵は,100の回答のなかの1個か2個の回答のなかに,現われるものだ。そこから導かれた説明のロジックは,「私はそうは思わない」という大多数の分析対象者に強烈な違和感をもたらすものとなる。

私がポールさんの日本社会への認識を「正しくない」と批判するなら,それは,「日本人である私が違和感を感じるから」という理由によるものであってはならない。彼がフィールドで見たもの,聞いたもののなかから,分析上の「鍵」を抽出するうえでとった手順の妥当性や,彼の直観がどれほど豊富なフィールド体験に裏付けられたものであるのか,ステレオタイプ的な日本認識への批判を経たものであるかを問いかけることからはじめねばならない。また,日本人の国家観を天皇制と絡める視点が,結果的に検証不可能な(あるいは検証を拒否する)テーゼとなってしまっている可能性-私にはそう思われるのだ-を批判的に検討しなければならない。そのためには,おそらく,「検証可能性」とは何か,という議論から始めなければならないだろう。

しかし悲しいかな,私の語学力では,そんな問題を提起することなど到底できないーー。たとえ途中で立往生しても,思いきって発言をする度胸だけでも持たないと,在外研究に来させてもらっている意味がないんだぞ,と自分に言い聞かせながら,スゴスゴとセミナー室を後にしたのであった。


裏の小山からキャンパスを見下ろす

2013年1月21日月曜日

寒さに強い台湾人 vs 暑さに強い日本人


台北に遅い秋風が吹き始めた昨年11月ごろ,突如,街中に厚着女子の群れが現われた。昼間は20度台後半まで上がる日もあるのに,ダウンジャケットを着たり,ロングブーツを履いたりしているのだ。

台北在住の日本人女性と話すたびに,「こんなに暖かいのになぜマフラーを巻く?」「ロングブーツを履いて足が蒸れないか?」と疑問を語り合った。


室内でもニットの帽子やダウンコートを着たままの人が多い。

その後も,厚着女子の勢いはとまらない。

12月に入り,雨の降る日が増えて平均気温がじりじりと下がってくると,長いウールマフラーに顔を埋めたり,ニット帽をまぶかにかぶったりしている女性を見かけるようになった。寒い,といっても,最低気温は10度,日中は20度近くまであがる。あんな格好をしたら,芽が出てしまうのではないか,と心配になる。



冬には犬にも服を着せる人が増える。

というわけで,さすがに南国・台湾の人たちは寒がりだなぁ,と思っていたのだが,1月になってはたと,実は,台湾の人たちが寒さに大変強いことに気がついた。

1-2月の台北は,大陸から繰り返し近づいてくる寒冷前線に覆われ,周期的な寒さに見舞われる。しかも,寒波は雨とセットでやってくる。そして,台湾では基本的に室内には暖房がない(私のいる研究所には暖房があるのだが,10度未満にならないとONにならない)。寒波+雨+暖房なし,という3条件がそろうと,温度計は10度を越えていても,体感温度は相当下がるのだ。

特に,私の研究室のように北向きだったり,机と窓の距離が近かったりすると,足元から湿った冷気が上がってきて底冷えがする。日本なら確実に,総務課に文句が殺到する寒さだ。

しかし,不思議なことに,台湾の人たちはこの寒さに,少なくとも私よりよほど順応している。というか,さすがに寒いとは感じているようなのだが,コートやダウンベストを着こんで平然と仕事をしている。

だが,暖房の効いた日本の職場で冬を過ごしてきた私は,コートを着てパソコンを打つのがどうにも落ち着かない(実際問題として,肩が凝る)。仕方なく,ショールをはおり,膝かけをしながら仕事をしていたのだが,ついに風邪を引いてしまった・・・・。


小籠包で有名な「鼎泰豊」。行列客のための屋外ストーブがある。


寒波が去ればポカポカ。でも寒い時は寒い!


というわけで,この週末は,風邪でぼんやりした頭で「なぜ台湾の人たちは,外ではあんなに厚着をするのに,室内の寒さにああも強いのか?」と考えてみたのだが,すぐに有力な仮説が思い浮かんだ。

台湾人は,夏の強烈な冷房ざんまいのなかで,室内の寒さへの耐性を獲得しているに違いないのである!

台北で過ごした15年ぶりのこの夏,私は冷房にひどく苦しめられた。とにかく,オフィス,図書館,レストラン,映画館,どこに行っても冷蔵庫のようなキンキンの冷やしぶり。灼熱の太陽の下から室内に入ると一瞬心地よいが,ものの10分もしないうちに,体中に冷気がしみこんできて,骨まで冷えるような寒さに苦しめられる。

だが,台湾の人たちは,この強烈な冷房が一向に平気なのだ。私が「寒い」と言うと,多くの人が「確かにそうだ」と同意するし,冷房の下で上着を着ていたりする。しかし,冷房の温度を上げようというアクションにはつながらない。台湾でも反原発運動の機運が高まっている折り,少しは冷房温度を上げたほうがいいと思うのだが。

そもそも,冷房についての認識が日本とは違う。日本では夏になるたび,新聞やネットニュースで「冷房温度をめぐる職場内・家庭内での男女の攻防」や「冷房病に苦しむ女性たちの声」が取り上げられ,長時間の冷房が身体によくない,という認識が広く共有されていると思う。

しかし,台湾ではそもそも「冷房病」という概念がないもよう。何人かの友人にその話をしたら「初めて聞いたよ,何それ?」といぶかしがられる始末。

そして,「あなたは日本人,しかも東北出身なんだから,寒さには強いんじゃないの?」と不思議がられ,「日本人は暑さに強いねぇ」と誉められる始末。



雨,雨・・・(淡水中学校にて)


そういえば,東京から300キロ北にある私の実家でも,冬になると二重窓のサッシのなかで気前よく石油ストーブを焚き,東京の人々よりよほど暖かい暮らしを過ごしている。寒いところの人が寒さに強く,暑いところの人が暑さに強い,などというのは,グローバル資本主義が到来する前のはるか昔のはなし。今や,暑いところの人は寒さを,寒いところの人は暖かさを求めて,日々,石油を盛大に燃やし続けているのである・・・。

さて,冒頭で触れた台北の厚着女子たちの謎。

予想されたことではあるが,彼女たちの厚着は,「冬の装いへの憧れ」の表れのようだ。沖縄出身の友人が,「手袋をはめたりストールを巻いたりするのに憧れた」と語っていたことも思い出した。人はなぜか,経験したことのない暑さや寒さに憧れるもののようだ。

いや,しかし,台北女性の厚着は,「伊達の厚着」ではないのだった。冬の台北では,室内でこそ,しっかり着こまなければならないのである! と,風邪薬を飲み干しながら,自分に言い聞かせた。




2013年1月13日日曜日

香港ぶらり一人旅: コスモポリスの動的平衡


2013年最初の月も,あっという間に半分が過ぎてしまった。

年を重ねるとともに「去年今年貫く棒の如きもの」(虚子)という思いが強くなるうえ,旧正月を盛大に祝う台湾では,西暦の新年を迎えても特に改まったあいさつを交わすわけでもなく,正月気分が盛り上がらない。それでも,新しい年の始まりには,自然と気持ちが引き締まる。

私の台湾生活も,折り返し点を迎えた。残りの9ヶ月の台北生活を実り多いものとするよう,一日一日を大切に過ごしていきたい。このブログも,一月二回の更新をめやすに,細々とながらも続けていきたいと思う。

おおみそかは,友人に誘われて自由広場の反・メディア独占運動のカウントダウン集会に参加した。


さて,年末,思い立って香港に2泊3日の旅行に行ってきた。目的はただひとつ。大好きな香港の空気をたっぷりと吸って,プチ充電をすること。

出張も含めれば,香港に行った回数は20回を下回らないと思うが,私の香港旅行は,毎度同じコースを同じように歩き回る究極のワンパターンである。

スタートはチムサッチョイのチュンキンマンション。ウォンカーウァイの「恋する惑星」で有名になった,安宿の集まる雑居ビルだ。

チュンキンマンション。随分きれいな外観になった。

1-2Fにはインド系,中東系の店が集まる。
続いて,カオルーン側からスターフェリーに乗って,香港島の景色をぼんやりと眺める。

昼の部。

夜の部。

私はスターフェリーから眺めるこの風景が大・大好きだ。こんなに魅力的で決定的な顔を持った都市は世界に二つとないと思う。

夜景も美しいが,ビル一つ一つの表情がよく見える昼間の風景もすばらしい。ビクトリア湾と切り立った花崗岩の岡に挟まれ,水際ぎりぎりまで迫り出した高層ビル街のスカイラインをみるたび,「都市」という人工物のもつ凄みとはかなさに,胸がしめつけられる。晴れた日はもちろん,霧のなかでぼうっと霞んだ香港サイドの風景もなまめかしい。

香港島に着いたら,ミッドレベル・エスカレーターに乗っていちばん上のロビンソン・ロードあたりまで上がり,帰りは,上環(ションワン)に向かってぶらぶらと下りていく。

長い長~いミッドレベルエスカレータ-。何度のっても楽しい!
この一帯は,金融街で働くぱりっとした服装の香港人や欧米人,世界中から集まってくる観光客,路地裏で暮らす人々が行き交う,国際色豊かな香港らしいエリアだ。

島側は坂だらけ。

上環まで下りたら,トラムに乗って,終点のノースポイントまで向かう。トラムでは二階,できれば最前席に座りたい。途中下車して,ビクトリア・ピークに登るというのも私のお上りさん旅行には欠かせないポイントなのだが,今回は曇天が続いたのでパス。

華やかな車体広告が楽しいトラム。

東へ向かうほどに庶民の街となり,さいごは市場のなかに突入するトラム。

福建人が多いというノースポイントの街。中央がトラムの線路。

夜は,ジョーダンから,ヨウマティ,モンコック一帯を散歩。世界中から集まってきた観光客と香港の人々とがおしあいへしあいする夜の街は,「るつぼ」としての香港を実感する空間だ。

「インファナル・アフェア」ファンならピンとくる!?この風景@上海街。


ネーザン・ロードは宝飾店だらけ。周生生と周大福の二大チェーンが勢力争い中?!

ザ・金の首飾り。
こうして歩き回ってみると,香港と台北は実に対照的な都市だと改めて思う。なのに不思議なことに台湾の人たちは,口を揃えて「香港は台北と似ているから観光に行ってもつまらない」と言う・・・大声で叫ばせていただきますが,香港と台北はまるで違いますっ!!

香港が,地形・建物のつくりという点で,世界でもまれなほどの垂直的な空間構造をもつ都市であるのに対して,台北は横長で水平的なつくりを持つ町だ。

香港が,世界中から集まってくる観光客やビジネスマンがせわしなく行き交うコスモポリスであるのに対して,台北は(そして香港に比べれば東京も)いたってローカルな性格の強い生活都市だ。

人々の歩く速度も,レストランやお店の従業員の態度も,ビジネスマンの服装も,香港と台北とはまるで違う。

暮らすなら,きっと台北のほうがずっと住みやすいだろう。相互扶助の精神,包摂的な社会への意志,経済格差の相対的な小ささなど,香港に比べると,台湾は格段に強い凝集力を持つ社会であるように思う。

けれども,香港というメトロポリスが放つ輝きもまた強烈だ。近未来的なのに世紀末的。常に変わり続けているのに,少しも色あせることのない華やかさを保ち続けている街だと思う。


開発が進むウェスト・カウルーン。

この20年の間に,カイタック空港が消え,九龍城が消え,セントラルのスターフェリー乗り場も一変した。ホテルやレストランでは英語に変わって北京語が通じるようになった。アジア人観光客の主力も,日本人から中国人へと移り変わった。ICCができて,かつては香港サイドの顔だったHSBCやシティグループの美しいビルが埋もれてしまい,香港島の美しいスカイラインのバランスも変わってしまった。

何より香港の社会が,中国からの人の大量流入によって強い負荷を強いられ,政治システムや教育を通じて内側から中国への同化を迫られている。

けれども,一観光客の目に映る,冷たく光り輝く宝石のような香港の魅力は決して色あせてはいない。

何年か前に,福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』を読んで,人間の生命は,分子レベルでは絶え間なく入れ替わっているのに,その流れは全体としてひとつの統一的な秩序のもとにある,という「動的平衡」の生命観にであったときには新鮮な驚きをおぼえた。

都市もまた,「動的平衡」の最たるものであるとも思う。日々,こんなに大きく変わりながらも,世界屈指のコスモポリタンとしての香港の魅力は健在である。都市という生き物のもつ不思議なintegrityに驚かされる。

ちなみに,香港の魅力は,B級グルメの楽しみにもある。女性の一人旅でもごはんに大して困らないのが,香港や台湾のすばらしいところ。というわけで,気分転換にぶらり旅に出たい方には,香港を強力推薦いたします!



和味生滾粥@呉松街75號の焼き魚入りお粥。美味!!

麥("不"の下に"大")雲呑麺世家@ウェリントン街77號。えび雲呑が麺の下に隠れているところが奥ゆかしい。池記の雲呑麺も美味だった。

太興焼味餐廳@科学館道。肉食系中年女子の大好物。






2012年12月21日金曜日

「英雄」を求める技術システム


台北の冬は,雨の季節だ。繰り返し近づいてくる低気圧に覆われるたび,冷たい雨が降り注ぐ。15年前の滞在経験から冬の陰鬱さは覚悟していたけれども,今月に入って降り続いた長雨にはかなり参った。


雨にぬれて輝く巨大な葉っぱ。木柵・政治大学にて。

心にかびが生えそうな気分になっていたので,今日は久しぶりの快晴になったことが本当に嬉しく,お昼に中央研究院のキャンパスのなかをぐるぐる歩き回った。

南港山脈の美しい稜線を眺めながら,福島の山々のことを思った。そして,読み終えたばかりの『死の淵を見た男:吉田昌郎と福島第一原発の五百日』(門田隆将著,PHP研究所,2012年)のことを考えた。


PHP研究所 HPより。



題名の通り,この本は,過酷な事故に見舞われた福島第一原発の現場の人々の3.11直後からの数ヶ月にわたるドキュメンタリーである。副題には吉田所長の名前が挙げられているが,吉田氏というカリスマ的な人物だけに光をあてているわけではない。紙幅の多くは,原子炉建屋に突入した作業員,放水による冷却作業に携わった自衛隊員,協力企業の人々といったあの壮絶な現場で働いた人々の生の声の紹介に割かれている。

これは,「福島フィフティーズ」を含む,幾百人もの無名の英雄たちの物語だ。けれども,英雄とは何なのだろう?私たちは彼らの勇気と責任感を,遠くからあがめ,称えるだけでよいのだろうか?

福島第一原子力発電所(2012/3/12朝日新聞ウェブより)
 


昨晩,Cafe Philo(慕哲珈琲)で「社会は英雄を必要とするか?」という座談会が開かれた。学生運動や社会運動が盛んな台湾では,これまで,幾人もの社会運動や政治運動を象徴するヒーローが生まれてきた。

席上,あるパネリストが「英雄とは社会的なプロセスである。英雄は社会が必要とし,生み出し,その地位に押し上げ,しばしばそこから引きずり下ろす存在だ」と発言した。ああ,その通りだ,と思った。

吉田所長を含め,3.11後の福島第一原発の現場で命がけで働いた人々は,英雄になることを選んだわけではない。彼らは英雄になるほかなかったのだと思う。彼らという英雄を必要としたのは,原子力発電という,いったん重大な事故を起こしたら瞬く間に国家レベルの危機を引き起こし,人々の故郷を破壊してしまう巨大で残酷な技術システムだったのではないか?


Cafe Philoでの討論会のようす。
あの日まで,ごく普通のサラリーマンであり,ありふれた夫・息子・父であった人々が,大規模余震や再度の津波の襲来の可能性があるなか,線量計が振り切れるほど汚染され,すべての計器が止まった原子炉建屋に突入し,バルブを開き,メーターを確認し,冷却に向けた作業を行い,最悪の危機をその一歩手前で食い止める--。あの事故現場で命がけで働いた人々の勇気と責任感には本当に心打たれる。

しかし,この人たちの勇気と責任感は,原発という技術システムとそれを支える企業システムが,プラントの第一線を預かる人々に求めた英雄的な強さの現れでもある。そしてその巨大な技術システムは,本質において,戦争と非常によく似た構造を持つものであるように思われる。

この本で描き出されている福島第一原発の現場の姿には,疲労困憊した人々が所狭しと身を横たえていた免震棟の風景が「戦場のようであった」という比喩を越えて,戦争における国家と個人の関係によく似た残酷な構図が重なる。人々が「国が滅びるか,自らが滅びるか」の二者択一を迫られる点で,そして危険へのコミットメントを求める装置として「東電社員であること」「年長者であること」「管理職であること」といった位階システムが人々の行動を強くしばる点で,過酷事故下の原発の現場は,戦争の現場と極めてよく似た場であったのだと思う。


この本には勇気ある人々の物語がたくさん出てくるが,私がいちばん心を打たれたのは,事故直後の免震棟の中で作業員の世話やロジスティックスに奔走した佐藤眞理さんの言葉だ。3.11の後,極限の緊張状態に置かれ,「いろんなものが麻痺していた」という彼女が本当に泣いたのは,8月頃のことだという。

"私たちは,いろいろ復旧で誰もいない町の中を通って行くんですよ。本当に牛とかが死んでいたり,キツネとかが出てきたり・・・・骨と皮だけになってね。(略)あれ,あの尻尾,キツネだよね,って言いながら,持ってたあんぱんをあげたんです,それを見てたら,あんまり痩せて,哀れで。私,その時,もう本当に突然,バーっと涙が出てきたんですよ。人間だけじゃなく,動物まで,こんな目に遭っているということが,この土地一帯をこんなことにしちゃったって。そういう生き物が苦しんでいるのを見た時に,地元の人が事故で受けた被害の大きさがより胸に迫ってきて,本当に泣けました。"(一部略,pp.310-311)
戦場の極限状態から解き離れたときに佐藤さんを襲った悲しみと挫折の深さ,そして彼女を打ちのめした福島の山河の荒廃に,涙が出た。



冷たい雨の中でも花が咲き乱れる台北の冬。木柵にて。


改めて思う。原子力発電という技術システムは,いったん事故を起こしたときには,国と故郷を根こそぎ破壊し,その破滅の程度を少しでも小さくするために,その現場で働く人々に自らの肉体を犠牲にすることを迫るシステムなのだ。私たちは,他の方法でもつくりだせる電気というものを得るのに,どうしてそのような技術システムに頼り続けねばならないのだろう?

2012年12月13日木曜日

「子どもを生む花嫁さん募集します」


古新聞を整理していたら,こんなスゴい花嫁募集広告をみつけた。聯合報の一面右上,題字の真下に,赤字で婚婚婚婚婚婚・・・・と描かれた囲み枠があり,こう書いてある。
「結婚相手募集:①ある男性が「結婚し,子どもを生む」女性を必要としています。21-39歳,未婚のすらりとした美しい女性。②健康であること。③身長157センチ以上,ウェスト26インチ以下。色白,容貌端麗。④籍貫(父方の出身地)および学歴は不問(博士でも可),⑤(略)。⑥働いている人でも失業中の人でも構いません。」
続いて青文字で
「お医者さんによると,40-50歳(更年期)の女性は月経がなく,子どもを生むことができません。従って私は39歳以下の女性をめとって『子どもを生んでもらいます』」
 
とある。

聯合報 2012年10月27日 1面掲載。



こんな花嫁さんを募集しているご本人はというと,
「当人の条件①10数個の不動産,高級車を所有。貯蓄あり,安定した生活。②職業,結婚写真専門フォトグラファー,写真コンテストで7度の入賞歴あり。③身長170センチ,70キロ。健康,ハンサム,気品あり。(略)⑤道理をわきまえ,温厚で善良(他)。⑥本省人,63歳過ぎ(見た感じは40ちょっと),離婚歴有り,一人暮らし。」
だそうだ。




12月に入って雨の日が続く。それでも街角の緑はこの濃さ。



うーん,何ともえげつない衝撃的な募集広告ではあるが,ここまで堂々とされると,なんだかあっぱれ,という気になってくる。

しかし,「63歳過ぎだが見た感じは40歳ちょっと」という自己申告も,女性に「157センチ以上,ウェスト26インチ以下」を求める指定の細かさも,すべてが大変気になる記事なのだが,最も気になるのは,この男性が子どもを得ることを目的に女性を募集するという『借り腹宣言』をすることの意味だ。

「40-50歳の女性は月経がなく,子どもを生むことができません」という青字の説明が間違いであるように,39歳以下の女性ならば必ず妊娠すると決めつけるのも間違いだ。この男性は,めでたく39歳以下の女性と結婚しても,子どもを授からない場合には,結婚を解消するつもりなのだろうか? 望み通りに子どもが生まれたとして,妻と離婚することになったばあいに,母親に子どもの親権を持たせる可能性や,母と子どもの関係継続を認め尊重する考えを少しでも持ち合わせているだろうか?

妊娠・出産という身体機能を利用するために女性を「必要としています」というこの広告には--奇妙なおかしみとともに--心がざわざわと波立つものを感じずにはいられない。


杭州南路にて。


でも,このお金持ちでハンサムだという結婚写真専門フォトグラファーの彼も,願いをかなえてくれる女性を探し求め,結婚するまでのプロセスで,人と人とが一緒に生きていくということについて思い悩んだり,新たな境地にいたったりするかもしれないなー。いやしかし,この募集広告を見る限り,それを期待するのはムリそうだなー。

などとお節介きわまりない妄想にふけっていたら,ふと,タクシー運転手のCさんの悲しそうな顔が浮かんできた。

先日,いつものタクシー会社に電話をして迎えに来てもらったタクシーに乗り込んだら,二月ほど前に乗ったCさんの車だったのだ。

前回は,台北市郊外のあるメーカーまでの長い道すがら,Cさんと,20歳年下のベトナム人の奥さんの話を長々と聞いた。写真を見せてもらった奥さんは,華やかな南国美人。「どうしても孫の顔を見たい」というお母さんの願いで,ベトナムへのお見合いツアーに参加し,結婚して10年。二人の娘が生まれたが,奥さんは数年前から家を出てベトナム人の男性と暮らし始め,たまに帰ってくるだけだという話だった。

密室のなかでの一期一会(そうではなかったのだが!)ゆえか,Cさんは饒舌だった。「そろそろ離婚するほかないかと思うけれど,別れたくない」「でも,あっちがもう,うちのお袋のこともオレのこともイヤだというからね。姑嫁関係がとにかく最悪だから」と言う。お母さんとは別居できないの?と聞いたら,子どもたちの世話をするのがCさんのお母さんである以上,妻をとるか母をとるかと迫られたら,母をとるしかないという。

数ヶ月を経て,Cさんの車にまた乗ることがあろうとは思わなかった。さっそく「奥さんとはどうしました?」と聞いたところ,その後正式に離婚したという。「まぁ子どもが二人できたからいいんだけれどね」「多分,あっちはあの男と結婚するんだろうけれど,詳しく知りたくないね」。「人生は思い通りにいかないもんだねぇ。」

子どもを生んでもらうために探し,一緒になった奥さんへの未練を語りつづけるCさんの姿に,それぞれの思惑から国境を越えて結婚することとなった男女が,長い月日をともに重ねるなかで育んだのであろう不思議なえにしを思った。